これより訓練を始める! 手始めに人間性を捨てよ②


 まるでそう動くのが自然なように、ワタシの手足は『俺』が今までしようと考えたこともない動きでスムーズに地面を蹴りだしていた。


「動ける。動けるよ、リィル! 四足なんてやったことなかったのに、何も考えなくても勝手に体が動いてる感じ! すっごい楽!」


「んふふ、良かったぁ。合ってたみたいだね。これでイディちゃんも少しはまともに動けるようになるかな? じゃあ、小走りで少し走ってみよう!」


「ふふふ。その程度、今のワタシなら造作もないねッ!」


 まるで初めて自転車に乗れたときみたいに感動的だ。笑みが溢れてくる。


 手足に新しい機能が追加されて自分っていう世界が広がったような、どこまでだって行けてしまうんじゃないか、自分は実はすごい奴なんじゃないか?


 そんな、無根拠で子供じみた万能感がお腹の底から湧き上がってきて、尻尾のつけ根から背筋にゾクゾクした快感が走った。


 リィルに言われるまま地面をさっきより強く蹴りだしてみる。走り方は体が知っていた。


「ハッ、ヨッ、ワォン!」


 飛び跳ねるみたいに押しだす一歩が、二足のときとは比べ物にならないくらい大きい。


 手の指先から足の指先まで、全身の筋肉が全部連動して動いているみたいで、気持ちのいい躍動感が体の内側と外側を一緒に突き抜けてく。


 景色そのものはさっきと変わってないのに全然違う。いつも見てる二足で立ちながらの視界が、なんだか急に不安定なものに思えてきた。


 視界的には四足の方が激しく上下に揺れてるのになんでなんだろう?


 やっぱりあれか? ワタシは生まれながらにして地に手を着くことを極めていたとか?


 きっと三つ指ついて生まれてきたんだろうなぁ、ワタシって。奥ゆかしさが常人とは違うんだよ。もう、見ている景色が違うっていうの? きっとそんな感じ。


 何もかもが大きく映って、まるで自分が小さくなったみたいだ。いや、実際に体の方は小さくなったし、心の方は元々小さいから全然みたいじゃないんだけどね。


 でも、今だけは小さくたっていいって思える。


「おお! ちゃんと走れてるよ、イディちゃん! まるで初めてのことじゃないみたいに様になってるし、スピードも二足のときとは段違いだよ!」


「ふっふっふ、そうでしょうそうでしょう。ついにワタシの内なる才能が開花されてしまったみたいですね!」


 ――つまるところ……きっもちいいぃ!!


 姿勢的には最低にロウだけど、気分的には最高にハイってヤツだ。


 水を得た魚だって今のワタシほど活き活きしちゃあいないだろうね。そもそも、それまで水を得てなかったのなら、その魚は生き生きすることも儘ならなくて水がないのにアップアップだったはずだから、比べるまでもなくワタシより下だよ。


 ふふ、完璧なマウント。これは完全勝利って言いってもいいんじゃないですかね?


 でも、こんな程度がワタシの全力だなんて思ってもらっちゃあ困る。低い姿勢は高く飛ぶための準備だって、それ一番言われてるから。


 ――見せてやるよ。風になる瞬間ってヤツを……。


「よ~しッ! 全力で走り抜けるぞ、ワタシ! 今こそ全身全霊の……」


「あっ、待ってイディちゃ」


「四足歩行ぉ!」


 ――ベギャッ!


「……へ?」


 ヤバい、明らかに地面から鳴っちゃいけない音がした。なんか湿気の抜けていない生木を無理やり圧し折ったみたいな、圧倒的に不穏な音。


 端的に言うと……やらかしたなワタシ。


「ヤバッ……!?」


 慌てて音の発生地を確認しようとして、できなかった。


 いつの間にか、ワタシの目と鼻差の先にはアスレチックの壁が迫っていた。


 振り返って足元の惨状を確認するどころか、何か考える間もない。次の瞬間には顔から激突するのが分かる。


 いつもなら、すぐ目の前にある危機的状況にパニクって、ごちゃごちゃと訳の分からない自問自答を並べ立てていたことだろう……でも今のワタシは違う。


 頭では間に合わなくても体は勝手に反応してくれる。


 そう確信した通り、まるで猫は高所から落下しても体を捻って足から着地するのが当たり前みたいに、ワタシの体は空中で前転して難なく壁に足から着地する。


「これぞ本能のちか」


 ――ベギャッ!


