Swampdoctor

 杞憂かもしれないけれど、心に引っかかり続けている事柄。あなたにはそんなものがないだろうか。

 僕にはある。ほんの一瞬目に入っただけの光景だったし、あの時は混乱していた。何より当時は幼児だったから見間違えただけだという可能性のほうが高い。

 けれど、気になって仕方がない。




 幼稚園の年長、6歳の初夏の頃だった。

 10近く歳の離れた姉と兄と一緒に、林に遊びに行った。かくれんぼをしたり、その辺にいる虫をキャッチアンドリリースしたりしてさんざんはしゃいでいた。


 けれどどれくらい経った頃だっただろうか、追いかけっこの最中に調子に乗って遠くまで走っていってしまい、いつの間にか姉達とはぐれていた。

 慌てて自分の腰くらいまである草をかき分け、2人の名前を呼びながら辺りを駆け回ったが、影も形も見えず、どんどん木々が深くなっていくばかり。今考えれば、奥へ奥へと入り込んでしまっていたのだろう。

 弱り目に祟り目、にわかに空が暗雲に覆われた。始めは小粒でぽつぽつ、けれどいくらも経たないうちに大粒でバチャバチャ。バケツどころかバスタブをひっくり返したような大雨が降り出した。


 世界に自分一人だけが取り残されたかのような孤独感。身体からだに打ち付けられる雨粒の痛みと冷たさ。ザーザーいう水音に混じって、ときおり聞こえるガラガラという雷鳴と、世界のすべてを一瞬真っ白に塗り替える稲光。パニック状態に陥り、自分の目からも雨粒をこぼしながら、薄暗い緑の中をがむしゃらに走りまくった。


 そうしているうちに、突如として視界が開けた。こう、パッと。林から出られた!? ってつかの間喜んだけど、そうじゃなかった。

 開けた場所ではあったけど、相変わらず木も草もたくさん生えてた。僕を嘲笑うかのように。

 その植物達に囲まれるようにして、大きな沼があった。透明度の低いその水面に、雨が落ちて無数の波紋を作っていた。それを呆然と眺めてたら、どうしてかもう自分はこの林から出られないんじゃないかって気がしてきた。

 心の中の何かが一気に決壊して、とうとう大声を上げて泣き出してしまった。


 その時だった。草をがさごそかき分けて、誰かが足早に近付いてくる音がした。

「どうしたんですか、お一人で?」

 顔を上げなくても分かった。目井めいさんの声だった。怪我や病気をしてる動物がいないか様子を見るために、時々林を訪れているんだと、本人から聞いたことがあったのを思い出した。


 さっきまでとは違う意味の涙と嗚咽が止まらなくなった。言葉らしい言葉を発せなかったけど、とにかく目井さんの脚に抱きついた。

 目井さんは何も訊かず、「お家まで送りますよ」と、僕を抱き上げてくれた。

 その時、目に入ったんだ。目井さん、左手にビーズでできたブレスレットをしてた。

 

 その大雨の日の一年くらい前だったかな。ばあちゃんが目井さんのところに入院してたんだ。長いこと本人も目井さんも頑張ってくれたけど、結局ばあちゃんは亡くなっちゃって…… 子ども心に悲しかったけど、それでも目井さんが最期までお世話をしてくれたのはありがたかったから、お礼として僕が作ったものだった。

 拙いものだったけど、目井さんは「お上手ですね」って受け取ってくれて、しかもこうやって本当に付けてくれてるんだ…… って、まだ混乱しつつも嬉しかった。

 

「さあ、帰りましょう」

 目井さんは僕を安心させるためにか優しい笑顔で言った直後、同じ口で叫んだ。


「危ない!」

 そうして、僕を抱きしめていたのと同じ腕で、僕を放り投げた。


 地面にぶつかるかぶつからないかくらいのところで、目井さんの白い髪で覆われた頭のすぐ上に、何か白い縦の直線のようなものが見えた気がした。

 その直線は、次の瞬間には空間いっぱいに拡張し、世界を純白に覆い尽くす。

 耳をつんざくような轟音に、僕はゆっくりと意識を手放した。




「……か。大丈夫ですか。大丈夫ですかー!」

 身体を揺さぶられ、僕は一気に覚醒した。身を起こす。地面に仰向けになっていたようだ。

「ああ、良かった! 先程は申し訳ありません。雷がこちらに落ちそうな気配がしたので、思わず手荒な真似をしてしまいました。もう大丈夫ですよ。さあ、また雷が落ちる前に早く!」

