81 止まれと言われて、止まれる馬鹿がいるかよぉ!?
ペスさんの背中に跨って、前を見ることもなく、毛皮に顔を埋めるようにしていたオロアちゃんの顔が跳ね上がる。
追いつかれるにしても、まだもう少しの猶予があると思っていたのか、前触れなく上から降ってきたリィルの声に持ち上げられた顔には、驚きとついに迫ってきた追っ手に対する、なんとしても前に突き進むという覚悟が滲んでいた。
音もなく柔らかく一人と一匹の前に着地したリィルが、これ以上は一歩たりとも進むことは許さないと、言葉にはせずとも、その睨むような鋭い視線の意味を分からないオロアちゃんでもなかった。
「……一番初めに
オロアちゃんはペスさんの背中から降りることなく、いやそれどころかペスさんが突然どのような軌道をとっても振り落とされないようにと、より一層強くその背にしがみついた。
オロアちゃんの瞳が鋭く引き絞られていく。そこに『揺り籠』に向けて競争をしていた時のような楽しげで挑戦的な色はなく、自分の目的を妨げる存在を打破しようとする敵対的な色がうごめいていた。
「それは光栄だね、って言えればいいんだけど、今回ばっかりはおふざけの域を過ぎちゃってるよ。『門』も通らずにアーセムに登るなんて……。
分かってる? これってかなりおっきな犯罪だよ? アーセムに登る時は必ず『門』で受付を通さなきゃならない。これは登犯を防ぐことはもちろん、何か事故があった時に迅速に救護ができるようにする意味もある。
それを通さないってことが、どれだけ多くの人に迷惑をかけるか……。レジップさんにだってすごい迷惑が……」
「そんなことは分かってます!」
オロアちゃんの鋭い一喝がリィルの声を遮った。
これには流石のリィルも、大きく目を見開いて、次に告げようとしていた言葉をその怒声に吹き飛ばされてしまったみたいに、口をつぐんで固まってしまった。
「そんなことは、分かってます……。私の行いがどれ程多くの人にご迷惑をおかけするか。お父様には至っては、顔向けできないような失態です……。
私が未だ学徒であることをかんがみたとしても、レジップ商会の第一子が犯罪を、それもアーセムに関わる過ちを犯す。これは我が家今まで培ってきた信頼を根底から崩しかねない行い。しかも、本件にはアーセリア様まで関わっているご様子。
言い訳のしようもなく、大罪です」
「分かってるなら」
「それでも!」
まるで身体の内側を引き裂かれているような、悲痛な叫びだった。
瞳の奥に宿った力強い意志とは裏腹に、その表面は今にも溢れそうなコップの水みたいにたゆたっていた。
「私は決めてるんです! もう、ずっと昔に! もう二度と、私の目の前で、小さな命が失われないようにするんだって。そう誓ったんだ!」
ポロリと、雫が一粒零れ、そこからは堰を切ったように、ボロボロと玉のような涙が次々とオロアちゃんの頬を滑り落ちていった。
恐怖とか緊張とか、胸の奥で渦巻いている感情に押し流されるように溢れてくる雫は、それでも瞳の奥にともった
そう、その意志はまるで――、
(ノブレスオブリージュ! ワタシは、彼女の魂に貴族の輝きを見た!)
いやいや、ワタシみたいな犬には眩しすぎて、マジで直視に堪えませんわ。
薄くなった空気の分だけ、シリアスさんがまたしても存在感を膨らませていくのに耐えきれず、リィルの背中に隠れたまま心の平穏を保とうと思ったけど、保てたのはこの場の空気並みに薄くなった存在感と人としての株の低さだけだった。
(いや、これはどっちかっていうと、人の価値が高騰しているせいで相対的にワタシの価値が下落しているように見えるだけなんだ。
だから、けしてワタシの思考が人として終わってるとかそういうことじゃあないんだよ! そうだろ? そうとも!)
