12-3 悲しき習性

 アルウィスは金牙きんがの父について語ると、すぐにアリシエと無理やり入れ替わった。しかしアリシエは、金牙を警戒してなのかすぐさま身を隠してしまう。書斎奥にあるテーブルの下に隠れ、顔だけを覗かせて様子を窺っている。その怯えた表情を見て真っ先に動いたのは虹牙こうがだった。


 彼女はアリシエの心の声に耳を澄ます。その刹那、その混乱する心に飲まれ、意図せずとも顔が歪んだ。困惑顔で金牙の肩を優しく叩き、今聞いたアリシエの感情を伝えることしか出来ない。


「シャニマでの記憶を思い出したんだよ。隠れるのも、怯えてるのも、警戒するのも、全部戦いによるトラウマだ。今までが異常だったんだ。戦場での記憶を全部失っていたのは、その記憶をアルウィスではない人格が受け持っていたから。その人格が消えて、記憶もトラウマも戻ってきた。そういうことだよ」

「だとして、僕はどうしたらいいんだ?」

「少しお待ちよ、金牙」


 虹牙は焦る金牙を制すると、書斎奥にある机に近づこうと身体を動かし始めた。虹牙が一歩足を踏み出せば、アリシエはビクッと身体を震わせ、隠れながら様子を窺う。逃げようと思えば逃げられる。なのにそれをしないのは、これまでの虹牙との記憶があるが故。


 アリシエが行動に迷う間にも、虹牙はどんどん近付いていく。ついに虹牙がアリシエの元に到着した。その場でしゃがみこみ、アリシエと目線の高さを合わせる。


「この屋敷には、そなたを傷つける者はいない。食事も寝る場所も着る服も、何一つ不自由はしない。だから大丈夫だよ。怖かったね、辛かったね。よく、今日まで生きてたね。そなたはよく頑張った。風牙ふうがさんもシャーマンさんも、そなたが生きてることを知ったら喜んだだろう」


 普通の言葉ならアリシエには届かなかっただろう。虹牙はアリシエの心を読んで、その不安を一つずつ拭おうと試みる。それは心の声が聞こえてしまう虹牙にしか出来ないこと。


「大丈夫、誰もそなたを責めやしない。それどころか、そなたが生き残ったことを褒めるはずだ。二人はそなたを生かすために死んだのだろう? 深呼吸をしよう。ここでの暮らしは思い出せるかい? 仕事で戦うことはあると思う。でもそれ以外で戦ったことも、襲われたこともないだろう?」

「……こ、虹牙」


 彼女の言葉を聞いたアリシエに動きがあった。テーブルの下に隠れていた身体が上半身だけ外に出る。かと思えば周囲の安全を確認し、勢いよく虹牙に抱きついた。離れようとしないその様子が、彼の心の傷を示している。





 虹牙の胸元に顔を埋める金髪の黒人、アリシエ。その震える背中を、虹牙の色白の手が優しく撫でる。それだけでアリシエの荒かった呼吸が落ち着き始めた。その様子はまるで、泣きじゃくる子供とその子供をあやす母親のように見える。


 かつて子供だったアリシエが忘れようとするほど悲惨な記憶。それを思い出して混乱したまま、アルウィスに無理やり表に出させられたらしい。子供に戻った心は、虹牙の言葉によって少しだけ落ち着いたようだ。


 銀色の瞳がダンの姿を捉える。次の瞬間、瞳が大きく見開かれた。虹牙から離れると何かを確かめるようにダンに触れる。アリシエの肩ほどの背丈。人目を引く白銀の髪は目や耳にかからない程度の長さ。濃い青色の瞳に色白の肌、整った顔立ち。その身体には剣と盾が身につけられている。


「ダン様、、なったね。会った時は何するにも怖がってたよね。なのに今は自分から、剣と盾で身を守ることを学ぼうとしてる。うん、大きくなったよ」


 その言葉が物語るは過去の記憶。宮殿で会った時、ダンは怖がった様子など見せていなかった。宮殿であった時と今ではダンの見た目はさほど変わっていない。それなのに「大きくなった」というのは、幼き頃のダンと今のダンを比較しているからに他ならない。その言葉が意味することに気づき、濃い青色の目が潤んだ。


「初めて会った日のこと、思い出したの。ごめんね、再会した時は覚えてなくて。友達なのにダン様のこと、忘れるなんて。アルウィスと二人で仲良くなったのにね」

「大丈夫じゃ。我こそすまぬ。お主は我を庇ったせいで……。のう、アル。我は、何も知らずに上に立ちとうない。皆の働きや苦しみを知って政治を行う、そんな皇帝でありたい。お主はそんな我に――」

「ダン様は、友達。だから、守るし、一緒にいる。支える……は出来ないかもしれないけど。ダン様が何をしても、僕はダン様を、助けたい」


 申し訳なさそうなアリシエの言葉にダンが声を返す。かと思えば、暁家の屋敷に来てから強ばらせたままだった頬の筋肉を緩める。アリシエが昔を思い出してくれた。それを知っただけで自然と笑みが零れ落ちてしまう。





 書斎の壁に寄りかかり、つま先で床を叩き、不規則なリズムを奏でるものが一人。胸の前で組まれた腕と、への字に曲げられた口が、その者が不機嫌であると示している。アリシエとダンのほのぼのとしたやり取りに苛立っているのは、金牙だった。金牙は今、他の三名との間に見えない壁を感じている。


