殻の中

「コッ、コッコッ」


「カッ、カッカッ」


「ほう、そうなのですね」


「コーエッ、ココッ」


「カーエッ、カカッ」


「なるほど、そういう理由なのですね」


「コココココココ」


「カカカカカカカ」


「ふむ、よく分かりました」




 よく分かっておられない方もいらっしゃる可能性を踏まえて最初から説明しよう。

 



 自分は決して不幸なわけではない、と鶏のゴールデンエッグは信じている。


 飼い主の狗藤くとうは大切にしてくれるし、家のベランダにはよく友達のカラス達が遊びに来てくれるし、住んでいるこの町も毎日どこかで変な事件が起こりはするものの、色々な人や物が存在していて楽しい。


 幸福である。ただ一点を除いて。


 アパートの隣人が、気に入らない。

 一里間ひとりまというそいつは、いつもいつも狗藤と自分が楽しく過ごしているのを邪魔してくる。

 自分は狗藤と二人っきりで過ごしたいのに、優しすぎる狗藤は一里間に何か頼まれるとほぼ断らずに手伝いに行ってしまう。


 気に食わない。

 狗藤は自分だけのものなのに。狗藤からの愛情を受けていいのは自分だけなのに。途中から来たくせに狗藤さんにかわいがってもらうなんて。

 視界にあの暖色の上半身が入るたび、苛立って仕方がなかった。


 先週なんて、平日なのに狗藤が家にいた。喜んでいたら、狗藤は何やらPCに向かって喋り始めた。

 アタイがここにいるのに、他の誰かと…… と無性にカーッとなり、我を忘れて綺麗に畳んで置いてあった洗濯物を荒らしまくってしまった。


 後に、あれは仕事の一環だったのだと狗藤に叱られ、大いに反省した。

 知らなかったとはいえ、とんだ妨害行為をしてしまった。けれど、これも一里間のせいだ。一里間が越してくる前は、自分はこんな感情を抱いたことなどなかったのだから。

 今日イライラしたのも、一里間のせいでイライラするという感情を覚えてしまったせいだ。全部一里間が悪いんだ。

 本気でそう憤った。




 しかし、その数日後。狗藤とゴールデンエッグが、公民館でマジックショーを行った翌日のこと。


 朝っぱらから「昨日刀飲みを行った際に誤って刀を消化してしまい、お腹を壊してしまいました。丸一日お手洗いから出られそうにありません」という色んな意味で驚きのメールを受け取った一里間は、その日ゴールデンエッグの世話をすることになった。


「大丈夫かな狗藤さん。一日じっとしてれば良くなるって言ってたけど…… 食べられる余裕がありそうだったら、何か消化の良いものでも差し入れた方がいいかな……

 あ、そんなわけでよろしくねゴールデンちゃん」


 ポカポカの明るい炎から、ゴールデンエッグはあからさまに顔を背けた。

 炎の主はいつものことに苦笑しつつ、ゴールデンエッグの朝食を用意し始めた。


 なんでよりによってこいつに面倒を見てもらわなければいけないんだ……


 胸の内に呪詛を渦巻かせつつ、火炎を見ないように室内をうろついていたら、ちょうど自分の目線の高さの小さなテーブルに置かれた、あるものに目が行った。

 見覚えのある、小さな白いふわふわしたぬいぐるみの付いたストラップ。そうだ、これはこの前狗藤さんが羊毛フェルトで作っていたものだ。

 一里間とお揃いにするんだと、2つ作っていた……




 全身の内容物が弾け飛ぶかと思った。猛烈な怒りだった。

 

 考えるより先に、ストラップを咥えた。

 顔を上げたら、ベランダに通じる窓が開いているのが見えた。

 飛ぶような速さで駆け、ベランダに飛び出した。

 格子状のフェンスから頭部を出し、そして。

 くちばしを開いた。


 重力に従うまま、みるみる落下していくストラップ。


 ははは、落ちてく落ちてく。

 どんどん小さくなって、見えなくなってく。ざまあみろ。




 違う。

 違う違う違う!


