死者の奏で

 老人は、親子のように並んで演奏の観客となった一匹と一頭と、ついでに私の事も、ちらりと見て、またすぐに鍵盤へ視線を戻した。

 その眼光は銃弾のようにユウを貫き、小さな猫の背中がびくりと強張る。しかし老人は何を言うでもなく、何の感情も見せずに、視線を戻したのだ。

 ユウも、その演奏に心を鷲掴みにされていて、離れる気は起こらなかった。

 何度か繰り返されたメロディが、歩調を変えて駆け足となり、主題を展開していく。

 ユウがその音符を覗こうとするように、ゆらゆらと体を揺らし、足踏みしてリズムを取った。そのリズムが全く老人の演奏に合っていない辺り、本気でこの未言屋店主には音楽の才能が欠片も備わっていないらしい。

 老人が最後に叩いた鍵盤を離した時、ユウは丸っきりの猫から猫耳と尾を生やした人の形を取り、ぱちぱちと手を叩いた。

 その後ろで、のっそりと立ち上がった巨虎が老人の腰掛けるグランドピアノとその前に座り込むユウに背を向けて、そのまま立ち去って行く。

「あっ」

 いなくなったレイトフルールの姿に、ユウが声を漏らした。

 それは、単純に見たものを脳が理解しただけの反射みたいなものだったのだが、老人は目を細めてユウに告げる。

「倒すつもりなら、追いかけるといい。俺の《ブレス》の効果で戦意喪失しているから、簡単に倒せるだろうさ」

 老人の嗄れた声に、ユウは緩やかに視線を動かして、それからふるふると首を横に振った。

「ううん、むしろ、逃げたかったので」

「だろうな。でなくては、君も俺の演奏で眠るか帰るかしている筈だ」

 老人はユウの答えを分かりきっていたという態度で、また鍵盤を指で沈めた。

 万華鏡の中に迷いこんだみたいに、音が幾何学な光を造り出しているようだった。

 ステンドグラスの精緻で造り込まれた美しさが、しかして移り変わる旋律の中で砕け崩れて、またぶつかり組み合わさるような。

 ユウは聴き馴染みがあり、好きだった筈だと、自分の記憶に仕舞ったままの感動を呼び覚ます。

 これでも、ユウは現実で多種多様なコンサートを鑑賞していて、ピアノについては世界最高峰のピアニストの演奏を生で聴いた事も何度かある。

 そうは言っても、イントロを聴いただけでその曲目が出て来る程、日常でクラシックに浸ってる訳でもない。

「なんだっけ、これ」

 川の中に飛び込んで、水漉みすかげを見上げているような、ゆらゆらとした気持ちで、ユウは老人の弾く旋律に聴き惚れていた。

「ドビュッシーの二つのアラベスク、その第一番だ」

 私が曲のタイトルを教えると、ユウは目を丸くした。

「え、やだ、かしこったら博識」

「これでも常時インターネットに繋がっているのだ。検索は秒も掛けずに出来る」

「おお……かしこせんせい?」

 その検索エンジンを揶揄した呼び方は止めれ。

「面白い主従だな」

 老人は演奏の手を止めず、幾何学に不安定で狂いない音色を月夜に染み渡らせながら、失笑した。

「それに、フルールに対してあれだけ敵意のないプレイヤーも珍しい」

 老人はまた戦場に立つ兵士にも似た視線を、ユウに投げ掛けた。

 またもユウはその迫力にびくりと肩を跳ねさせて、それから老人の演奏に緊張を解して、ゆるゆると肩を降ろして行く。

「この演奏が、あなたの《ブレス》?」

「正確には、このピアノが、だ。あらゆる者、ノンプレイヤー、プレイヤーの区別なしに、戦意を失わせる力がある」

 敵を倒す事は出来ないが、戦闘回避に関してこれ以上に有能な《ブレス》もないだろう。破格な性能は、レイトフルールが立ち去った時点で察して余りあり、それだけの《ブレス》を発現したからには、彼の演奏は正しく聴いている通り、至上の音楽だと言う事だ。