 アリシエは虹牙とダンにはすぐさま反応した。しかし金牙にだけは話しかけない。それどころか目を合わせようとすれば逸らされ、少しでも近付こうとすれば体がピクりと動いてしまう。ここまであからさまに避けられてしまうと、金牙には手の打ちようがない。


(下手に声をかけたり動いたりすれば警戒される。だが、アルから僕に話しかける様子はない。……避けられるのを前提として僕から動くしかない、か)


 金牙は小さくため息を吐くとわざとらしく咳をした。咳払いで注目を集めた上で、わざと大きく靴音を立ててアリシエに近付いた。虹牙に抱きついたままのその肩に触れれば、幽霊でも見たような怯えきった目で金牙を見つめてくる。だがその目は金牙を通して別の人を見ていた。


 頬骨の辺りまである内巻きの暗い金色の髪。濃い青色の瞳。色白の肌に、腰に身につけた細身の長剣。体型は違うし、その背に両手剣はない。だがそれでも、金牙の外見は父親である風牙によく似ている。そしてそれが故にアリシエは金牙を避けている。


「僕は戦闘貴族という地位だから戦いを避けられない。貴様が父様を殺した? 何を馬鹿げたことを。少なくとも僕は、私情を理由に身内を殺し、立場で誤魔化したこともある。部下を使って人の命を奪ったのは一度や二度ではない。貴様のした行動なんて、僕よりもよっぽどマシじゃないか」


 金牙の言葉に虹牙から笑顔が消える。アリシエを抱きしめているその顔は、醜く歪んでいた。無意識のうちに、アリシエを抱きしめる腕が震えてしまう。自分を落ち着かせるためなのか、唇を血が出るほど強く噛みちぎり、その小さな肉片を飲み込む。雪のように白い肌に、鮮血の花が咲いた。


 金牙は虹牙の反応など気にもせず、笑顔の消えたアリシエを睨みつける。少しずつ顔が赤く染まっていくと、染まり具合に比例して呼吸が荒くなっていく。強く握り込んだ拳のせいで、手のひらには血が滲む。


「あいにく僕は父様と違ってな。父様ほど強くない。長時間は戦えず、父様から頂いた武器で扱えたのはこのレイピアだけ。だがな、僕は父様のような無謀な行為はしない。この頭脳こそが、僕が当主になった決め手だからな」


 風牙と違うことを示すために無意識のうちに自慢気な言い方になる。だが金牙はそれを後悔してはいない。今言ったことに嘘は微塵も含まれていないからだ。だが、その言葉を聞いたアリシエはぽかんと口を開けたまま。言い回しが難しくて、その意味を理解出来ないのである。


「見た目は真似ているが中身は違う。刀で例えるなら父様は真作しんさく、僕は贋作がんさくだ。贋作にすらなれなかった失敗作だがな」


 金牙が刀に関する語で例えると、ようやくアリシエが小さく二度首を縦に動かした。その刹那、アリシエの頭がガクンと勢いよく虹牙の胸部に落ちる。


 「眠りに落ちた」と形容するにはその変化はあまりにも急だった。かと思えばこれまた突然アリシエの頭が勢いよく持ち上がる。





 鋭い眼光で自分の居る場所を把握するや否や、虹牙と距離を取った。だが勢い余って壁に激突し、打った所を手で擦りながら壁にもたれかかる形になる。そこでようやく現状を把握することとなった。


 アリシエとは違い切れ長の鋭い目つき。まとうは威圧的な独特の雰囲気。何より、先程までアリシエが見せていた怯えを微塵も感じさせないその態度。一度目を合わせれば、彼が何者なのかがわかる。彼の変化に気付いた金牙が口を開く。


「おい、アルウィス。アリシエが僕に嫌われるか怯えてる? アリシエは、僕という人間そのものに怯えていたぞ。話が違うじゃないか」


 アリシエの頭がガクンと落ちたのは、アリシエの意識が失われたから。その後再び動き出したのは、アリシエの代わりにアルウィスが表に出てきたからだ。なぜこのタイミングで入れ替わったのかは、本人にしかわからない。


「俺はアリシエじゃねーんだ。そこら辺の事情までわかんねーっての。で、話せたのか?」

「アリシエに聞け。何故か僕を怖がり、虹牙に抱きつき、ダン様のことを思い出し――」

「『一気に記憶思い出したから、風牙さんとごっちゃになった、ごめん』だとよ。ついでにもう一つ。風牙さんから伝言があったわ。それは……」


 アルウィスがわざとらしく間を開けて口を開く。金髪の明るさも瞳の色も風牙とは異なる。にも関わらず、金牙の目にはアルウィスに風牙の姿が重なってみえる。そのせいか、口から飛び出た言葉は風牙の声として金牙の耳に届いた。


「イグニス皇太子は、有色人種ではなく『神の眼』を恨んでいる。『神の眼』を滅ぼすためなら何でもするよ。この戦争だって、彼が仕組んだようなものだからね」


 アルウィスの言葉に金牙は頭が真っ白になる。アルウィスが最後に投げやりに放ったその言葉とその意味に、一瞬思考が途絶えた。このタイミングで皇太子の話が出てきたこと、風牙が何かを知っていたらしいこと。その事実に、首を絞められたような息苦しさを覚える。


(もしそれが本当なら、今一番危険なのは……)


 頭が回らない。例えようもない脱力感が身体を襲う。胸にポッカリと風穴が空いて、そこに北風が吹き込んでいるようで傷口を痛めつけているようだ。そしてその感覚は金牙からまともな思考を奪い去るのであった。

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