第213話 リツコ・お弁当を食べる
事務員さんからお弁当を受け取ったリツコはグズグズになった顔からメイクを落としてスッピンのままで遅い朝食を食べた。
「うう……美味しい……」
「しっかり噛まないと喉に詰まりますよ。はい、お茶」
「ありがと」
数日ぶりに
「ほら、年上の婚約者さんは全部御見通しですよ」
「うん」
ギャン泣きしている所に届けられたお弁当。タイミングが良すぎる。
「どうしてわかったのかな?」
「生徒に聞いたんじゃないですか?元気無かったですよ」
同僚にも分かっていた様に、
「早く謝った方が良いですよ。夫婦円満の秘けつは小まめなフォローですよ」
「うん、そうする」
◆ ◆ ◆
「おっちゃん、何とか安うでお願いっ!」
「
今日も大島の元に1台のモンキーが修理に訪れていた。
「助かる。ありがとう」
ホイールベアリングの破損でフロントハブからの異音。放っておいたらベアリングがロックしてハブまで駄目になってしまっての入庫。
「放っておいたら直るもんも直らんようになるんやで……」
「ごもっとも……」
モンキーを直しながら呟いたのは客に対してと言うより自分に言い聞かせたのだろうか。今日も
「直ったんやろうかな」
「直ってるやん。心配な事言わんといてぇな」
思わず口から出たのはバイクでは無くてリツコの機嫌の事だ。
「悪い。こっちの話や。バイクは完璧に直ってるで」
「ほな良いけんど……」
ミニバイクの修理はそこそこ。でも男女の仲に関してはまだまだ未熟者の
◆ ◆ ◆
夕方になって学校が終わると理恵達2年生4人組が集まって来た。
「おっちゃん、今日すれ違ったなぁ?」
「リツコ先生に何か有ったんですか?スッピンでしたよ?」
「朝練してた子がリツコ先生がギャン泣きしてたって」
恐らく朝の騒ぎはお腹を空かせたリツコさんが大泣きしていたからだろう。この何日かは
3人が大騒ぎしているのに1人だけ違う反応をしている奴が居る。
「俺、リツコ先生のスッピンはタイプかも……可愛かった……」
童顔で可愛いのは認める。でも、佐藤君はそれは不味いんじゃないかな?なんて言うか、早く背後に迫る殺気に気付いた方が良いと思うなぁ。後ろに綾ちゃんが立ってるのに気付いた方が良いと思うぞ。メデューサみたいになってるぞ。
(『
「りょ~じ~!誰が可愛かったって~!」
「あ痛てててててっおおあおう~」
綾ちゃん、それは俺の必殺技のグリグリではないか。先代から伝授された技を見ただけで習得するとは……只者ではない。
「ええか、女の子を怒らせると大変なんやからな」
「だってさ、速人」
「うん、気を付ける」
綾ちゃんの攻撃は収まらない。佐藤君はぐったりし始めた。
「ゆ~る~し~て~頭が~わ~れ~る~」
「ふむ、じゃあ『綾ちゃん可愛い』って噛まずに10回言って♡」
「綾ちゃん可愛い綾ちゃん可愛い……あやひゃん……あっ」
「噛んだからやり直~し!」
3回のやり直しの後、4人は帰って行った。
「さてと、晩御飯の支度をせんとなぁ……今夜は何を作ろうかな」
◆ ◆ ◆
結局、私はグータラしていたら中さんに注意されて逆切れしていただけだった。まぁ注意の仕方が子供っぽかったのとコタツを片付けられて寂しかったのが相まって……何と言うか……仔猫が飼い主に甘えて噛むみたいなものだと思って欲しい。
(悪いのは私だけど、『肉』に関してはゴメンと言わせたいなぁ)
乙女の柔肌に落書きなんてしたのだ。責任は取って貰おう。よし! 気合を入れて玄関を開ける……あ、カレーの匂い♪ 決意が揺らぐ。
「ただいまぁ」
「おかえり」
それだけ?何日かぶりの会話がそれだけなの?こっちを振り向く事もせずにカレーを混ぜて……私よりカレーなの?
「お風呂のお湯……入ってるで」
「うん」
戦況は極めて不利だ。こっちが攻めようとしているのに隙が無い。普段通りの様子から察するにノーガード戦法でこっちが攻めた所を返り討ちするつもりかな?
湯船には黄色い何かが浮いていた。
(柚子……お吸い物に使った残りかな?)
