11 俺(ワタシ)は道化(おど)る
薄暗く影ばかりが張りつく路地裏、所々で幾筋かの光が走り、少しヒンヤリした壁際から眺めると光がより鮮やかに浮き上がり、眩しいくらいに輝いて見えた。
いや、どちらかと言えばヒンヤリしているのはワタシの背筋で、さっきから冷や汗が止まらないだけなんだけども。
それでも知らない街の路地裏というのは誘われるような魅力があるのは確かで、それがこんな美しい街なら尚更だ。
ふと覗いた薄暗がり、この細道の先にもしかしたら、今まで出会ったことのないような不可思議で魅力的な光景が待っているかもしれない。そんなことを思わずにはいられない。
それは、ひっそりと営まれる不思議な珍品が並ぶ雑貨屋かもしれないし、袋小路に建てられた手作りの秘密基地かもしれない。
もしかしたら浮世離れした美しい女性が静かに読書を嗜む庭園があり、そこから語られたことのないようなドキドキと胸躍る冒険が始まるのでは、そんな子供じみた予感が腹底から湧き上がってくるような情景。
――ああ美しきかな、異世界……。
「ひぃい!」
まあ、この胸の高鳴りは緊張からくるドキドキなんだけども。
何度目になるか数えるのも馬鹿らしくなるぐらいに、あちこちから飛んでくる石材の欠片だったり弾かれたリィルさんの針だったりが身体の近くに当たる度、喉から引きつったような悲鳴を上げてその場から飛び退いていた。
夢見る探検心を蠱惑的にくすぐる筈の路地裏は、殺伐とする暇すらない目まぐるしい攻防が繰り広げられる激戦区と化していた。
いや本当、誰か教えてやって。
ファンタジー系異世界の魅力は超人的戦闘にあるんじゃあない、って。
「おぉああ!」
「フッ!」
ゼタさんの肉食獣じみた咆哮と共に繰り出されたピッケル(で、もういいや)の一撃と、リィルさんの気合を入れるような短い呼気と共に投げられた針が衝突する。
普通に考えればリィルさんの投げた針が叩き落されるだけの筈、しかしゼタさんが振るうピッケルが針に打ちつけられる度に、まるで硬い岩盤にぶつかったようにピッケルの方まで明後日方向に弾かれていた。
――さすがファンタジー、物理法則を真正面から叩き潰してみせるとは……。
そして、リィルさんの武器は針と糸だけではなかった。
針を投擲していることからも距離を保ってやり合うのかと思っていたが、針との衝突やそこら中に張り巡らされた糸によってゼタさんの体勢が崩れたと見るや否や、一息で距離を詰め空気を引き千切るような拳を繰り出してみせた。
いや、その音は断じて拳が出していい音じゃない。
巨大な鉄骨を振り回したような猛烈な音を、女性の細腕が出すとか実際に目の当たりにすると違和感が凄まじくて気が遠くなる。
――誰だ、リィルさんが静の雰囲気とか言った奴は、思いっきり動じゃないですか。
しかしゼタさんも負けてはいなかった。
その獣人の身体を十二分に駆使し、壁の僅かな突起やリィルさんの張った糸に蹄を引っ掛けるようにして、けして広くはない路地裏を縦横無尽に跳び回り三次元的な動きでヒット&アウェイを繰り返していた。
「相変らず馬鹿みたいに底なしの魔力量ですねッ!」
「そう言うゼタは昔よりずっと身体の使い方が上手くなってるね」
焦れたように叫ぶゼタさんに対し、リィルさんは世間話でもするように平坦な声音で答える。その間にも二人の攻防は絶え間なく続き、互いに息を吐かせる間も与えない連撃はより苛烈さを増していった。
そして、ワタシは身体をなるべく小さく丸めて壁に張り付くように震えていた。
力の入らない身体を叱咤して、なるべく二人から距離を取るように尻もちをついたまま這いずり回り、改めて確信する。