いくら自分で自分の株を持っていたとしても、上場していないワタシの株は誰からも見向きもされる筈がない。そもそもこんな高値帯にいること自体が場違いだった。
しかし、場違いなのはワタシだけだから、人間的株価が高いリィルは、意志を燃え上がらせるオロアちゃんに一歩も引くことなく、正面から相対して見せた。
「……レジップさんから、何回か相談されたことがあるから、知ってる。
貴方がどうしてそこまで、自分より小さい子に執着するのか。女性ものの、それも小さい子が好むような服を着る理由も、ペスがレジップ家に迎えられた経緯も」
リィルが紡いだか言葉は静かで、何もオロアちゃんの意志を打ち砕くような力もないように思われたけど、まるで静かな湖面に投げ込まれた小石のように、オロアちゃんの瞳をわずかに揺らした。
「……妹さんがいたんだよね?」
投げかけられた言葉に、今度は大きくオロアちゃんの意志が揺らいだのを感じた。
「……お父様のお喋りも、困ったものですね。いえ、あれが商談を生むために必要な行為であり、情報を仕入れるにも有効であるのは、重々承知しておりますけど」
オロアちゃんはペスさんに跨ったまま、瞳を閉じると一度大きく深呼吸をして、再び開いた瞳の中には、愛情と哀愁と、自責の念が混ざり合って渦巻いていた。
「とても、……そう、とても、可憐な子でした。色白で
意識してか、それとも無意識のうちになのか。妹さんの話を始めた彼の口調は、少し男の子のような雰囲気をまとっていた。
「でも、あの子の美しさは、今にも散ろうとしている花が見せるような、火花が暗闇を一瞬だけ照らしだす時のような、そんな、今にも消えてしまいそうなものが魅せる、美しさでした」
目を細めながら、脳裏によみがえる妹の姿を細部に至るまで確認しているように、ゆっくりと過去を撫でて愛でるように視線が揺れる。
「生まれつき身体が弱くて、生まれてすぐに病気を患い、碌にベッドから起き上がることもできない。そんな妹が、……
もうそこには、ひらひらのフリルに包まれて、ゼタさんに理想を見出して甘える、小さな子供はいなかった。
「家の者たちは皆、妹にかかりきりになり。父も母も、仕事の合間を縫っては妹ところに通い詰める毎日。
何より……、あの子のためにと私が初めて買いつけてきたドレスが、一度も袖を通されることなく、私の部屋にぶら下がっている。そのことが、無性に寂しかった」
そう言葉にしながらも、彼の瞳には妹さんを責める色はこれっぽっちもなくて、ただただ過去から這い上がってくる自責の念を、甘んじて受け入れているみたいだった。
「だから私は、大人たちの邪魔をしないという建前で自室に引きこもり、床に伏せって苦しげに身をよじる妹を一度も見舞うことをしなかった。
けれど実際には、ただ拗ねていたんだ。せっかく用意したのに、着せてあげるのを楽しみにしていたのに、……一緒に遊びたかったのに」
彼に落ち度なんて、一つだってなかっただろう。
だって彼は、正真正銘、子供だったんだから。それでも、彼だけが、自分が子供であったことを許せていなかった。
「身勝手で、自己中心的で、独善的で、残酷で!
たった一人の兄に、一度として笑いかけられることもなく。……死んでしまった」
誰かが悪かったなんてこともなくて。ただ、世界にはありふれた悲劇がそこに一つあったことが、何よりも今なお幼い彼を追い詰めてしまっていた。
「全部、私が愚か者の殻に閉じこもっている内に、終わってた。
私が部屋を訪れた時にはもう、冷たくなって。元々白かった顔色は生気がなくなって、青白く染まって! 二度と、目を開くことはなかった」
ギュッと、眼球を圧し潰すみたいに固く瞑られた目蓋の裏で、彼はきっと、妹さんの最後の姿を思い返していたんだろう。
「後からいくら悔やんだって遅いんだ! いくら泣いたって時間は巻き戻らない! できることを今すぐにやらなきゃ! ああしとけば良かったなんて、意味がないんだよッ!」
再度開かれた彼の瞳には、さっきまで以上の覚悟の炎が煌々と燃え上がっていた。
「だから、今度は間違えない! あの子たちは、僕が守るんだ!」
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