67 男だからな


 苦し紛れか、リィルに向かって倒れ込んだバルッグさんが大きく息を吸い込み、迫りくる危機を気合いで打ち砕こうとしているかのように目一杯口を広げ、雄叫おたけびを上げたように見えた。


 しかし、雄叫びは声にならず、リィルの空気を引き千切りながら突き進むクレーンハンマーのごとき一撃の前には、儚さすら感じられた。


(無駄な足掻きを……)


 後はボロボロのヨレヨレになったオッサンを楯に、アーセリアさんたちに交渉を持ち込めば、こっちの有利な条件に持っていける。


 ワタシの心も救われて、高笑いと共にエンディングロール――その筈だった。


「あ、れ?」


 まるで、小石に躓いたみたいだった。


 リィルの全身から、いつの間にか空気が抜けるみたいに緊張が霧散していた。


 何が起こったのなんて分からない。ただ気がついた時には、バルッグさんに組み伏せられている彼女がワタシの目の前にいた。


「なん、で」


 自分の目に映っている状況が信じられなくて、思わず身を乗り出して二人の様子を確認しようとしているワタシの心情を代弁するみたいに、困惑に染まった弱々しいリィルの声が零れてきた。


 確かにリィルの拳はバルッグさんの顔面を叩き潰す直前まで迫っていた。あのまま真っ直ぐ腕を伸ばすだけで、彼の顔は整形が必要なくらいに整形されている筈だった。


 ――それなのに、どしてリィルの方が為す術なく地面に押し倒されているんだッ!?


 大人の恋愛っていっても、それは駄目でしょ。無理矢理、女性を押し倒すなんて。それをやってしまったらアレですよ、もうアレですよ、アレなんですかね!?


 もともと弱いってのに、ワタシの困惑しきった頭ではなおさら碌な考えがまとまらなかった。


 ただ分かるのは、確かに息も切れ切れで苦しそうにしていた筈なのに、まるで先程までのリィルとの攻防がなかったかのように平然と涼しい顔をしているバルッグさんがそこにいて、それを唖然と眺めるしかないってことだった。


 すでに焦点が定まらず、舌すらまともに動かせなくて言葉がもつれているリィルを、足と膝、それと片腕を使い、肩の関節を極めて少しも動けないように完璧に押さえ込んでいる。


 僅かな隙すら覗かせはしないバルッグさんが、まるでクイズの答えが分からないと駄々を捏ねる子どもに正解を披露する大人みたいに、得意げに口元をニィッ歪めた。


「ただの大声でどたまを直接揺さぶっただけだ。言霊の使い方は『言葉』だけじゃねぇってことさ。覚えておきな、


 言い終わるのと同時に、バルッグさんが腰に括ったポシェットのような袋から注射器に似た何かを取り出した。


 木々の間から零れた陽光に、針の部分が銀色にギラつく。まるで威嚇するように日を照り返す鋭い先端を目にした時、足下から小さな虫が這い上がってくるみたいに全身の毛が逆立った。