「それと、この目付きの悪さは気にするな。戦場でピアノを弾いていればこうなる」

「戦場でピアノ……?」

 老人のニュアンスに、現実で、と行間に挟まれた言葉を過たず汲み取り、ユウはこてと首を傾けた。

 その疑問に答えるのに、老人は間を置き、気遣うように私に視線を送ってきた。

 私は頷きを返す。今は配信してないから、それを知るのもユウだけだ。特に問題はないだろう。

 こやつも、既に運営側に片足の踝くらいまで突っ込んでいるからな。

 万華鏡が砕け散って、空白の中に取り残されたみたいに、アラベスクの一番が終わった。

 そのまま、足踏みのように老人は鍵盤を数回叩き、次の演奏に入る。

 先程までの旋律よりも更に不安定で軽やかで明るいメロディが始まる。さながら、天空に散らばる浮き石を跳ねて渡るかのような。

 二つのアラベスク、その第二番だ。

 その律動を支えるように、老人のバリトンがベース伴奏となる。

「去年の夏、中東の紛争地域でピアノ演奏を行い、爆撃に巻き込まれたピアニストがいたというニュースを知っているか?」

「あっ」

 今でもウェブ上のニュース記事に毎日アクセスがある程の出来事だ、流石に世間から逸れたユウでも覚えがあったらしい。

 いや、 むしろその手の悲惨なニュースや平和活動のニュースだけを新聞の時事記事の中では読み込んでいるのだから、覚えがあって当然だと言うべきか。

 日を開けずに爆撃やテロ、銃撃戦に強硬なデモ活動が横行している地域で、戦災者の為に一流のピアニストが命懸けで演奏を行う。

 誹謗中傷も称賛も話題も、開始前には全くなかったと記録されている。ウェブ記事の日付も、実施日から後の物しか見付からない。

 誰も注目していなかったそのコンサートが世間の耳目を集めたのは、演奏中に会場となった教会が、何者かに爆撃されたからだ。首謀者は依然として不明、その場にいた人の多くが即死、そしてその企画の中心であった人物は意識不明のまま病院に収容された。

 そして、戦場ジャーナリストが彼を追跡して調査した所、彼は輸送も困難な程の重症で生死を彷徨い、母国日本からの要請で現地から隣国の最先端医療機関に運ばれたものの、数週間後に息を引き取ったとされる。

「あれ、でも、あの人って死亡したってニュースで……」

 ユウもその事実に思い至り、老人に疑いの眼差しを向ける。実際、VRゲーム以前のネットゲームから、有名人の成り済ましは頻発している事案だ。

 空中で足を滑らせて、落ち掛けながらも、懸命に手足を動かし浮き石を掴み踏むような旋律が、聴く者の不安を煽る。

 それに合わせて、老人は嗄れた声でユウの推測を否定した。

「確かに俺の体は死んだ。だが、俺はオカルトな幽霊じゃなくて、電子上のデータなんだよ」

 そう語り伏せられた老人の目は、幾分慚愧の念が籠って見えた。

「俺が死ぬ直前に、俺の家族が日本政府の提案を受け入れた。死が免れない人物の脳ミソの中身を、ハードウェアに全コピーするという実験体になる提案だ」

 それは肉体が死した後に、優れた知性だけでも保存しようという試みであり、人間の知性を機械が受け入れられるのか、つまり機械は人間と同じ知性を持ち得るのかという試みであった。

 そんな衝撃的な事実を告げられたユウはと言うと、ぽかんとしていた。

「すごーい」

「……いや、すごいって、それだけか?」

 嫌悪感なく技術の進歩に感心しているユウに、恐らくはかなりの覚悟を決めて話していたのだろう、老人の方が戸惑っていた。

「こう、そんなことしていいのかとか、倫理がどうとかないのか?」

「え? ……わー、そんなことしていいのー、ひとのいのちをぼうとくしてるー」

 何を期待されてると思ったのか、ユウはわざとらしさしかない棒読みで返した。例え期待されてたのだとしても、その心の籠ってない言い方では逆に相手も消沈するぞ。

「別に本人の意志でもなさそうですし、悪意もなさそうですし、そんなんエッセイ書くのとなんか違うんですかって感じですね」

「お、おお?」

 初めからその真面目な方の返答をせんか、こやつは。

 それでも、人類の正規分布から大きく外れた思考に、老人は今一意味を飲み込めていなさそうだ。

「あれですよ。本を読むのも作者との対話ですから。要は会話を返してくれますよってだけで、え、これまたバカな若者の読解力下がるじゃんやだー」

 やっと出てきた懸念も斜め上過ぎて、もう、突っ込む気にもならんな。

 老人も演奏の手を止めて、街の中で尻尾が二本ある猫が平然と歩いているところでも見たかのような視線をユウに向けている。

「なぁ、お前、変人ってよく言われるだろ?」

「ほぼ百パーセント言われますね。紡岐さんこんなにいい子なのに、みんな失礼な」

 それは失礼でも何でもない事実だ、馬鹿者め。

 ここに至り、老人も空に向かって呵々大笑し、その声が演奏よりもさらに鮮明に辺りに響く。

「面白い嬢ちゃんだ、気に入った。俺はこのゲームにログインしたら、此処でピアノを弾いてる。聴きたくなったら来るがいいさ」

「このゲームにログイン? 他のゲームにもログインしてるのです?」

「ゲームだけでなく、ウェブサイトなら普通にログイン出来る。俺のデータが入ったハードウェアはこれではないからな」

 老人は言外に、このクリエイティブ・プレイ・オンラインを運営しているサーバーにデータを移築された人物がいる可能性を示唆しているのだが……ユウは気付いていなさそうだな。まぁ、いいが。

「ほらよ。フレンドコードもくれてやる」

「あ、あ、ありがとうございます」

 ユウは投げられたコードに慌てるが、別に実体がある訳でもなく自動でシステムメニューに保管されるのだ、全く慌てる必要はない。

 そのどうしようもなくVRに不馴れなユウの様子に、老人――伝説的なピアニスト二椎木にしぎ崇斗たかとはまた笑うのだった。

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