最近流行の異世界転生系ラノベの主人公たちは、頭が逝っちまってる戦闘中毒者(ジャンキー)だ、間違いない。
転生特典とか、ゲーム感覚だからとか、勇者として召喚されて困っている人におだてられたからとか、そんなのが理由になるレベルじゃない。
刃物や鈍器(拳)が、殺す為だったり傷つける為だったりするそれらが自分に向けられ、あまつさえすぐ目と鼻の先、肌からわずか数センチの距離を掠めていくのだ。
そんな危険地帯になんの迷いもなく、すぐさま戦闘に飛び込んでいくような輩は、頭の螺子が足りないどころか存在していない違いない。
それが自分に向かってくる害意でもなく、ましてや二人の激闘はワタシから五メートル以上も離れた場所で行われているのに、本物の暴力というものは見ているだけで胃が絞り上げられるようなストレスを植えつけてくる。
――怖くて、恐ろしくて、呼吸さえ儘ならないとか勘弁してほしい。
なまじ身体のスペックが良すぎるせいか、怪しく煌きながら宙を翔る針の先端や、凄まじい速度で振るわれるピッケルの刃の細部に至るまで、明確に視認できる。
それどころか身体のどこの部分へめがけての攻撃であるかとか、互いの目が物語る相手への攻撃の意志までも読み取れてしまい、他人事として見ていられなかった。
なんで健気に目の前の事実から目を逸らそうとするワタシを、現実という奴はことあるごとに頭を押さえつけて目を開かせるような所業をするのだろうか。
幼女を苛めるとか、控えめに言って鬼畜かよ。
「あ゛ぁあ!」
「フッ!」
また、火花が散る。
仄暗い路地裏に瞬きの間だけ灯る火花は、それだけを見ればなんとも幻想的に美しいのに、緊張を孕んだ息遣いや相手を刺すような鋭い視線が、そこにあるもの全てを刺々しく触れ難いものに変えていた。
リィルさんの針がゼタさんの頬を掠め、体毛が幾本か切り飛ばされるのを見る度に悲鳴が漏れ、ゼタさんのピッケルが一瞬前までリィルさんのいた場所を抉る度に、胸を突き破ってくるのではと思う程、心臓が大きく跳ねた。
二人の一挙一動が精神攻撃になってワタシを攻め立ててくる、異世界がこんなに身体に悪いなんて初めて知ったわ。
本当に、こういうのはワタシの知らないところでやって欲しい。
「ラァッ!」
鋭い気合いを発し、ゼタさんが空中で針を弾くのと同時に身体を捻り右手に持っているピッケルを大きく振りかぶって投擲する。
風を切って迫る凶器に、リィルさんは落ち着き払った様子で余波をくらわないのであろうギリギリの距離だけ後退した。
ピッケルが轟音と共に地面を穿ち、砂塵を巻き上げる。
ゼタさんは地面に降り立つと同時に追撃を仕掛けるべく地を蹴る、それを見越していたように立ち籠める砂煙の向こうから三本の針が飛び出してきた。
「二十八、二十九……三十ゥッ!」
しかしゼタさんもそれを予め知っていたかのように針を避け、あるいはピッケルで逸らすように受け流し、速度を緩めることなく砂煙に突っ込んでいく。
ゼタさんが巻き起こした風に払われ、砂煙の向こうからリィルさんの驚愕に染まった顔があらわになる。戦闘が始まってから頑なに変わらなかったリィルさんの表情が初めて崩れていた。
しかしその時には、地面を滑るように移動して懐に潜り込んだゼタさんがピッケルに繋がった紐で上半身を両腕諸共縛り上げ、もう一本のピッケルも地面に突き刺しリィルさんを拘束し終えていた。
「これでぇッ……詰みだッ!!!」
素早く腰に背負っていた鉈を抜き放ち、リィルさんの喉元に突き付けるのと同時にゼタさんが勝鬨の咆哮を上げる。
山羊とは思えない獰猛な笑みを浮かべ、地面に縛り付けたリィルさんを背後から見下ろした。
――や、やった。ゼタさんが勝った! これでテメェも終いだぁシリアスゥ!
