7
押し出されるように、僕は花屋へと足を進めた。中に入ると、大きく張りのある声が店の中に響いた。
「いらっしゃいませー!」
声の主は爽やかな容姿の青年だった。身長は佐治さんよりは低いが、それでも十分長身の部類に入る。だが、一点明らかに普通とは異なる点があった。
(……黒い、鎖?)
黒い鎖のようなものが、全身に絡みついていたのだ。その鎖からは得体の知れない嫌な気配が漂ってきていた。鎖をよく見ようと近づき――それが人間の髪でできていると気づいた瞬間、青年に絡みついてた鎖の何本かが飢えた蛇のように僕の方に飛びかかってきた。
「……なっ!」
思わず声を上げてしまう。が、飛びかかってきた鎖は僕の体の寸前で停止すると、すぐに元の位置に戻ってしまった。
(なんだったんだ……今の)
あの黒い鎖は恐らくトカゲだろう。僕はこんな形態のトカゲもいるのかと恐怖を通り越して感心し、そして、一体何故佐治さんはこのトカゲを放置しているのだろう、ということを考えた。
(僕にすら見えるってことは、佐治さんに見えないはずはない。それなのにどうして放置してるんだろう? 見た目が不気味なだけで実際は害はないとか……いや、それにしたって)
「あのー、すいません、大丈夫ですか?」
「わっ!?」
いつの間にかすぐ目の前に青年の顔が迫っていた。びっくりして飛び退いてしまう。
「あ、よかった。俺のことを見てなんか悲鳴上げたと思ったらそのまま固まっちゃうから、一体どうしたのかと思って。どうしたんです? 体調が悪いとか?」
青年の声には純粋にこちらを心配する厚意が表れていた。自分のしたことを振り返ると確かに完全に不審者だ。余計な心配をかけてしまったことに申し訳なくなる。
「……そんなところです。あー、すいません。花をいただけますか?」
「わかりました。贈り物ですか?」
「……えーと、その」
佐治さんに言われて花を買ってくるように言われただけで、何を買うか全く考えていなかった。そもそも花瓶もないのに何を買えというのか。何かそれらしい理由はないかと必死に考え――ふっと、ビべリダエのことが頭をよぎった。
(そう、か。ビべリダエの中に飾ってもらえばいいんだ)
雪子さんに頼めば、きっと綺麗に飾りつけてくれるに違いない。今日はバイトはないがお店はやっているはずだから、ちょっと寄って頼んでこよう。そうと決まれば、
「……バイト先に飾る花を買いたくて。小さな喫茶店で、あまり目立つと困るんですが、そういう花はありますか?」
「なるほど。小さな喫茶店かぁ。そうなると飾るのは花瓶ですよねぇ。どんな花瓶に飾るかとかわかります?」
「……あ、えっと、すいません。わからないです」
「うーん、そうかぁ。了解です。それじゃあいくつか選んでみますね。あ、そうだ。ご予算はどれくらいですか?」
予算。これも全く考えていなかった。だがあまり高くして豪華なものになってしまえば、雪子さんが飾る時に困るだろう。ここは控えめに言っておくべきだ。
「二千円ぐらいで、できますか?」
「二千円ですね。わかりました。それじゃ少々お待ちください」
そう言うと青年は店の中を回って花を選び出した。全身を鎖に縛られた状態で動きは制限されないのだろうか、と思うがどうやらそういった影響はないらしい。
「……あの、すいません」
気がつくと、僕は青年に声をかけていた。
「はい、なんでしょうか」
「えっと、変なことを聞くんですが、その、体の方は大丈夫ですか? 調子が悪いとか、動き辛いとか、体が重いとか、そういったことは……?」
僕がそう尋ねると、青年は不審そうな顔をした。当然だ。こんなことをいきなり聞いてくる客がいたら誰だって警戒するだろう。青年が口を開く。
「――お客さん、そういうの、わかる人なんですか?」
「……え?」
意外だった。まさか自分が得体の知れないものに取り憑かれているという自覚があるのだろうか。もしそうなら彼は既にトカゲの被害に遭っているということだ。
「……自分では、何も感じないんですよ。でも、うちに来るお客さん、特に若い女性のお客さんは、俺が接客すると最初はいいんですけど、時間が経つにつれてどんどん気分悪そうになるんですよね。それで大抵は何も買わずに帰っちゃって……割と真剣に悩んでるんですよ」
青年の言葉に、先程の鎖の挙動を思い出す。あれは最初僕を攻撃するかのように伸びてきて、そして寸前で停止して元に戻った――もしあれが停止しなかったら?
(どんな形でかはわからないけど、あの鎖は人を攻撃するのかもしれない。もしそうならお客さんが気分が悪そうになったっていうのも納得が行く……ただ引っかかるのは、若い女性のお客さんだけってことだ)
あの鎖には意思があり、攻撃する対象を選んでいる――それが最も自然な結論だろう。だがだとしたら何故若い女性だけを標的にするのかという疑問が残る。そして、
(人に危害を加えるトカゲを、佐治さんはどうして放置してるんだ?)
胸の奥にはっきりと不快な感情が生まれる。どうして僕のことは助けて、この人のことは助けないのか――そのことを考えると、手の平に爪が食い込んだ。僕は青年が選んでくれた花の中から一番ビべリダエの雰囲気に合いそうなものを選ぶと、それを買って店を出た。店の外で待っていた佐治さんに声をかける。
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