half & half
天気予報がその日の気温を「想像を遥かに絶する寒さになるでしょう」と予告した日のこと。
久しぶりに患者様が全く来ず、朝からまったりしていた
何事かと慌てて表に出てみれば、何やら薄く大きな板が霜柱の芽生え始めた地面に刺さっている。
「目井クリニック」と上下逆さに記されたそれは、屋根に掲げていた看板だった。
(あららら、だいぶ古くなってきてましたもんねえ。新調しないと…)
放っておくわけにもいかないので、とりあえず抱え上げて屋内に戻った。
「ん?」
診察室でしげしげと眺めて初めて気が付いた。
白地に黒のペンキで病院名が書かれているだけのシンプルなデザインだったはずの看板。
なのに、全体的に赤い。文字はギリギリ読めるが、ほぼ余すところなく赤いペンキをぶちまけたようになっている。
特に中央辺りは、上から下にかけて太く濃い線がべっとり。
落下によって勢いがつき、その箇所が偶然下にあった何かを両断したらしい。ちょうど包丁がまな板に置かれた食材をそうするように。
それによって、赤い液体が大量に付着したようだった。
(これは人間の血液ですね、間違いなく。なんで見た瞬間に気付かなかったんですかね私。完全に気を抜いてたせいですかね。
ですが、外には特に変わったことはなさそうだったのですが。
とても寒くて、霜柱が立っていて、鳥さん達のさえずりが聞こえて、通りすがりらしき
少し考えて。
「変わったことありましたね! ありまくりでしたね!」
ダッシュで再び外に飛び出した。
「どうしてくれるんですか?」
クッションに支えられるようにして待合室のソファーにどうにか腰かけた
ちょうど
エアコンの温風が無遠慮に内臓や骨をべたべた触ってくる、くすぐったさに近い不快感。鳥肌が立つ。
もっと怒りをあらわにして然るべき場面なのに、どういうわけか理性がやたらと働いて冷静な態度を崩さない自身を妙に思いつつ。
「大変申し訳ございません」
目井さんは膝に額がくっつくほど深々とこうべを垂れた。
「看板はきちんと管理しておくべきでした。
ですが、この寒さで血管が凍って、簡易的なものではありますが止血がなされたんでしょう。だから命はご無事だったんですね。いやー、こういうことがあると生命ってすごいなと思いますよね」
「って言えばうやむやになるとでも思いましたか?」
問いかける左右田の右半身。
声を荒げないからこそかえって威圧感を伴っていた。
「決して思っておりません大変申し訳ございません」
再び深く深く頭を下げる。
「何よりもですね」
「はい?」
「新芽の左側は一体どこに行ったんです?」
あまりの痛みに気を失い、目が覚めた時には既に影も形もなくなっていた自分の左半分について尋ねた。
「それがその、ありまくりなことに気付いて駆けつけた時にはどこにもいらっしゃらなくて… 目を離した隙に意識を取り戻してどこかに行かれてしまったのではないかと…」
息を吸い込むそばから、空気が半分になった鼻や口から逃げていくような心地。息苦しかったが、頑張って声を出す。
「目井さん」
「大変申し訳ございません自分の愚鈍さが不思議すぎます七不思議です」
「あと六つもある不思議はどうでもいいです。責任取って探すの手伝って、元通りにくっつけてくれません?」
「それはもう、もちろんです!