腰が抜けて立ち上がれないまま、心の中で跳び回り散々に暴れ回ってくれたシリアスさんをこれでもかと踏みつけておいた。
あとはリィルさんを説得して落ち着かせてから、ゼタさんに事情を説明すれば万事解決だ。サヨナラ殺伐、お帰り平穏。
「はぁ、はぁっ。貴女が、いつも携帯している針の数は、三十だ。
きっちり三十本、全部打ち払わせてもらいました。糸の仕掛けも、確認済み。貴方の手元に残っている武器は肉体のみ、それもこうして拘束した以上、もはや決着はつきました。
大人しく同行してください」
荒く肩で息をしながら語り掛けるゼタさんに、リィルさんはしばらく俯いたまま固まっていたが、大きく一つ息を吐いてから持ち上がった顔には先程までの固く冷たい表情はなく、憑物が落ちたように穏やかな微笑みが浮かんでいた。
「本当に強くなったね。ゼタ」
「リィルさん……。ッ、はいっ!」
娘に絵本を読み聞かせるような優しい声、自分の手から巣立っていく小鳥を見送るように柔らかく弧を描いた瞳に、ゼタさんも涙を浮かべながら満面の笑みを咲かせた。
まさに感動の和解だった。
「……でも、詰めが甘いのは変わってないかな」
「えっ?」
リィルさんの小さな呟きにゼタさんが素っ頓狂な声を漏らすのと同時に、どこからともなく飛んできた糸が巻き付き、逆バンジーよろしくゼタさんの身体を宙に跳ね上げた。
「わぁああんむぐっ!」
上げて落とすとか……、シリアスさんは天丼分かってる系のシリアスさんですか。
――自分、ちょっと泣いてもいいですか?
宙吊りにした上に、ご丁寧に両腕を後ろ手に縛り上げ猿轡まで噛ませる徹底ぶり。しかも足と腕の糸を繋げてエビ反りにして、身体を縛る紐が色々と危ういところに扇情的に食い込んでいる。糸じゃなくて紐としての使い方ですね、これは。
「昔持ち歩いてた針の数と今持ち歩いてる針の数を同数だと思うのは早計だし、罠が自分の周りにしかないと思い込むのは悪手だよ。
まあ、リィルちゃんをわざと逃がした後にもう一回捕まえる為のだったんだけどね」
――ひゅー、悪趣味ぃー!
ピッケルを力技で地面ごと引き抜いたリィルさんが、身体に着いた砂埃を払いながらゆっくりと近づいてくる。なんだか某野菜人みたいにギュピッギュピッと足音が聞こえてきて、どんなに心の中でおちゃらけてみても精神の摩耗が止まりそうにない。
「さて、」
目の前にリィルさんが立ちはだかり、ディープブルーの瞳に見下ろされた時にはもう駄目だった。
とりあえず尿道よ、お前はよく頑張った。
「――お待たせイディちゃん」
いえ全然待っていませんので、ワタシのことは気にせずご存分にゼタさんと旧交を温めていただけたらと思うんですが、駄目ですかね?
「んふふ、大丈夫。お話しは帰ってからね。ベッドに寝かしつけながらゆっくり聞いてあげる」
――あっ、駄目そうですねこれは。
有無言わさずワタシを抱き上げると、先程まで戦闘に使っていた糸を抱っこ紐のように使い、自分と繋ぐ執拗さに恐怖しか浮かんでこなかった。
頼みの綱のゼタさんは空中に縛り上げられて身動きが取れず、猿轡の奥からもがもがと言葉にならない叫びを漏らすことしか出来ないようで、目で健気なまでに謝意を伝えてきた。
良いのです、ゼタさん。貴女は見ず知らずのワタシの為に本当に良くやってくださいました。
もうどうにもならないのです、本当に残念ですが最後の手段を取らざるを得ないようです。
可能な限り使いたくなった。
月曜日からの逃避行という全世界の社会人の夢を背負って異世界に来たワタシにとって、それは自分から悪魔の抱擁を受けに行くようなものだから。
しかし、しかしだ。それを唱えたら最後、ワタシの目の前には惨たらしく殺された休日が横たわるとしても、それが許されない厄災だったとしても……。
ワタシにも、守るべきものがある!
