第282話 病院で診察

 リツコさんが食事を始めた途端に気分が悪くなったらしい。脱兎のごとく洗面台へ駆けて行った。洗面台に突っ伏しているので背中をさする。


「ウエェェ……気持ち悪い……ううっ……」

「大丈夫?」


 一緒に暮らし始めて数か月が経っている。結ばれて数か月間、俺達は何度も愛を確かめ合った。睾丸炎の後、検査結果を見た医師に子供が出来る可能性は琵琶湖に浮かべた笹船を上空から見て発見するような確率だと言われた。奇跡の様な確立だ。だが、もしかすると奇跡が起きたのかもしれない。


「リツコさん、もしかしていつもと違う物を食べたいとか無い?」

「お……お……」


 真っ青になって相当気分が悪い様だ。『おじや』だろうか、それとも『お粥』だろうか。もしかすると『オレンジ』だろうか、酸っぱい物だろうか。


「お?」

「お肉……」


 お肉を食べたいとは……いや、女性の体は神秘の塊だ。気分が悪くなるとお肉を食べたくなる場合があるのかもしれない。


「じゃあ、お肉焼こうか?」

「でも気持ち悪い……今日は寝る」


 食いしん坊万歳のリツコさんが食事をせずに寝るとは相当気分が悪いに違いない。


「お風呂はどうしよう、入ってから寝るやろ?」

「シャワーを浴びてから寝る……ううっ……」


 シャワーの為、ボイラーに火を点けている間もリツコさんは洗面台に突っ伏していた。


「今夜はリツコさんの部屋に布団を敷こうか? そのほうが落ち着くやろ」

「寂しいからイヤ、一緒に寝て。抱っこして寝て」


 お湯が出るようになり、シャワーを浴びたリツコさんはモコモコのパジャマに着替えて布団へ潜り込んで行った。相当具合が悪いらしい。明日は病院へ連れて行こうと思う。


「リツコさんによそった分は……食っとくか、勿体ないしな」


 久しぶりに独りで食べた夕食は味気なかった。俺一人が入るのに湯船に湯を張るのも勿体ない話なのでシャワーを浴びて布団へ入った。


「中さん、抱っこ」

「ん、抱っこ」


 熱は無い様だ。風邪やインフルエンザではないと思う。


      ◆      ◆      ◆


 翌朝、バンのリヤシートを畳んで毛布を敷き、簡易ベッドの様にしてリツコさんを寝かせた。目指すは高嶋市民病院。寝不足でフラフラになったリツコさんを診察に連れて行く。夕食後、しばらく眠っていた俺達が異変に気付いたのは日付が変わった頃だったと思う。受付を済ませ、名前を呼ばれた俺達は各々医師の診察を受けた。そう、リツコさんだけではなく、俺もだ。


「ノロ(ウイルス)でしょうね、点滴を打つくらいしか出来ませんねぇ」

「はぁ、そうですか」


 布団に入った後の俺達は悲惨だった。リツコさんが何度か洗面台やトイレへ行くのを心配していたら、何と俺まで気分が悪くなってきたのだ。それだけではない。お腹の具合が悪くなり、吐くわ下すわで二人ともトイレと布団の往復を繰り返した。


「リツコさんは家のトイレを使って。俺は店の方に行く」

「うう……お腹痛ぁい」


 フラフラになりながらトイレと布団の往復を繰り返して、気が付けば明け方だった。朝一番でリツコさんをバンの荷室に寝かせて、何とか病院へたどり着いて現在に至る訳だ。


「大島さんはアルコールで被れたりは無いですか」

「ありません」


 消毒された腕に鋭い針が突き刺さる。俺は注射が大嫌いだ。だけど男の子だから泣かない。


「はい、じゃあちょっとだけチクっとしますね」

「はい~」


 点滴が入れられてボ~っと天井を見上げていたら看護師さんから声をかけられた。


「奥さんが寂しがってますからお隣にしましょうか」

「あ、そっちに行きます」


 断る理由もないのでリツコさんと並んで点滴をしてもらう事にした。気分が悪いわ腹は痛いわ眠いわだけど二人でいると何となく落ち着く。


「ねぇ、中さん」

「何? 病院やし小さい声でな」


 ボンヤリしながら点滴が落ちるのを見ていた。半分寝ている様なフワフワした感じがする。昨夜はほとんど寝ていないのだ。よくこれで市民病院まで運転出来たものだと思う。


「ごめんね」

「ノロやし仕方ないで、リツコさんは人がたくさん居る所が職場やもんなぁ」


 リツコさんが食べ残したおかずが感染経路だろう。勿体ないなんて言って食べたのは失敗だった。だからリツコさんが謝る事じゃ無い。食った俺が悪い。


「お腹はどう? 痛いのが治まったら腹が減って来たんやけど、帰ったら何か作ろうか、お粥さんでも炊こうか」

「パン粥が良い……甘~いパン粥が食べたい……」


(冷凍庫に食パンがあったなぁ、そこに牛乳と砂糖を入れて……)


 話をしているうちに眠ってしまった。眠っている間にも点滴は続いた。


「は~い、大島さん終わりましたよ~。昨夜は眠れなかったんでしょ?」


 看護師に点滴の終わりを告げられた俺達は会計を済ませて車に乗り込んだ。リツコさんはまだ眠いらしく、ウトウトしているので毛布を敷いた荷室に寝かせた。


「リツコさん、学校に連絡しとくで」

「……うん」


 携帯で高校へ連絡をしてリツコさんがノロウイルスに感染した事と、数日休むことを伝えてからバンを走らせた。去年、リツコさんがインフルエンザにかかった時と違って、今回の俺は夫なので話が早かった。


「ねえ、中さん」

「何? 何か食べたい物が有る? 林檎とか食べたい?」


 リツコさんの事だから擦り下ろした林檎を食べたいと言うのかと思っていたが、違うらしい。


「ごめんね」


 リツコさんが謝る事など何もない。全部俺が悪い……。

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