では、あなたがよく行く場所、あるいは行きたいと思っている場所などがあれば教えていただけますか?」
「こんな時に何を?」
「左脳は言語や常識、理論を司り、右半身をコントロールしています。その一方、右脳は独創性や感性、記憶を司り、左半身の統率を行います。右半身であるあなたがいつも以上に冷静でいらっしゃるのは、脳が左右に分離されたことにより、左脳の働きが強く出ているからだと思われます。
つまり、右脳に制御されている左半身さんは、『行きたい』という本能のままその場所に行かれた可能性があるんです」
「なるほど。しかし真っ二つになってるのに担当する半身が変わらないなんてことあるのか。無意識に遠隔操作でもしているのか…
とにかく、いくつか心当たり上げてみます」
友人や親族の家、職場、よく買い物に行く店、行ってみたいけれど勇気が出なくて行けていなかった店など、少しでも思い当たる場所に赴いて探し回った二人であったが、いっこうに手掛かりは掴めなかった。
「困りましたね。心臓も
停止した車内でハンドルを握ったまま、半ば申し訳なさそうに、半ば独り言のように呟く目井さん。
それはとうに十分すぎるほどだった左右田の不安をいっそう加速させた。
半分になった身体で行動するのは思っていたよりずっと大変だった。
真っ先に感じたのは呼吸のことだったが、次は座位のことだった。
いつも通りに座っているつもりでもふらつき、クッションで支えてもらわなければ真っ直ぐでいることができなかった。ズルズルと滑り落ちてしまいそうにもなった。
歩行もだった。ケンケンをし続けるのとはわけが違い、バランスが取れなくてすぐに転倒しそうになるし疲れやすい。
視界は狭く、音も聞こえづらい。
目井さんは身体を支えてくれたり、周囲の状況を分かりやすく聞こえやすく説明したりしてくれた。
防寒と、えらいことになっている断面を隠すためにと目井さんに借りたコートのフードで頭を覆ったことで空気も逃げにくくなり、呼吸もそれなりに楽になった。
けれど、誰にも手助けしてもらえていないであろうあの半身は一体どうしているのだろう。
目井さんは「通りかかった乗り物にでも飛び乗ったのかもしれません」と言っていたが、そうするのも一苦労だったに違いない。
動くのも情報を得るのも容易ではない状態で、どこに行ったのだろう。
そこまでして行きたい場所ってどこだろう。
分からない。自分の半分のことなのに、分からない。
こうしている間に、もしも左半身に何かがあったら… 右半身であるこっちはどうなる?
――もしかして、死ぬ?
「どこかありませんでしょうか、どんなに些細なことでもいいんです。何か思いつきませんか?」
笑った目以外は、必死な表情で後部座席を振り向く目井さん。
憂いは際限がなかった。
けれど、それは一旦理性で抑え込んだ。
たしかにこの人はこんな事態を引き起こした元凶だ。
だが、新芽のために真剣にあの半身を探してくれている。新芽が諦めるわけにはいかないんだ。
思い出すんだ。何か手がかりはないか。
沈着に。分かるはずだ。
相手は理解不能なモンスターなんかじゃない、長年一緒に生きてきた、新芽自身なんだ。
自分を分析する。新芽は、心の深淵にいる新芽は、どこに行きたい――?
電気が走ったように、左右田はびくりと顔を上げた。
「思いつきました?」
「はい、でも……」
「あそこだっ!」
人気のない林の奥、目井さんに背負われた左右田は、大きな岩に佇む人物を指差した。
そこだけ平べったくなっている岩の頂上にかろうじて乗っかり、こちらに気付いていないのか背を向けたまま。
左右に前後に、まるで壊れたメトロノームのように絶え間なく振れ続け、それでも落ちるまいと一つの腕で踏ん張る半身。
が、ついに安定を失い、前のめりになったかと思いきや、視界から消えた。
流石に悲鳴が溢れそうになったが、そうなるより早く目井さんが走った。
あっという間に岩の前へと周り、吸い込まれるように地面に落下していく左半身をしっかり受け止めた。
「なんで勝手に行動したんだよ! 死んじゃうかもしれなかったんだぞ⁉︎」
半分だけではあるが、毎日鏡を通して見ていた顔と向かい合う。
鏡に話しかけるのと違うのは、相手がこちらと違って、説教される子ども同様眉を下げた悲しげな顔をしている点、何らかの反応を示す点であった。
自分と会話しているようなそうでないような気分。容姿のよく似た兄弟のいる人はこんな気持ちになったりするのだろうかと、ふと余所事を考えた。
「ごめんね」
左半身は右半身に小さな声で謝った。
「でも、来たかったの。ここに」
「途中で危ない目にあったりしたろ?」
「ちょっとね… でも、どうしても来たかった」
「なんでそこまで?」
問いかけられた左半身は少し頭を俯けた。
「ここに来てくれたってことは、ちょっとは思い出してくれたはずだけど……
あなただってずっとずっと来たかったでしょ?