 何がどう違うのか分からないまま、首をめいいっぱいに伸ばし、ストラップを拾おうとした。

 けれど、もうとっくに届かないほど遠く離れてしまっていた。

 さらに悪いことに、そこに強風が吹き付けた。


「!」

 思わず目を閉じ、再び開けた時には、あの大切な小さな物体は見えなくなっていた。


 どうしよう。とんでもないことしちゃった。


「ゴールデンちゃん」

 背後の声に、びくりと飛び上がった。


「ここに置いといたストラップ知らない?」


「……」


「ごめん、知らないよね」

 どこいっちゃったんだろう、と努めて明るく、けれど隠しきれない動揺と悲しみのこもった声色。ゴールデンエッグを疑うという発想すらないその声に、しばらく身動きが取れなかった。




「そんなことがあったんですね…… では、『悪い子』を治してほしいということでよろしいですね?」


 カラス語は分かるが鶏語は分からない目井めいさんのため、友達のカラスに通訳としてついてきてもらったゴールデンエッグは大きく頷いた。


 いくら一里間がムカつく奴だからとはいえ、今回は明らかに自分が悪い子だった。

 狗藤さんはいつも自分を「いい子」って言ってくれるけど、勘違いしてるんだ。自分は悪い子だ。だからあんなことをしてしまったんだ。

 あんなの、盗みみたいなものだ。狗藤さんがかつて犯した、狗藤さんが絶対にやってはいけないと常々言っている、盗みと同じだ。盗むのは、悪い子のすることだ。

 しかも盗んでおいて、「ごめんね」も言えなかったなんて。

 

 悪い子は、治してもらわなきゃ。




「ですがね、ゴールデンエッグさん。本当に『悪い子』なら、自分で気付いて反省できないと思いますよ?」


「……うるさい。早くやってよ」

 

「……分かりました」

 カラスによる翻訳を聞いた目井さんは頷いた。




「とはいえ、『悪い子』の治療薬というものもないので、こちらを」

 目井さんはプラスチック製の小さな容器に紐を通し、ゴールデンエッグの首にかけた。容器は小さな瓶のような形状で、紺色の凸凹した目盛りがついていた。


「カッとなってしまった時に飲むと気持ちが落ち着くお薬です。1回カッとなるごとに目盛り1つ分飲んでください。飲み過ぎちゃいけませんよ。

 それと、どうして一里間さんにイライラしてしまうのか、落ち着いている間に少し考えてみるといいかもしれませんね」

 何やら難しそうなことを言われたが、とりあえず目井さんとカラスに礼を言い、ゴールデンエッグは帰路についた。




「あ、ゴールデンちゃんおかえり! お出かけしてたの?」

 郵便受けから室内に入るなり、こちらに向けられる燃え盛る炎。

 さっと顔を背けてしまってから、はっとする。

 