所々が削れた柚子が二つ浮いていた。中さんがご近所の家で生った柚子を貰っているのを見た事が有る。
(気を使ってくれてるのかな?とりあえず揉むか)
お風呂場に柚子の香りが広がった。今日のお風呂はいつもよりも暖まった気がする。
お風呂から上がると夕食の準備が出来ていた。カレーとサラダ、そしてビール。
「まぁ1杯」
「ありがと」
先手を取られちゃった。
「『肉』なんて書いてゴメンな」
「こっちこそグータラしてゴメンなさい」
こちらは防戦一方だ。
「………」
「………」
どうしよう。中さんは私の様子を見てる。
(駄目だ……勝てない)
「仲直りに乾杯」
仲直り宣言はこちらから。宣言はしたけど完璧に敗戦だ、多分。
「……乾杯」
カレーはいつもと味が少し違った。いつものカレーは美味しいけど、今日は私好みのドンピシャな味だ。少し甘めでフルーティな風味が有る。
(おお……この味、何だか懐かしい!)
「林檎と蜂蜜で甘めにしてみたんやけど、どう?」
(リンゴと蜂蜜がトロリと溶けてる……リツコ感激っ!)
参った。完敗です。私は甘口のカレーが大好き。お子様舌なのを見抜かれちゃったかな?
「美味しいです」
「そうか、良かった」
ご飯の後は2人でお方付け。中さんはいつも通り。ちょっと位ギクシャクしてくれてもいいのに…私ばっかりが空回りしているみたいで面白く無い。
いつも通りにテレビを見て、しばらくしてから戸締りをして、お互いの部屋へ……。
◆
(猫を飼ったらあんな感じなんかな?)
この数日間、大人の余裕をかましているつもりだったが、内心はドキドキものだった。確かにグータラしていたリツコさんに『肉』は違ったかもしれない。恋愛経験の乏しい俺の知る女性はリツコさんを含めても2人だけ。スーパーカブやミニバイクと違って女性の扱い方は良く知らない。
キシ……キシ……。
床がきしむ音がする。リツコさんがトイレに行くのだろう。そう思っていたら部屋の前で足音が止まった。
「中さん、起きてる?」
「起きてるで」
「一緒に寝てもいい?」
「どうぞ」
「にゃふふふふ~ん♪」
リツコさんが布団の中に潜り込んできた。やはりニャンコである。今日の彼女は薄いピンク色のパジャマ姿。勝負下着を着けた半裸よりも、こちらの方が可愛らしくて魅力的だ。
「家事を全部押し付けてゴメンね」
「俺もゴメン。女の子の顔に落書きなんて最悪やったな」
お互いに何も言わずに分かり合えなんて無茶な話だ。やっぱり言葉にしないと伝わらない。
「寂しかった」
「俺も。リツコさんが出て行ったらどうしようかと思ってた」
話さなかった数日間は本当に寂しかった。もしもリツコさんが出て行ってしまったらと思うと気が気ではなかった。この気まぐれな猫の様な女性に俺は惹かれている。
「撫でれ……ギュッとして撫でれ……」
「はい」
お互い寂しかったのだ。日常の何て事の無い会話、何て事の無いやり取り。同じ屋根の下で暮らし、一緒に飯を食べる。それが幸せというものだろうか。
「やっぱり独りよりも二人の方が楽しい」
「そうやな、もう一人で居るのは嫌や」
「ねぇ中さん」
「何?」
「この前みたいにチューして」
照れているのだろうか。リツコさんはモソモソと動いている。
「断る」
一刀両断でお断りだ。チューなんてとんでもない。あの時と状況が違う。
「そこはギュッと抱きしめて熱いキスをする処じゃないの?」
「だが断る」
チューしたく無い訳ではないのだが、今は駄目だ。
「わかった。チューしてくれなくても良い……」
やっと納得してくれた。女性に恥をかかせたみたいで悪いけれど、今の状況では駄目だ。こんな状況でそんな事は出来ない。
「そもそも、要求ばっかりする私が今回の事態を招いた訳だね」
「そこまでは言わんけんど、手伝いはして欲しいな」
「だから今夜は私からチューする……」
リツコさんの顔が近付き、唇をかき分けて舌が入って来た。勢いだけの稚拙な舌の動き。俺は経験が少ない。でもリツコさんの経験はもっと少ない。動きで分かる。
「なぁリツコさん」
「……はい」
「チューだけで終われんから断ったんやで、それやのに……」
「ここで終わったら怒るよ……来て……」
この夜、破瓜の痛みからか、それとも結ばれて嬉しかったのか。リツコは再び涙を流したのだった……。
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