 さっきと同じ笑顔を僕に向けると、さっきと同じように僕を抱きかかえ、走り出そうとした。


「ひっ」

 進行方向と反対側に向けられて抱かれた僕の顔は、「あるもの」をその目に捉え、喉に何かが詰まったような声を発し、反射的にきつく目を閉じた。

「どうしました?」

 僕とは逆方向を向いた顔が問いかける。左腕には、変わらず僕があげたブレスレットが装着されている。触れた感触で分かった。

「……何でもない」

 目を閉じたまま、そう答える僕。

「そうですか」

 その人は返すと、今度こそ林の出口へと走り出した。




 林から出る前に、僕を探して右往左往していた姉達とも合流できて、無事に家にも送ってもらえた。みんな、何事もなかった。

 そう、「みんな」何事もなかったんだよ。




 あれから七年。今年、僕は中学生になった。

 中学校の図書館で、面白い本を見つけた。思考実験に関するものだ。

 思考実験というのは、道具を使って実際に行う実験ではなく、頭の中だけで行う実験で、哲学や倫理に関するものも多い。

 有名な例を挙げると、「トロッコ問題」というものがある。

 暴走しているトロッコがある。その線路の行く先には5人の人間がおり、このままだと全員轢き殺されてしまう。あなたが分岐器でトロッコの進路を変更すればその5人は助かるが、変更した先の線路には1人の人間がいる。あなたは進路を変更すべきだろうか? ――という問いだ。


 学校のテストと違って、絶対に正しい答えが存在しない。そんな問題について考えるのが興味深くて、夢中で読みふけった。

 が、とある問いを読んだところで、「え?」と心が凍りついた。


 「スワンプマン(Swampman)」

 ハイキングに出かけたある男。だが、不運にも沼のそばで落雷により死亡する。その際、別の雷も沼へと落ちた。するとなんちゃらの化学反応が起こったとかで、死んだ男と容姿も記憶も知識も全く同じ人物が出来上がった。この人物は、元の男と同一人物であると言えるだろうか?――だいぶ端折ってしまったが、おおよそこのような内容のものだと思っていただければいいかと思う。




 無意識に奥底に閉じ込めていた記憶の蓋が、きしんだ音と共に開いていく。

 あの日、あの人に抱き上げられて見た、「あるもの」。

 沼のそばに横たわる、闇のように真っ黒な、大きな炭の塊のような、焦げ臭い匂いを放つ、雨に打たれて早くも徐々に形を失いつつある、何か。

 大の字になった人間の形にも似た、何か。一箇所だけ焦げていなかった何か。

 その焦げていなかった一箇所は、今自分を抱きしめてくれているのと全く同じ形を持ち、全く同じ色の包帯を巻き、全く同じブレスレットを付けた、左手。




 すぐに目を閉じ、姉達と再会するまで開かなかった。

 だからあれを見たのは、ほんの一瞬だった。少なからず動揺もしていたから、見間違いだったのだと思う。あの場に落ちた雷も一つだけだったと思う。記憶が混乱していて、もしかしたらもう一つくらいは沼辺りに落ちていたかもしれないが、多分そんなことはないと思う。

 大体、あの目井さんが雷に打たれるなんて、打たれたとしてもそれで死ぬなんて思えない。僕はあの人は不死身みたいなもんだと思ってるから。どう見えても、人間はいずれ死ぬものだってことは分かってるけど。

 そもそも、思考実験の問いは現実には有り得ない状況であることが多い。スワンプマンもただの作り話だ。「嘘から出た真」ってことわざもあるけど。




 今日、部活の最中に左手を負傷してしまい、放課後念の為目井クリニックのお医者さんに診てもらった。

 お医者さんは「あらら、結構ひどくやってしまいましたね。でもこれを塗って、あまり動かしすぎないようにしていれば良くなりますよ」と言って治療してくれた。

 その最中、ふと目線をお医者さんの机の上に移してみた。思わず、声が出た。

「あっ、それ……」

 お医者さんは僕の視線を追って、古ぼけた稚拙なビーズのブレスレットを見た。

「ああ、これ、七年ほど前にあなたにいただいたものですよね。本当にお上手ですよね。

 そう言えば、あれも七年くらい前でしたっけ? 林であなたが迷子になってしまってるところに私が出くわして、雷も鳴る中急いで帰ったの」


「え、ええ……」


「大変でしたよねー、ごめんなさいね、あの時いきなり放り投げてしまって」


「いいんですよ……」


 この人は「覚えている」。あの日のことも、あの日よりも前のことも、ちゃんと「覚えている」。




 たとえば、授業で使うプリントをコピーしたとする。その際、コピーされたプリントのことを「偽物」と呼ぶ者はまずいない。内容が完全に同じだからだ。

 だとしたら、僕もこの人を、あの頃の目井さんを呼んだのと同じように「目井さん」と呼んでいいのだろうか。

 いや、そもそも、あれは僕が勝手に見た幻なのだ。だから、この人は普通に「目井さん」なのだ。


 けれど。けれど……


 杞憂だろう。だけど、一度違和感を抱いてしまったあの日以来。この人を「目井さん」と呼ぶことができずにいる。

 

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