 ………フッ。これぞ本能の力! 頭で理屈をこねくり回してる奴には到底たどり着けない境地ですよ。ワタシはただ受け入れれば良かったんだ……自分が犬だって。


 さんざん犬だ畜生だなんて自分のことを称していたけど、根本的な部分で受け入れきれていなかったんだ。


 簡単なことだったんだよ、ワタシはただあるがままで良かったんだ。


 犬だから歩けば棒に当たるし、走れば壁に当たる……をぅん? 壁は人間の頃から当たってる気がする。どういうことですかね?


 ……ま、まぁ! なんにしてもワタシは犬なんだ。だからこれは仕方ないことだし……むしろ普通のことなんだよ。つまりは、その……、


「これは違うんですよ」


「何がですか?」


「をぉう!?」


 ビックリしたぁ!


 突然、背後から聞こえてきたゼタさんの声に一メートルくらい跳び上がった。毛が一気に逆立って、いつもの倍くらいの大きさになった尻尾を抱きして涙目になりながら振り返った。


「急に後ろから話しかけないでください! 尻尾が爆発するかと思ったじゃないですかッ!」


「む? それは申し訳ないです。以後、気をつけます」


 本当に気をつけてくださいよね、ゼタさんは常識ってものにかける部分がありますよ。


 ワタシが冷静だったから良かったですけど、これが本能に飲みこまれて暴走しているところだったら、今頃ゼタさんは見るに堪えないことになっていましたよ?


 テリトリーを主張するのに、あたり一面にマーキングを施すとこだったぜ……。


「で? これはいったいどいうことですか?」


「……こ、これはとは? 何を指しているのか、ワタシにはさっぱり……」


「………」


「………」


 そ、そんなジトッとした目で見られたってなんとも思わないんだから!


 ワタシ、悪くないもん。だって四足を提案したのはリィルだし、そもそもこれはワタシが動けるようになるための訓練で、ゼタさんも自分にできることを把握しろって言ってた。


 その成果が本能のままに動くことで、その結果としてアスレチックが破損したのは、もう不可抗力としか言いようがない。


 むしろワタシの全力についてこれなかったアスレチックは、ちょっと慢心がすぎるんじゃないですか? アーセムの上にあるからって、お高くとまってるからこんなことになるんだよ。


 それに本能のままに動いたおかげか、いつもなら恐怖に凍りついていた状況でもためらわず動けたんだから、訓練はつつがなく終了したと言えるね、うん。


 だから……その。あ、あと十秒その目を向けてきたらマーキングしますよッ!?


「……はぁ」


「ひぃぅ!?」


 おいおいおい、止めなさいよ。これ見よがしな溜息って、下手な罵倒より心を抉ってくるって知らないの?


 ちなみに今のでちょっと詮が緩んだからな? 発言するのは構わないけど、次に吐き出す言葉には注意するんだな。もし間違えたなら……その時はワタシの最後だぜ?


 尻尾に縋りつくみたいにギュッと胸に抱きしめながら、ゼタさんをグッと見上げた。なんか、今から怒られるのを身構えて立ち向かおうとする子供みたいになっちゃったな。


 そんなワタシを見下ろしながら、ゼタさんは小さく首を横に振った。


「まったく。私がイディちゃんの特訓のために、アスレチックの使用許可と道具を取りに行ってる間に随分とはしゃいでいたと見受けられますね……」


「い、いや、これは別にはしゃいだとか、そういうんじゃなくですね。自分でもこんなに上手く空が動くとは思わなくて、その、上手く動きすぎたせいで力の制御まで気が回らなかったというよりは、本能に任せているせいで抑制できないというか……」


 言葉を重ねる度に体が小さくなってく思いだった。


 腰に手を当てて鼻を鳴らしているゼタさんと目を合わせることができなくて、顔は向けているのに視線があっちこっちに散らばって仕方ない。


 ぐうぅぅ、ゼタさんからの無言の圧力が凄い。正直潰されそうです。


 だけどな、そう簡単に頭を下げたとあっちゃあ獣としての矜持に関わる。


 こうなったら賭けるしかないだろう。ワタシの目覚めたばかりの本能にすべてを託すんだ。


 いつでも手を着いて四足に移行できるように姿勢は低く、同時に足裏全体で地面を感じながら太もも力を入れる。


 そして、今度こそゼタさんの目をジッと力一杯見つめ返して、高まっていく緊張が弾けるその瞬間に備え――!




「……ごめんなさい」




 降参ポーズを見せつけた。




 ……頭は下げてないから問題ないんだよ!

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