第119話 磯部・挑戦する

トーストとサラダ、ハムエッグ。そして無花果ジャム入りヨーグルト。

しっかりと朝食を食べて、磯部さんはトレーナーとジャージに着替えた。


俺が中学生の頃に安曇河中学にこんな格好の先生が居た。

体育じゃなくて数学の先生だったけど。もう定年だろうなぁ。


体調は戻ったらしい。顔色も戻っている。つやつやした肌は30歳と思えない。

(本当に童顔やな。高校生みたいや)


今週一杯は念の為に休むらしいけど、寝ているのは暇で嫌なんだと。

動きたいらしく倉庫でゼファーを磨いている。


「生産終了して10年は経ってますよね?キレイやなぁ」

「一目惚れした相棒だもん。お婆ちゃんになっても乗るわよ」


何か声が聞こえた気がするけど倉庫には2人しかいない。店を見るが

お客さんが来ているわけでもない。空耳だろうか?


「どうしたの?キョロキョロして?何か居るの?」

「いや。何か話し声が聞こえた気がして」


最近、話し声が聞こえる気がする。バイクの怨念かもしれない。

何台も分解して廃車もしたからなぁ。


「さて、ゼファーちゃんはこれ位にしてっと。今日こそ動かすぞっと」 

磯部さんは張り切っているけど無理やろう。どうせ何も起こる事は無い。


『倉庫の主』のキーをONに。ニュートラルランプとスタンドランプが点く。

チョ-クを引いて上死点を少し過ぎてからキックペダルを踏み下ろす…エンジンはかからない。


「な、かからへんやろ?」

「う~ん。何も変な所は無いんだけどなぁ」


そのあと磯部さんは何回か始動を試みるがエンジンは目を覚まさない。

気が済むまで放っておくことにして仕事にかかる。


宏和の所の絵里ちゃんに作ったリトルカブの部品取り車を処分。

取れる部品は全部剥がして書類の無いフレームはリサイクル業者が回収しに来るので廃品置き場にまとめておく。鉄とアルミを分けておくと喜んで持って行ってくれる。


店の前にトラックが停まる。


「お届け物で~す」

「ご苦労さん」


ハンコを押す。届いたのは折りたたみ自転車だ。

進路が決まった学生たちに結構売れる。シーズンになって仕入れようとすると

品薄で入荷が遅れるかもしれないので売れ筋だけ何台か入れておいた。


エンジンが掛からないのにキックばかりしているとスパークプラグが被る。

試しに俺がキックをしてみると・・・やっぱりかかる。


「な、これは俺以外に懐かへんわけや」

「う~何で~」


磯部さんは再びエンジン始動の手順を踏む。イグニッションON

ニュートラルランプ点灯。チョークは少し引いてキックスタート。


「私と中さんは仲良しよ。動きなさい」

「かかるわけないがな」


プルン…プルン……プルン……プスッ


「ゴリラさん。動いて」


プルン…プルン…プルン……プルン


その後、磯部さんが何度キックしてもゴリラのエンジンは掛からなかった。


その日の夜。

「不思議やな。あれだけキックしてエンジンが掛からんてな」

「どうして私だとダメなのかしら?」


俺は磯部さんの腰を揉んでいた。

「手先が器用な男は凄いって本当ねぇ。気持ち良い」

「それは別の意味やと思うで。磯部さん、マッサージは初めて?」


「だって、揉んでくれる人なんか居ないもん」

「彼氏とかに揉んでもらったりは?入れ食いでしょ?」


磯部さんほどの可愛らしいお嬢さんなら男は放っておかないはずだ。


「ゼファーに乗り始めてから声もかけられなくなって」

「ジャジャ馬と思われたんやなぁ」


多分、御転婆さんなのがモテない原因だと思う。


「仔猫ちゃんなのに?」

「仔猫か化け猫かは知らんけど、今日は無理したな~」


あの後、何度もキックした磯部さんは腰を痛めたのだ。

ギックリとかではなくて、無理し過ぎと言ったところだろう。


「病み上がりでキック連発なんてやったらダメね」

「若く見えても中年なんやから…無理したらアカンな」


「オバサン扱いしないで!」


どうやら全回復したようだ。少し寂しいが2人で過ごすのも今日が最終日。

やっと気楽な生活に戻れる。

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