70 アーセムの生態
空気の中を電気が走ったみたいに、声と一緒にピリッとした緊張が伝播していく気配があった。
いやいや、まさかそんな……。そう思う気持ちが頭の中で広がっていきそうになるのを、ワタシたちを真っ直ぐ見つめてくるアーセリアさんの瞳が許さなかった。
そこには一欠けらも戯れの色がなくて、ずっと震えながら俯いているシュシュルカさんを除いて、ゼタさんもリィルもワタシも、冗談であって欲しいと縋るように、アーセリアさんの顔を見返さずにはいられなかった。
でも、アーセリアさんの顔をしっかりと見つめれば見つめる程、そのあまりに大きすぎる事態を告げてきた一言が、なんら飾り気のない真実なんだと納得せずにはいられなかった。
これはアレですね。話が大きくなり過ぎちゃって、最終的に風呂敷たためなくなっちゃうヤツですよね、分かってるんだなワタシは。
まぁ、犬ですから。
そこらの人間とは比べるべくもなく、本能で察しちゃう訳ですよ。
(ところで、そろそろ散歩の時間なんで話はまた今度ってことにはなりませんよね、知ってた)
というような冗談を言えるような空気じゃないから、とりあえず神妙な顔でやり過ごそうとするワタシの周りで、みんな本当に緊張した面持ちで身動ぎすらはばかられるみたいな様子でいた。
ゼタさんやリィルだけじゃなく、護衛の人たちもバルッグさんも、シリアスさんが作りだしている固い空気の中で固唾を飲んでいる。
――こういう空気は喉につっかえるから、ヤメてってあれ程言ったじゃない!
今にも呼吸困難になりそうなワタシを気にかける人がこの場にいる筈もなくて、みんなただただアーセリアさんの次の言葉を黙ったまま待っている現状は、動物愛護にも人類愛にも反すると思うので改めていただければ幸いです。
「トイディ様。そもそもどうやって、宝樹の一つに数えられ、あれ程の巨大なアーセムという樹を、
「へ? えっと、それは、
待って待って、そういう設問を用意しているなら事前に通達してくださいよ。急にそんなこと言われたって、答えられるのはアルベルト・アインシュタインくらいのもんですよ。
――予習復習が学力に基礎を作るって習わなかったんですか!?
アインシュタインへの謎の信頼感に満ちた、答えになっているかすら怪しいワタシのへどもどした返答に、アーセリアさんは神妙に頷いてくれたので、きっとこれで良かったんだって信じさせてくれた。
「不可能なのです」
(間違ってるんかいッ!?)
まさかの不正解という事実を突きつけられて、全ワタシが思考を真っ白に塗りつぶされている中、アーセリアさんはそんな白んだ空気などものともせず続けた。
「そもそも、
そして、
アーセリアさんの言葉にバルッグさんが厳かに頷き、向かいではゼタさんが主人に悪戯が見つかった子犬みたいにしょげ返っていた。
そりゃそうか、飼い主どころか、手足とまで表現される一団の構成員なんだ。その内情を知らなかったなんてことはあり得ない。
つまりゼタさんは、下された命令を無視して自分の頭に殴りかかった手という訳で、それだけでもうホラーな展開だけど、もっと悪く言ってしまえば『癌細胞』だ。
放っておけば最悪の事態を引き起こしかねない存在を、そのまま野放しにするなんてありない、つまり切除される以外の未来が見えない。
しかしそれは、裏を返せば、この街でようやく自分の力だけで勝ち取った居場所を投げ捨てる所業で、例えそうなっても友達を救うことを優先したゼタさんは、やっぱり最高に格好いい騎士だった。
――貴女がイケメン四天王の二人目だったんですね……。
しかし、そんなどうしようもなく無関係なことに夢想して、心を平穏で満たそうとするワタシに対して、シリアスさんとアーセリアさんのタッグは怒濤の攻めを緩めることなく、休む暇なんて与えてくれなかった。
「しかし、どうあっても我々は『人族』です。アーセムに登ろうにも上限が存在し、それ以上の高さではただ生きていくことさえ難しくなる……。
では、どうやってそれ以上の高さにも存在する脅威を、我々『人族』が住まう『下』に降りてこさせないようにしているか」
一拍の間を作って、皆の視線を集めたアーセリアさんが、ことの確信に近づく一言を口にした。
「頼むしかないのです。それが行えるものに」
それはあまりにも現実的で、聞けば納得せずにはいられない事情だった。
自分ができないなら、できる人に頼む。それは、向こうの世界でも当たり前に行われている、いわゆる分業というもので、つまりは上下関係も格差も当然のように存在する、社会の仕組みだった。
「アーセムには上層、中層、下層があり、それぞれに管理する存在がいます。そして、下層の管理を我々『人族』が行っているのです。
空師の間では街が存在している地面を『下』、少しでもアーセムに登っていれば『上』と呼び習わしていますが。実際には、空師が活動している範囲は、下層と中層の間なのです。
本当の上層には、
考えてみれば当たり前のことで、いかにこちらの世界の人たちが『魔法』という超常を操れたとしても、その超常が当たり前に存在するこの世界で、宇宙空間にまで達するほぼ壁と言って差し支えない巨大な木に挑もうというのが、無茶じゃなくなんなのか。
元の世界の『科学』という超常を操る人類が、九〇〇〇メートルに届かない山に挑むのでさえ、訓練と入念な下準備を重ねたうえで命がけの挑戦だ。
それ以上の場所に立とうなどというのは、驕りでしかないのかもしれない。
「そして、その我々『人族』では対応が難しい区域を、なおかつそこで生息をしている獣や虫などが多くいる中層を管理しているのが、人と言葉を交わすことができる、
つまり、ほぼほぼ棲み分けができているってことなんだろう。人々は下層という地面で、虫や獣は中層という幹を根城に、それぞれピラミッド型の社会大系を築いて、お互いになるべく干渉が少ないように生活している。
そして、それぞれのトップだけが最小限交流を持っている。だからこそ、生物的に全く異なる両者の生活圏が重なっていても、上手いこと回っているんだ。
「代々の彼女と我々は、アーセムを生活の基盤にしている点で利害を一致させており、彼女が獣や虫をコントロールしてくれているからこそ、我々は比較的安全に空師という活動を続けていられるのです。
しかし、彼女が今回の件の中心にいる訳ではありません」
「へ? というと……?」
そもそも、今までの話が一体全体、どうやってシュシュルカさんを追い詰めるような事態に繋がっていくのかが分からない。
今までの話をまとめると、お互いに存在を認識しながらも共存を図っている、ようはアーセムという本体に寄生する細菌同士みたいな立ち位置だと思うんですが、違うのだろうか?
その存在が、互いに定めた領分を超えて干渉してくることは、両者にとってメリットがあまりにも少ないような気がする。だって、おそらくは互いになくてはならないものだから。
つまり、そういった共存という部分を超えた問題。
(ということは。……まさかッ!?)
自分の頭に閃いた考えに、俯かせていた顔を勢いよく持ち上げると、真摯な眼差しで虚空を見据えているアーセリアさんと視線が重なり、ワタシの視線を受けとった彼女は小さく頷くと、一連の主導者を口にした。
「今回の件の大本にいる存在は、そのさらに『上』。上層の管理者である、――幻獣様です」
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