61 またか、またなのか
布張りのソファーの肘掛けに頭を乗せて、身を深く沈めながらゆったりと全身の力を抜く。辺りに漂う紅茶の香りが、疲れた身体を労ってくれるみたいにワタシを優しく包み込む。
思いの外高く見える天上は、どうしたってワタシの矮小さを見せつけてくる気がしてならなかった。
――本当は気がついていたんだ、……アレもまた犬の所業でしかないんだって。
具体的には五往復目ぐらいから。
繰り返されるフリスビーの投擲にもしかしてって疑問は浮かんできて、でもその時には子どもたちも参加しいたから言いだせるような空気でもなくて。
誰かが投げたフリスビーをそれ以外の全員で楽しげな声を上げながら追い回す。彼らは二足で、ワタシとペスさんは四足で。ここに人類と動物の明確な線引きができた訳ですね。
「
「イディちゃん、このクッキーとっても美味しいよ。食べてみて!」
「ほひゃ、ほうやっひぇ、ふぐふぇぐけふようと、もぐむしゃー!」
――ナニコレ美味しい!
いや、違う。そうじゃないだろ、ワタシ。
いくら軽やかなサクサク生地の中からカリカリの香ばしい木の実が顔を出して、ベストフレンドで十点満点のコンビネーションを魅せつけてきたからって、
「アタシの手作りなんであんまり見栄えが良くないンスけど、気に入ってもらえたんなら良かったッス。
んにしても、イディちゃんはすっごい体力ッスね~。チビたちははしゃぎすぎておネムなのに、それ以上に動き回ってまだ元気があり余ってるって感じッスもんね~」
「でしょ~? イディちゃんはすごいんだから! 私とだって張り合えるくらい長く動き回っていられるし、私が糸を使わないと捕まえられないくらい身体能力も高いんだから!」
「いや、姐さんと張り合える上に糸まで使わせるとかマジで凄いッスね。……人族か疑わしいくらいッス」
別の方向性を持った人外認定までいただいてしまって、なんか本当にワタシが人類じゃないみたいになってしまったことに驚きを隠せないんだけど、リィルが人外として周知されていることには深い得心と共に頷くことができるのは日頃の行いってやつですね。
人類は一度立ち止まって己を顧みるべきだ。果たして自分が進む道はこれいいのか、と。ワタシは大いに不安と不満があるので、即刻リコールをお願いします。
「そういえばオロアちゃんとペスはどうしたの?」
「子供たちと一緒にラック君を寝かしつけているうちに、一緒になって寝てしまったようです。ペスはそのまま子守りに残ってくれています」
「オロアちゃんには、うちの子たちも随分懐いてるからいっつもお世話になって、アタシも大分助けられているんスよ」
「へ~、やっぱり一人っ子だからかな。自分より小さい子を見るとお世話してみたくなるのかも。分かるな~、私もついイディちゃんのお世話に熱が入っちゃうからな~。一人っ子だからね、しょうがないよね。
という訳で、イディちゃ~ん!」
「あ゛ぁああせめて人としてお世話をお願いします!」
覆い被さりながら、顔をワタシのお腹に擦りつけくるリィルを引き剥がそうともがいても、背中に回された手でガッチリとホールドされてしまっては為す術なく、助けを求めて天に向かって伸ばした腕を震わせながら、食べ零してしまったクッキーの欠片と一緒にお腹をハムハムされるしかなかった。
「んにしても、記憶喪失ッスか。なんか色々と大変ッスね、イディちゃんも」
「うむ。どうにかしてやりたいのだが」
「記憶の前に今にもワタシを捕食しそうなこの人をどうにかしてください!」
「大丈夫。痛くな~い、痛くな~い」
「痛んでないのは貴女の心だけだから!」
ワタシの身と心はいつだってボロボロですよ。
やっとの思いでリィルの拘束から抜けだして、距離をとって四つん這いのまま頭を低くして警戒をあらわにする自分の行いに、また傷が一つ増えていく訳だからホント敵しかいねぇや。
「う~ん。魔法がらみっていうと、やっぱ魔術院ッスかね?」
「魔術院は私も考えましたが、オールグの魔術院は空師の治療に特化しているため、記憶の復元やどんな魔法を受けたかなどの学術的な方面に詳しい方はいるというのは聞いたことがありません。
加えて、そこまで高度な精神干渉の魔法となると、許可が下りるかどうかも怪しいところです」
「だよね~。ほらほらぁ、イディちゃ~ん」
「おやつを見せれば勇んで跳びつくと思ったら大間違いだから!」
犬扱いは止めてもらおうか!
そんな香ばしくサクサクに焼けたクッキーを見せつけられたって、鼻がヒクついて尻尾が暴れまわって口の中に涎が溢れてくるだけで、なんの問題にもならないんだから鼻先で揺らすんじゃない。そんな、そんなぁ!