……忘れちゃった?」
思いの伝わらない寂しさのありありと浮かぶ声。
ここに来たのは正直ダメ元だった。「思いついたから一応行くけど、いくらなんでもいないだろうな」と思っていた。
が、その声は右半身をハッとさせるには十分だった。
幼い頃から、周囲の人達のことが嫌いなわけでは決してなかった。
けれど、時々猛烈に「一人になりたい」と思う子だった。
誰もいないところで、誰にも何も言われず、ただ何をするでもなく過ごしたかった。
ある日、家からやや離れたところにある林に入ってみて、この場所を見つけた。
自分しかいない、静かな空間。まさに思い描いていた通りだった。
以来、孤独を求める際に足繁く通った。
小山ほどのサイズの岩に身体全体をうまいこと使ってよじ登り、頂上に腰掛ける。
草や木々があるだけで、眺めがいいというほどではないが、登る前には見えなかったところまで見えて好きだった。
行くたびに小一時間ほど、景色とともにぼんやりして過ごした。
けれどいつからだろう。
日々の中で忙しいことが増えて。
一人になりに行きたくても、叶わないことが増えて。
徐々に思い出しすらしなくなって。
望むものを提供してくれた場に、行くことはなくなった。
だけれど、本心では。
自覚できていなかったが、こんな一つ一つの行動すら大変な状態になってでも、「行きたい」という気持ちが残っていたのか。
先ほどまで自分の心の半分が座っていた岩を見上げる。
小さな山くらいだと感じていたそれは、今見れば自分より少し大きいくらいの高さしかなかった。
「万が一のことがあってからじゃ遅いんだ。二度と
「……」
「今度からはさ…
左半身は徐に顔を上げた。
電気がついたように、その表情はパッと華やいだ。
「うん!」
差し出された右手に、左手が飛びついた。
左右田を無事に元通りくっつけた数日後。またしても天気予報が「想像を遥かに絶する寒さになるでしょう」と言う中、目井さんは町中を散歩していた。
公園に差し掛かったところで、目の前に何かがフラフラと飛んできて落ちた。フリスビーだった。
「すいませーん、取ってくださーい!」
公園内の子ども達の声。
「お安い御用です、行きますよー!」
目井さんは拾い上げたフリスビーを、腕を振り上げて放った。
が、狙いを大きく外し、フリスビーは明後日の方角にキュルキュルと空気を切る回転音をさせながら弾丸のような速度で飛行していった。
「あーあー! 申し訳ありません。お待ちください」
目井さんは慌ててフリスビーの行った方に駆けた。
角を曲がったところの壁に突き刺さっていたのを抜いて、公園に戻り、子ども達に差し出した。
子ども達は怪訝な顔をした。
「あの、私達のフリスビーって青かったですよね? これ、真っ赤なんですが…」
「目、井、さ、あ、あ、あ、あ、ん!」
左右田新芽は、というより、左右田新芽の上半身は一つ一つの音を空気の振動が分かるほどのボリュームで発音した。
フリスビーに付いていたのと同じ赤の水たまりの広がる地面に這いつくばり、断面からは中途で断ち切られたチューブ状の内臓がはみ出していた。
「フリスビーが飛んできたなと思ってたら、お腹にどどどどどどっとめり込んできて気絶して、気が付いたらこのザマだったんですが!
どうしてくれんですかこれ! 新芽の下半身はどこ行ったんですか⁉︎ ええ?」
「大変申し訳ございません。あなたが真っ二つになってるのに気付かず、一旦公園に戻っている間にどこかに行かれてしまったのではと…」
「目、井、さ、あ、あ、あ、あ、ん!」
「大変申し訳ございません探しに行きましょう」
言いながら膝と額を接触させる目井さんであった。
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