 緊張にささくれだった神経が、流れていく風景をスローモーションに映しだす。


 きっと、初めからこれを狙っていたんだ。あの不敵に吊り上がった口元が、それを隠そうともせずに物語ってる。


 わざわざリィルの得意な領分である接近戦という土俵に乗ったのは、『言霊』から意識を反らすため。


 あれだけ接近していながら最後まで使わなかったのは、おそらく有効範囲が短いっていうのと、確実に最大威力で食らわすため。


 手からピッケルをのだって、リィルが決着を急ぐあまり一撃で終わらせようとして、思わず大振りを繰りだしてしまうように誘っていたんだ。


 何枚もバルッグさんの方が上手うわてだった。決着の姿を想像して、そこに至るための道筋を一歩一歩確実に、注意深く踏みしめて進んでいたんだ。


 それに比べてリィルは、とりあえず顔面にち込むことだけを考え、それ以外は余計だと言わんばかりの振る舞いだった。


 駈け引きの巧みさ。そこに、大人としての経験の差が現れてしまったんだ。


 ――大人の恋愛って難しいんですね……。


 ワタシがアホなのは分かったから、今はそれどころじゃないだろ。現実から目を反らしても、リアルさんの歩みが止まることはないんだ。


 すでに針は動き始めている。獣人の身体の力によって引き延ばされた体感時間の中にいても、確実に少しずつ、銀色の凶器はリィルの首元への秒針を進めている。


 後、どれくらいの猶予があるだろうか。もしくはリィルに隠された能力が開花して、盛大な逆転の一手を繰りだす可能性はどのくらいだろうか。


 ……こんな、あり得ないことを考えて、現実から逃げ出すことを、後、どのくらい続ける気なんだろうか。


 アレの中身が何かなんて分からない。それでも、あれだけの脅威を見せつけるように振るっていたリィルに向けられているそれが、生易しいモノだなんて、あまりに希望的観測が過ぎる。


 しかも、おそらくはこの街の政治的にも権力的にもトップであろう人物たちに刃を向けて、あまつさえ一発とはいえ実際に手を出してしまっているんだ。


 下手をしなくても身体に何かしらの障害が残るかもしれない、もしかしたら劇物で、目を覚ますことないままベッドの上で一生を終えるようなモノなのかも。


 ……でも、だからどうしたっていうのか。


 仮にアレの中身が人一人を簡単に廃人にしてしまうような代物だったとして、それで? ワタシにいったい何ができるっていうんだ?


 傷つくなんて痛いことは嫌だ。


 傷つけるなんて痛いことは嫌だ。


 いい大人が殴り合いの喧嘩だなんて、そんな、そんなこと!


「――駄目だぁあ!!!」


 ――何が駄目なんだろうな……本当に。


 じゃあ今までの二人の戦闘はなんだったんだって話になっちゃうじゃないか。それが何さ、今更。


 自分の友人が傷つけらる未来が確定してしまった瞬間、掌を返して。自分勝手にも限度があるだろうに、それは分かってる。でも、身体が動いちゃってるんだ。


 無我夢中だった。


 考えなんてまとまる筈もなくて。ただ、引き延ばされるみたいに後ろに流れていく景色の中で、倒れ伏しているリィルの姿と銀色の光だけが鮮明だった。


「なッ!?」


 突然、叫び声を上げながら突進しだしたワタシを、視界の端で捉えたのだろう。バルッグさんは目を見開いて、先程までどこか得意げに見えるような笑みの形をしていた口元が、今度は驚愕に歪められる。


 でも、すでに動きだし、その巧みな身体操作ゆえに無駄なく急所に向かって振り下ろされる武器は、彼自身だって止めようがない。


(だから、これしかないッ!)


 リィルと針の間に滑り込ませるように、必死に手を伸ばす。


 この一撃はリィルに向けられたものだ。だからワタシの『ワタシに向けられた攻撃を受けない』という神様からの贈りギフトが、効果を発揮してくれるかは分からない。


 妖精の鱗粉の一件でも、ワタシに対して悪意がないモノは防いではくれなかった。だから、これは完全に賭けだ。


 それでも、やらなきゃならない。今更でも、遅すぎだとしても、『俺』は男だから!


 自分たちのために頑張ってくれた女の子の危機を、見て見ぬ振りするなんてことだけは、絶対にやっちゃいけないだろ。


「ぐぅぉおお!」


「あぁああッ!」


 ワタシの叫びとバルッグさんの唸り声が重なる、おそらく無理にでも腕を止めようとしてくれたんだろう。ほんの少し、本当に僅かだけど、針の先端がぶれるように動きが鈍った。


 ――これなら!


「まにあっ」


 間一髪、リィルと針との間に身体を滑り込ませる。


 後は祈るだけ、今だけはあの胡散臭さを凝縮したような神様だって信じてもいい。だからお願いします。助けて下さいなんでもしますか――そういえば、これどうやって止まるん?


 祈ることに集中するあまり、身体の操作を怠った結果、ブレーキをかけるのが致命的に遅れてしまっていた。針の壁にする筈の手はそのまま滑っていき、針が視界の後ろに消える。


(やば、行き過ぎ)


 自分のアホさ加減に唖然とする間もなく、首筋に鋭い衝撃が突き立てられた。


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