第270話 リツコ・久しぶりのゼファー
「リツコさん、ゼファーの車検が近付いてるやん」
「うん、大津のお店に出す予定なんだけど、最近乗ってないなぁ」
「あまり乗ってないけど、手放すん?」
「それは無いよ、一目惚れで買ったんだもん。おかわり」
「ん、大盛り?」
「大盛り。御味噌汁はまだあったっけ?」
このところ、通勤はリトルカブ、買い物はジャイロXと使い分けているリツコは中の言う通りゼファーに乗っていない。もともとゼファーを温存するためのリトルカブとは言え、ゼファーだって機械。あまりに動かさないとそれはそれで不具合が出る。
「バイクは恋人と一緒。かまい過ぎると身が持たんけど、かまわんと拗ねるで」
「エンジンは掛けてるんだけどねぇ」
ちなみに中はリツコにかまわれ過ぎて疲れ気味である。毎晩ではないがリツコに求められて体力が回復していない。
「でも、ブレーキとかチェーンとかは動かさんと固着してしまうで」
「うん、今度車検に出す前に乗る」
「今日乗っていったら?思いたったが吉日やで」
「じゃあ、今日は皮ツナギで行くか」
ここ最近は寒くなって来たのでスリット入りのタイトスタートでなく長めの暖かいスカートをはいていたリツコだったが、ゼファーに跨るとなれば寒さ対策で股引を履きたい。高嶋高校のセクシークイーンも今や人妻。外見よりも実用重視なのである。
「さってと、出発前に暖機をしておこうかなっと」
着替えたリツコは久しぶりに倉庫からゼファーを出した。
(外に出すと埃が目立っちゃうなぁ、そう言えば御無沙汰ね)
キュキュキュ……キュキュキュ……キュ…フオンッ!
少しご機嫌斜めではあるがゼファーのエンジンに火が入り、アイドリングを始めた。
「ご機嫌斜めやな」
「そうみたいね。拗ねてるのかな? 最近はゼファーちゃんより中さんに跨ってるもんねぇ……やきもち焼いちゃったかな?」
朝からとんでもない事を言っているのをご近所の奥様方は聞き耳を立てていたのだが、そんな事をリツコは知らない。知られたところで何とも思わない。
「アホな事言ってんと、はい、お弁当」
「いつもありがと。じゃあ、行ってきますのチュー」
チュッ
プスン……。
中とリツコがいってらっしゃいのチューをした途端にゼファーのエンジンは止まった。
「あれ? ゼファーちゃん、やきもち焼いてる?」
「そんなアホな……」
キュキュ……フォン…フォンッ! フォン!
「久しぶりだから調子が出ないだけよ。いってきま~す」
「気を付けてな~」
フオォォォン……フオォォォォォン……フォォォ……
◆ ◆ ◆
リツコさんを送り出した後はあと片付けをしてから店を開ける。冬が近づくにつれて通学の学生たちが厚着になっていくのがわかる。今年は大津から通う学生が多いとリツコさんが言っていた。高嶋の雪の多さに驚く事だろう。バイク通学できるのは春から秋だけだ。冬にバイク通学なんてバイクを錆びさせてライダーが風邪を引くだけだ。
「で、その後は順調……みたいやな。痩せたなぁ、頑張り過ぎと違うか?」
定年で暇になった安井のオッサンだ。孫を保育園に連れて行くのを日課にしているがそれ以外は時間が余りまくっているらしい。
「求めるままに流されて
「どれだけ求められとるねん」
「それは言えんな」
ちなみにおおよそ1週間に2回だ。新婚としては一般的かと思うがオッサンになった俺には厳しい。リツコさんは子供を欲しがっているので積極的だが、俺はもう体力のピークが過ぎて納まっているので辛い。彼女には引っ張られっ放しだ。実際に引っ張られて叱った事もある。
「まぁ『下手な鉄砲数撃ちゃ当たるや』頑張れ」
「で、今日はカブで散歩かいな。ちょっと変えた?」
「マフラーをキャプトンにした」
派手な音ではないけれど歯切れの良い音がすると思ったら社外マフラーだ。最近は社外品でも極端にうるさいマフラーは敬遠されるらしく、リツコさんや葛城さんの付けている認証品やそれに準じた音量の物が好まれている。
「ふ~ん、なかなかクラシカルで悪うないやん」
「何かガキの頃を思い出して自分で触ると楽してなぁ」
誰かが『カブは受け入れるバイク』と言っていた気がする。弄りたがる若造の無茶な改造を受け入れ、発展途上国の無茶な使い方を受け入れ、バイクに不慣れな初心者や、体力が落ちた年寄りも受け入れる。そして、両親を失い、婚約者と仕事を失った俺も受け入れた。偉大にして唯一のバイクだ。
「隠居後のお楽しみやな。俺も早う隠居したいわ」
「新婚の若造が何言うてるねん。ほら、客が来たぞ」
ガンガラガッシャンッ!