「もぐむしゃー!」
――ワタシの人間性と同じくらい軽やか! いくらでもいけそうだね!
「いやいっちゃ駄目だろ!」
「全然駄目じゃないよ! むしろバッチこいだよ!」
「ハハッ、当人がそこまで深刻そうじゃないのが救いッスかね」
「そうですね。と、ところでリィル殿。わ、私もクッキーをいただきたいなぁ、などと、思うのですが。その……」
そうだそうだ。もう色々とお腹一杯なワタシなんかより、そこで耳をピコピコ不安そうに揺らしながら、モジついてる山羊っ娘をかまってあげてやってください。
「なんだ、ゼタも食べたかったの? ゼタも結構食いしん坊だよね~」
「なっ!? 私は食いしん坊じゃないですもん!」
「うそうそ。はい、あ~ん」
一口大に砕いたクッキーを差しだされると、ゼタさんの顔が一気に赤くなったようで、耳が緊張からかピンと上を向いて固まった。
「わ、私は、別にあ~んして欲しいとは一言も」
「え~。じゃあいらないの? そっかぁ。ゼタは、私にあ~んされたくないのかぁ。寂しいなぁ、昔はあんなに甘えん坊だったのに」
「む、昔のことはいいじゃないですか! そ、それに、嫌だとは、言ってないです……」
「そお? じゃあ、あ~ん」
「うぅ……」
リィルはワタシの時と同じように悪戯っぽい笑みをしていたけど、なんというか目がどこまでも穏やかな色をしていて、まさにお姉ちゃんの戯れって感じの一幕で、ワタシまで微笑ましくなってくる。
――こういうのでいいんだよ。こういうので。
「あ、あ~……」
観念したのか、若干気恥ずかしそうに目を伏せながらも、クッキーに小さく開けたゼタさんの口が届きそうになった瞬間、部屋の天井隅に取りつけられている花の蕾のような照明がチカチカと瞬いた。
「あー……、お客さんッスね。アタシはちょっと対応してくるで。ごゆっくり~」
全員の気が反れるのと同時に、今までゼタさんの中で存在が消失していたであろうシュシュルカさんが居心地というか、間というか、とにかく気まずそうな声と表情でそそくさと部屋を後にした。
固まったままシュシュルカさんの後姿を見つめていたゼタさんは、扉がパタンと軽い音を立てて閉じられたのと同時に再起動を果たし、両手で顔を覆いながら声にならない叫びを上げるとソファーに頭を埋めるように丸まった。
「ね~ね~。クッキーはいらないのぉ? ゼタぁ」
「止めて差し上げて」
一ミリでも地面に近づこうとするように、ぐりぐりとソファーに頭を擦りつけるゼタさんの丸まった背中を指で突きながら、リィルがからかいの色だけで構成された猫なで声をかけるのに思わず静止を声をかけてしまったが、お構いなんてなかった。
「そんなに恥ずかしがらなくたっていいじゃん。あ~んくらいで、大げさだよ。イディちゃんにはキスまでした癖に」
「あ、あれは! その、なんというかその場のノリというか。演技に入り込み過ぎたというか」
「前から思ってたけど。あの安いお伽噺に出てきそうな騎士様キャラ、どうしたの?」
「あれは、その。
ようやく顔を上げたゼタさんが、両手の人差し指をチョンチョン合わせながら、母親に失敗がばれた子供みたいに不安げな上目遣い見上げてくるのに、リィルはあごに指を当てながら空を睨んで記憶を辿っているようだった。
「あ~、あの人ね。まぁ、想像できるかな。それで、言われるまま信じて、演じちゃったの? 疑いもせず?」
「だ、だって団長の言うことですし! それに、栄えある
私以外、誰もそういう振舞いをしている人がいなくて、おかしいなって気がついた時にはあれが定着していて。
なんか、望まれている節すらあって。今更ふざけてキャラを作ってましたなんて言えなくてぇ……」
確かに闘技会の時なんか、女性ファンの黄色い声が会場を揺るがしていたし、それ以外にも身近なところだと、オロアちゃんとかドハマりしている上に、あれは自分から浸かりに行っている節まであるからな。
膝に縋りながら今にも零れそうな程の涙を溜めた瞳で不安げに覗いてくるゼタさんに、リィルは小さく溜め息を
「まぁ、普通のゼタを知ってる身からすると、面白可愛いからいいけどね」
「お姉ちゃんの薄情者ぉ!」
今度こそ落涙させながら、今度はソファーではなく太ももに顔を擦りつけくるのに、リィルはそんな背中をポンポン叩きながらクスクス喉を鳴らして笑った。
「――ヤメてぇッ!」
和やか部屋の空気をシュシュルカさんの怒声が揺るがしたのは、そんな時だった。
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