 また、悪い子になってる。


 一里間から見えないように背を向け、もらったばかりの容器の中の液体を口に含む。確かに少し冷静になれた気がした。

 そっと振り向いてみる。先程と同じ炎、けれど、先程よりはムカつかなかった。




 それ以来、ゴールデンエッグは一里間に腹が立ってしまう度に薬を飲むようになった。

 薬効は絶大で、どんなに強い負の感情もスッと収まった。今では、怒りとは程遠い感情で一里間に接し、遊ぶこともできるようになった。


 一方で、罪悪感を忘れたわけでもなかった。狗藤や一里間の目を盗んでは外出し、アパートの周辺を中心にストラップを探すことを続けていた。成果は全く無かったが。




 そんなある日、ストラップの捜索から帰ってきたら、廊下の隅っこ、一里間の部屋の前で一里間と狗藤が立ち話をしていた。

 狗藤の実に楽しそうな表情と一里間の桃色の炎に、またむっとして、容器にくちばしを伸ばしかけたその時だった。


「ゴールデンエッグさん、またそちらに遊びに行ってたんですの? すいませんねこの頃」


「ええ、来てたんですよ。今はまたどこかに遊びに行っちゃってますけどね。最近、仲良くしてくれてむしろ嬉しいです」


「そうですわね。一里間さんを攻撃することも減ったようですし…… 心を入れ替えたんでしょうかね」


「ですかね。……それと、本当に申し訳ありませんでした」


「ですから、もういいんですのよあのことは。またお作りしますわ」


「そういう問題ではなく、せっかく狗藤さんから頂いたものを無くすなんて……」


「いいんですの。物を無くすなんて誰にでもあることですわ」


「ですが……」




 そうだ、自分は一里間に酷いことをした。


 酷いことをされた方が怒りの感情を抱くのは自然なこと。けれど自分は、酷いことをした方であるにも関わらず、被害者に対して怒りの感情を抱いているのだ。

 大切な人にもらった大切なものを無くしてしまったと嘆く、何も悪くない被害者に。


 今更気が付いた。地面が揺らいだ。


 悪い子。悪い子。悪い子。

 治さなきゃ治さなきゃ治さなきゃ。


 目盛りを忘れて、容器の中身を一気に喉に流し込んだ。




「あらゴールデンエッグさん。おかえりなさい」


「おかえり、どこ行ってたの?」


 よく知った2つの声が頭上から聞こえる。気にせず郵便受けを通って自宅に入った。

 なんとなくふらふらと歩き、なんとなく部屋の隅にうずくまる。


「どうしましたのー?」

 ドアの開く音。口の端を上げ、目尻を下げた顔でやってきて、自分を持ち上げる飼い主。何故自分をこんなに至近距離で見ているのだろうこの人は。


「あ、そう言えばですね、今日あなたのお好きなご飯買ってきたんですの!」

 餌皿に盛られる何か。匂いと質感からして食物だろう。食事は生命維持のために必要不可欠だ。食べる。

「美味しいですの?」

 何か聞こえるが、意味も分からないし気にしない。ひたすら食べ物を胃に送り続ける。


「あとね、あなたの好きそうなおもちゃも買ってきたんですのよ!」

 緑色の球体のようなものを見せられる。飼い主がそれを握りしめると、プーと音が鳴った。

「面白いでしょう? ほら!」

 球を投げる飼い主。何の意味があるのだろう。まあ気にすることもない。


 睡眠は生命維持に必要だ。寝よう。目を閉じる。

「あれ、もうおやすみですの? 早くありません?」

 何か言われたが、すぐに眠りに落ちたので気にならなかった。


 先日通訳の役割を果たしたカラスは、その様子をベランダから心配そうに眺めていた。




「で、起きたらいつも通りになってるだろうと思ってたんですが、今朝もずっとそんな感じで……」


「ゴールデンちゃん、ゴールデンちゃん! 本当だ、全然反応しない……」

 何かあったのではと狼狽する人間2人を前にしても、ゴールデンエッグは何も感じなかった。その心は怒ることも喜ぶこともなく、ただひたすらに凪いでいた。


 静かだった。2人の声は聞こえるけれど理解はできず、けれど理解しようという気は起こらず、そよ風の音程度にしか聞こえなかった。

 何もない、どこまでも何もない。生きるために必要最低限のことだけすればいい。他は何もいらない。静かだ……


