branchial respiration

目井めい先生! 大変です!」


 診察室に駆け込んできた水住みなずみはしかし、いきなり視界に飛び込んできた上下逆さまの医師の顔にひっくり返りそうになった。


 目井さんは重力に逆らうかのごとく天井に直立し、部屋全体を俯瞰していた。


「何をしてるんです?」


「逆さまになると脳に血がたくさんいって、いいアイデアが出るんじゃないかなーと思いまして。半日くらいこうしてるんですがそろそろきつくなってきましたね。

 あと、『目井さん』とお呼びください。偉大なお医者様方と同じように『先生』と呼ばれるなんておこがましいです」


 目井さんに苦手意識のある水住はこの時点で帰りたくなったが今回ばかりはそういうわけにはいかない。なぜなら。


「早く来てください! 苦しそうな子がいるんです!」




 水住に案内されたのは海辺だった。


「友達と遊んでたら、小さい子が倒れてて… あっ、あそこです!」


 水住の指し示す先には、波打ち際の砂浜で全裸でのたうち回る幼児と思しき小さな子ども。それをしゃがんで取り囲むのは、数人の一回り大きな子ども達。


 一回り大きな子達は小学2年生の水住のクラスメート達だ。どうすればいいか分からないながらも、苦しむ子どもを「もうすぐ目井さんが来るから大丈夫だよ!」と必死に励まし続けている。


 走り寄って見ると、その小さな子どもは右半身を下にした横向きの体勢のまま、砂上で四肢をメチャクチャに振り回して暴れまわっていた。

 白目を剥き、全身を痙攣させている。口を必死に大きく開けているのが見てとれる。よほど苦しいのだろうととりあえず急いで抱きかかえようとして、はたと気付いた。


 こめかみから唇の端付近にまで達する大きな傷のようなものが両頬にある。それらがパカパカと開閉するたびに、内側にひしめく多数の毛細血管が見える。


「おや、あなたはもしや…」




 翌日、目井さんは病院に一組の夫婦を招いていた。


 2人は期待と不安と疑いの混ざり合った微妙な表情を浮かべていた。


「ようこそいらっしゃいました」


「あの… 本当なんですか? 私達の子が見つかったって?」


「例の事故の時、あの子はあなたのおかげで命は助かったけれど、その後行方不明になってしまったということでしたが…」


 「例の事故」というのは、5年前に発生した船の事故のことである。


 ある客船が突然の嵐に見舞われ、何人もの人々が海に放り出された。その中にはいまだに行方不明で生死さえ確認されていない者もいる。


 目井さんと今日招かれた夫婦と、当時生まれたばかりだった夫婦の赤ん坊も、この船に乗船していた。そして、目井さんと赤ん坊は一緒に海に投げ出された。


 赤ん坊をかばって抱きかかえた目井さんは早い波に流され、深くに沈んだ。

 目井さんは泳ぎが達者、かつ義手や義足の隠し機能をうまいこと活用すれば水中でもなんやかんやで呼吸ができるので問題はなかった。


 だが、そんなものを持っていない赤ん坊はそんなわけにはいかなかった。

 このままでは溺死してしまうのは必至だった。


 そこで、目井さんは赤ん坊の命を救うため、エラを作った。

 魚類などが呼吸を行うための器官である、あのエラ。

 水中で赤ん坊の両頬にメスで切り込みを入れ、なんやかんやして水中に溶存している酸素を取り込み、体内の二酸化炭素を排出できるように手術を行った。


 赤ん坊は無事にエラで呼吸をし始め、目井さんは安堵した。

 あくまで一時的なものであり、救出してもらう際に手術前の状態に戻すつもりだった。


 が、直後。

 再び強い波が来て、赤ん坊を目井さんの腕から奪い去っていった。

 追いかけようとしたが追いつけず、赤ん坊はあっという間に視界から消えた。




 その後、目井さんは無事に救出されたが、事故で何人も死者や行方不明者が出たこと、何よりも腕の中にいた、救えたはずの命を救えなかったことを悔やみ、流石にしばらく落胆の日々を過ごしていた。




「ですが、間違いありません。あの子はあなた方のお子さんです。あのエラは間違いなく私の行った手術ですし、DNAも調べさせて頂いたんです。あの事故以来海で自力で生きてこられたんでしょうね。そして昨日、何かしらのアクシデントで砂浜に打ち上げられてしまっていたんでしょう」


「じゃあ、本当に… この5年間、片時も忘れられなかったあの子が…」


「ええ、こちらにいらっしゃいます」


 その言葉とともに、目井さんは診察室の奥へとつながるカーテンを開いた。

 海水で満たされた、小学校の教室くらいの大きな水槽。その中央あたりに、1人の幼児が漂っていた。両頬をパカパカさせながら。


「…こいつら、誰?」


 幼児を目にして息をのむ夫婦の耳に、機械の合成音が届いた。

 水槽に設置された魚類用の翻訳機だ。この幼児は物心ついた時から魚に囲まれて育ったため、人間の言葉ではなく魚の言葉で話す。翻訳機は、幼児と両親が会話できるよう互いの言葉を通訳しているのだ。


「あなたのママとパパだよ。覚えてないかもしれないけど…」


「『ままとぱぱ』? 何、それ?」

 幼児はまばたきをすることもない大きな瞳を両親に向けたまま言う。


「あなたを生んだ親だよ」


「おや… そう。それが何?」


「あなたを迎えに来たんだよ。私たち、ずっとあなたを探していたんだ。あなたに会いたかったから」


「なんで?」

 幼児は表情一つ変えずに問う。


「なんでって、だって、家族だから…」


「『かぞく』?」


「ママとかパパとかのことだよ」


「ままとかぱぱとかおやだからって何なの? なんで子どもを探す必要があったの?」


「…え…」


「おやなんかと一緒にいなくたって自分で食べ物とって生きていけるし、仲間でおやと一緒にいる子なんて誰もいない。会いたいなんて思ったこともない。おやなんて、卵産んで終わりでしょ?

 それより、早く海に返して。さっきからあのデカい奴にも頼んでるのに聞いてくれないの」


 両親は気が付いた。

 この子は確かに自分達の子で人間の子だ。


 だが、赤ん坊の時分から、卵をたくさん産む代わりに子育てをしない種類の魚に囲まれて育ってきたこの子の価値観は、産む数は魚と比べて少ないが子育てをする人間の価値観とは全く異なってしまっていることに。


 それでも両親は幼児に対し、自分達がどれほどあなたが大好きだったか、恋しく思っていたかを必死に伝え続けた。

 しかし、ついぞ幼児は2人の価値観を受け入れることはできなかった。




「それでは、このまま海に帰っていただくということでよろしいですか?」


「ええ、あの子本人もそう望んでいるので…」


「では、トラックで水槽ごと海まで運びますので、お子さんが帰られるまでご一緒に」


「はい…」


 肩を落とす2人に、目井さんはそっと言った。


「そんなに寂しがることはありませんよ。あの子は亡くなったわけではないのですから」

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