自転車のスタンドも降ろさず乱暴に倒して置くとは何事か。何やらハァハァと荒い息で目が血走って見るからに危ない様子の少年が来た。
「安井さん、ここに電話して呼んでくれる?」
「ん~、ヤバそうなのが来たなぁ。了解」
安井のオッサンに携帯を渡して金一郎を呼んでもらう事にした。
「あのなぼぼぼぼぼくんんえねばいばいばいばいききくくががががほしいいいい」
随分興奮している様だ。
◆ ◆ ◆
「それで? その子はどうなったの?」
今日の夕飯は何も思いつかなかったので肉野菜炒めとサラダ、それに玉ねぎとジャガイモ、豆腐と油揚げの味噌汁だ。リツコさんの酒の肴に油揚げを炙ってある。
「この前留守番をしてくれた政さんが来てくれた」
俺がけったいな客を相手している間に安井のオッサンが金一郎に電話。だが金一郎は遠くへ取り立てに行っていたので政さんが来てくれたのだ。政さんは興奮した様子のお客さんをなだめて何処かへ連れて行ってくれた。
「ふ~ん、季節の変わり目は変わった人が来るのね」
「よう分からんけど、何か病気の人やったらしいなぁ。免許は持って無かったし、挙動不審やし、政さんが言うには
「蒔野もダメなの?」
「
「それもそっか」
季節の移り変わる頃に今都や蒔野からおかしな輩が安曇河へ流れてくる事が多い。そもそも今都にいるなら今都の店でバイクを買えば良い。蒔野だって同じだ。わざわざ遠くまで来て買う必要はない。
「リツコさんはどうやったん? 久しぶりのゼファーは上手い事動いたん?」
「うん、まぁ……」
珍しくリツコさんが誤魔化している。この様子から察するに何か不具合が出たのだろう。残念だがリッターバイクなんてよう触れんから車検の時にやってもらう様に言おう。
「俺では直せんから大津のバイク屋さんに相談やな」
「ゼファーちゃんの調子は良くなったんだけど、私の方がね……」
リツコさんはその夜、口数が少なかった。
◆ ◆ ◆
キュキュ……フォン!……フォンッ!
「あれ?リツコさん、今日もゼファーで行くん?」
寝坊をした訳では無い。いつもの時間なのにリツコさんは気合の入った皮ツナギを着た通勤モードだ。昨日は何とも思わなかったけれど、良く見るとすこし窮屈そうに見える。さては新婚旅行中に肉を食べ過ぎて太ったな。
「うん、乗ってあげないと調子を崩すから。それに、最近楽してるから体を動かさないと。車検に出すまではゼファーちゃんに乗る……運動になるし……」
やっぱり太っていたらしい。どおりで柔らかで重いと思った。言わんかったけど三㎏増と言った所だろうか。
「はい、お弁当。いってらっしゃい」
「うん、その前に……」
チュッ
プスンッ……。
「ほら、一回乗るくらいじゃ調子が出ない」
「バイクがやきもち焼いてるんと違うか?」
良く分からないけれど、今日も一日が始まる。
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