――やっぱり赤ちゃんプレイはあかんやろ。
それと比べれば休日がどうとか、ワタシの責任がこう言っている場合ではなく、己の人間性の危機である。逃げるしかない、幸いにも両腕は動かすことが出来る。
――今こそ、両手を掲げ力ある言葉を唱える時!
「アイムホーム!」
『 ― 発音が稚拙です。やり直してください ― 』
――知るかっ! ワタシは日本人だぁ!
「そんなに慌てなくても、すぐに二人の愛の巣(スイートホーム)に連れてってあげるよ」
ああぁ、脳内メッセージにツッコミを入れてる場合じゃない。元々なきに等しいとはいえ、このままでは僅かに残っている人間としての尊厳まで失うことになってしまう。
落ち着けぇ、お乳つけワタシ。落ち着け、落ち着けば、落ち着くとき、おちぬるぼ。いやだから落ち着くんだ。落ち着いて、
――思い出すんだ。中学校の頃の英語教師、キャシー先生の発音を!
「I’m Home!」
「はぁあッ!」
まず目に飛び込んできたのは、見慣れた天井の冷めきった色の蛍光灯だった。
慌てて起き上がって見回すと、そこには何一つ変わりのない狭苦しい六畳間があった。
「そりゃそうか、夢だよな。……溜まってんのかね、幼女になって襲われる夢なんて。ハハハ……はぁ」
吐きだした溜息はいつも以上に重苦しかった。
「……起きるか。二度寝できそうにないし」
夢のせいか寝汗が酷くて、横になっているだけでも肌に張り付いた衣服が不快だった。
ベッドの縁に腰かけ、枕元に転がっているリモコンでテレビンの電源を入れる。もはや習慣になった朝のお決まりは意識せずとも、身体が勝手に動いていた。
『――おはようございます。月曜日、朝九時のニュースをお届けします。今朝の気温は……』
「ヴんん?」
ニュースから届けられた不穏な言葉に、欠伸をしようと大きく開いていた口から変な声が出た。まだ寝惚けているのだろうか、月曜日とか社会人の天敵の名前が聞こえてきた気がする。
知らないうちに日本のニュースも随分とお茶目なことになっているらしい。
日曜日を消失させるなんて、子供からお年寄りまであまねく全ての人に殴殺されるべき悪事だ、許されざるよ。
「例えエイプリルフールだったとしても、言って良いことと悪いことが……」
徐にスマホを確認して、震えた。
そこには、確かに月曜日の文字が表示されており、麗しの日曜日が俺のあずかり知らないところで帰らぬ人になってしまったことを意味していた。
「日曜日、どこ行ってしまったん?」
何度見返してみても、スマホを振ってみても、画面に映る月曜日の文字が変化することはなく、これが現実だということを俺の脳髄に叩きつけてくる。
あまりに暴力的。信じて待っていた日曜日が悪魔で月曜の鬼畜姦計にドハマりしてお別れピースビデオレターを送ってきたばりの衝撃だった。
――またね。……ってか? 昨日という日曜日はオマエしかいないんだよぉ!
「………………ハッ! 正気を失ってる場合じゃない、今日が月曜日(あくまのひ)ってことは。ま、まさかっ?!」
スマホを持つ手が震える、電源ボタンを押そうとしている指はもっと震えている。現実を確認するのを拒もうとする指を精神力で抑え込み、そっと電源ボタンを押しこんだ。
――どうかさっきのニュースよ、誤報であってくれ。
新聞だって日付を間違えたことがあるんだ。ニュースが時間を三時間ぐらい飛ばしてたって大丈夫、今更信頼度なんて小揺るぎもしないさ。だからどうか、
しかし悲しいかな、非情にも画面には『9』の文字が輝いていた。
――知ってた……。月曜日(だいまおう)からは逃げられない、って。
「……ち、遅刻だぁあ! い、急がないと、あっ痛ぁ!!!」
ベッドから立ち上がり一歩目を踏みだしたところで、床に落ちていた何かに小指を強かに打ち付けた。痛みに悶え片足で跳び回りながら、スーツに袖を通して玄関から飛びだす。
「夢の中からずっとこんなんばっかだ、ちくしょうっ!」
焼けたアスファルトの黒が目に眩しくて、涙が零れそうな月曜日の朝だった。
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