「おい」

 狗藤達が目井さんに電話をかけるために背を向けた隙に、カラスが室内に入ってきた。

 ゴールデンエッグの頬を少し乱暴につつく。ゴールデンエッグは僅かに顔をずらしたものの、それだけだった。


「どうしたんだよ、お前昨日からおかしいぞ?」

 そう言われても、鶏は反応することはなかった。

「って、あれから一週間も経ってないのに薬空になってんじゃんか…… まさかお前、昨日一気に飲んだか!?」

 やはり返事はない。

「そのせいで落ち着きすぎて感情がなくなったってことか!? 飲みすぎるなって言われたのに!」

 耳元で語気を荒げたら、ゴールデンエッグはやっと少しだけ羽根を動かした。


「! 聞こえるか?」

 再び少しだけ動く羽根。

「そうか、時間が経って効き目が切れ始めたのか。だとしたらこのままにしてれば元に戻るかもな。良かった……

 じゃあな、『落ち着いてる』うちに言っとくぞ、分かんねえかもしれねえけど分かろうとしろよ」

 カラスは強い声で続ける。


「結局お前、なんで自分があの燃えてる奴が気に入らないのか分かったか? お前はあいつを悪人だと思ってるのか? そうじゃないはずだ」

 白い羽根は、先程よりも大きく動いた。

「これは全部推測だから、間違ってるかもしれない。

 けど、正直お前と一緒に病院に行った時に思ったんだ。お前は燃えてる奴が憎いというよりも、羨ましいんじゃないかって」

 白い首が、二、三度大きく上下に揺れた。

「お前はその羨ましいという感情の方ばかりを気にしていた。けど、見るべきはそこだけじゃない。その中身。どうして羨ましいのか。それを突き詰めて考えてみろ」

 ゴールデンエッグの目に、光が灯った。同時に、その瞳はあるものを捕らえた。


「言えるのはここまで。じゃあ……」

 去ろうとしたカラスはしかし、尾羽を強く咥えられた。

「!」

 振り返る。ゴールデンエッグの視線が、黒いくちばしに注がれている。

「あ? これ? この前落ちてて、金具がキラキラしてて綺麗だから拾ったんだが…… ん、よく見たらこれ…… まさか!?」

 ゴールデンエッグは、感無量で友に抱きついた。




 鶏は卵を生む。丈夫な殻で覆われた卵を。

 だが、卵は殻だけで成り立っているものではない。中身が存在する。雛という、大切な中身が。




 自身の中の嫉妬ばかりを気にかけて、それだけを抑えるのに躍起になって。

 だから気づいていなかった。


 一里間への嫉妬という頑強な「殻」を割ってみれば、中にあったのは、狗藤への愛情だった。

 大切に育ててくれる、大好きな狗藤さんを、一里間に取られてしまう気がした。狗藤さんが、どこかに行ってしまう気がした。

 あの笑顔を向けてもらえる一里間が羨ましくて…… 憎かった。


 けれど、落ち着いて考えれば分かることだったのだ。

 だって、あのストラップに付いていたぬいぐるみは……




「どうしましょう、目井さんお話中ですわ!」


「こうなったら直接病院までひとっ走り……」


「コッ」


「え……?」

 短い鳴き声に足元を見ると、そこにはあの日無くしたはずのストラップを咥えたゴールデンエッグ。


「元気になったの!? もう大丈夫なの!? えっ、しかもこれ……!」

 ゴールデンエッグを燃やさないよう注意を払いつつ、信じられない思いで一里間はストラップを受け取った。

 ドロドロに汚れてしまってはいるが…… ゴールデンエッグによく似た、小さな白い鶏のぬいぐるみのストラップを。




 狗藤さんは、たとえ他の誰かを好きになったとしても。

 アタイを嫌いになるわけじゃ、ないんだ。




「良かったですわゴールデンエッグさん! どうしたかと思ったんですのよ!」

 力強い狗藤の抱擁。

「しかもストラップ見つけてくれたんだ! ありがとうね!」

 褒めてくれる一里間の言葉。

 

 違うんだよ、そもそもはアタイが悪かったんだ…… と伝えられない歯がゆさはあった。あの日の罪悪感が消失したわけでもなかった。


 それでも、「殻」を割れた。もう少しだけ2人と仲良くできそうだ。

 そう思えた。

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