生死をかけた追いかけっこ
おかっぱで茶屋の娘のような服を着た未言巫女が、巨虎の頭にちょこんと座っているのを見つけたユウは、ひゅっと鋭く息を吸い込んだ。
「あ、妖すーーー!!!!?? またあんたかー!!??」
「ふっふーん。バ母様にエキサイティングで楽しい毎日をお届けするなんて、わたしったら、なんて出来た子なのかって話だよね!」
お決まりの絶叫を上げるユウと、けらけらと可笑しそうな妖すの未言巫女が、言葉を交わしたのを合図にしたように。
地面に足を付け、眼光に威圧を迸らせたワンダリングタイガーが、ユウに向けて咆哮し、その髪をたなびかせた。
「ひぃやぁぁぁぁあああっっっ!!!???」
ユウは恐怖の限りに絶叫を上げ、その場から消えた。
ワンダリングタイガーの爪も牙も一足には届かない位置に、《妖す》で瞬間移動し、〈化け猫〉の耳と尾をピンと立てて、ユウは一も二もなく逃げ出した。
勿論、ワンダリングタイガーは獲物を逃がすまいと追随する。大地を蹴り獲物を追い詰めんと牙を剥くこの姿こそ、このレイトフルールの本来の姿だ。
「なーんーでーよー!?」
何でも何も、答えは単純明快だ。パルの月光を海と満たした《月の蜜》が敵から溶かし奪ったのは魔力である。
ワンダリングタイガーは、魔力に依存せず生来の身体能力の高さを誇るレイトフルールだ。翼膜となっていたヴァンパイアバットの人形こそ魔力を失い形を崩したが、この巨虎には大した被害はなかったのも道理である。
巨体に似合わず疾走し、巨体に見合った豪腕を振るうワンダリングタイガーから、ユウは転げて猫の姿を取り、跳ねて、右へ、首を竦め、体を捻り、左へ、消えて、現れて、躓いて、這い蹲って、また起きて駆け出して、どうにかこうにか逃げている。
「ふふふ、とっても楽しそうで何よりね、母様!」
巨虎の方が頭に乗って揺られながらも余裕綽々な妖すの未言巫女が、それはもう達成感に満ちた笑顔で、逃げ回るユウを眺めていた。
対してユウは、もう息が上がって来ている。
「あんたって子はー! あんたって子はー!!」
白黒に綺麗に分かれた体を疾駆させつつ、ユウは泣きそうだった。
現実でも此方でも、この未言巫女には玩ばれてばかりだからな。
巨虎の攻撃を紙一重で避け続け、避けきれない攻撃は姿を掻き消して逃れているユウの耳がピンと立った。ひくひくと震え、ある方向へ向けて研ぎ澄まされている。
「音楽……?」
〈化け猫〉となってより鋭敏になった聴覚が、まだ遠くから聴こえる誰かの演奏を捉えた。
このコミュトでは、『演奏』という創作が出来るのは、プレイヤーしかいない。それも現実では真昼の時間にログインしているなら、それは廃人と呼ばれるプレイヤー上層部である可能性が頗る高い筈だ。
「に、逃げ込めば、こいつの相手をしてくれるかも!?」
「いや、バ母様、モンスタートレインとか、流石に引くわー」
無関係のプレイヤーを巻き込む算段を付けたユウに、あの妖すがまともな意見を零して呆れていた。
「誰のせいよっ!」
「うん、主にバ母様のせいかなっ♪」
「うなぁん!?」
まぁ、未言巫女の存在も、妖すを躾られてないのも、ワンダリングタイガーを撃退したと油断していたのも、その撃退方法がそもそも的外れだったのも、全てユウの落ち度ではある。
「なんか、かしこさんから冷たい雰囲気を感じる!」
「雰囲気じゃない。実際にそう思っている」
「なんで四面楚歌!?」
「バ母様が愛されキャラだから?」
「うそつけー!」
これだけ無駄話を展開しながら、ユウは一向にワンダリングタイガーの攻撃に当たらず逃げつつけている。自分の存在を消し去れる《妖す》の有効性と、この〈化け猫〉のアヴァターとの親和性は、やはり目を見張るものがあるな。
そしてユウはひたすら懸命に走り、微かな音楽へと向かっていく。
近付くに連れて、その演奏は鮮明になっていった。
G線上のアリア。バッハが作曲したアリアを、十九世紀のヴァイオリニスト、アウグスト・ウィルへルミが編曲し、ヴァイオリンの最低音弦であるG線だけで演奏出来るようになった曲目だ。
子供連れで散歩をするようなテンポで流れる、木漏れ日の道みたいなメロディに招かれて、ユウの足は次第に速度を落とし、その野外に鎮座したグランドピアノを弾く老人の前でお座りで停止した。
不思議な事に、ワンダリングタイガーもまた、ユウと同じように歩調を緩め、ユウの後ろで前足を組み、頭をその上に乗せて微睡むように彼の演奏に聴き惚れているようだった。
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