2-2 彼に平和という日常を

 虹牙こうがはため息を吐くと少しの間思考する。ソニックはともかくとして、アリシエにわかりやすいように話をする必要があった。アリシエが理解しやすいように、話す内容とその順番を決めてから言葉を紡ぐ。


「昨日手合わせをした場所を、覚えているかい?」

「えーと……なんか鏡とかサンドバッグがあったお部屋?」

「そう、その部屋。そこはね、訓練所と呼ばれている場所なんだ」


 これから説明するのは暁家で暮らす上でのルール。鍛錬の方法から仕事まで。その全てを、アリシエがわかるように説明しなければならないのである。場所の案内は後でもいいとして、それ以外の基本的なことを教えるよう、虹牙は金牙きんがに頼まれていた。


「訓練所は自由に使っていい。でも一つだけ、守ってほしいことがある。味方や建物にの武器やの体術を使わないこと。仕合は木刀を使うか、手加減した体術を使ってほしい。これだけは守って。いいね?」


 それは昨日、アルウィスが真剣を用いて仕合――練習形式の模擬戦闘を行おうとしていたからこその注意である。本物の武器以外を扱うのに慣れてないことは昨日の反応で容易に想像出来る。木刀などで練習をする余裕のない環境だったのだろう。もしくは、必要に迫られて戦ったために強くなったのか。


「食事は朝昼晩きちんと用意される。だから急いで食べなくていいし、余った食べ物を――」


 突然、虹牙がアリシエのズボンのポケットに手を入れた。僅かに膨らんでいたそのポケットから出てきたのは、食べかけのパン。本日の朝食に出てきたものである。どうやらアリシエはわざと朝食のパンを残してポケットに隠し持っていたようだ。


 パンの大きさは手のひらにすっぽりと収まる程度。歯型の付いたパンには糸くずが付着していた。時折指で握りしめていたのだろうか。パンには指の跡がくっきりと残っており、固くなっている。


「こういうふうに取っておかなくてもいい。仕事の時も食事は食べられるから。お腹が空いた時は言ってくれれば、時間によるけど軽食をあげるから。

 だからそんなに怯えなくていいんだよ。服だって、必要なら買うから。この家の中なら安心して寝ていいから。空腹で死ぬこともないから。だから、こういうことはもうしないで。わかった?」


 空腹に悩まされた時に備えてわざと余らせておく。このような行為はアリシエの過去の経験によるものだろう。食事も満足に食べられない環境で育ったのだと推測出来る。そういう環境で育った者は食べ物を急いで食べ、可能ならとっておく傾向にあるからだ。


 そんなアリシエの過去の経験故の行動を知ってしまったからこそ、虹牙は安心するように告げた。金牙の言葉だけでは理解していないらしい。それほど悲惨な環境で育ったのだろう。アリシエにはまず、今の平和な日常に慣れてもらわなければならない。


「いつ食べ物が無くなるか、わからないよ? 食べられる時にためておかなきゃ。船でも、もらえなかったよ?」

「アリシエ。いや、アル、だっけ? ここは……ここは、平和な場所なんだよ。だから、そんな心配、しなくていいんだ」


 アリシエの不安の原因を、心を見聞きして知ってしまったから。虹牙は怯えつつも笑顔を見せるアリシエの頭をそっと撫でた。だがアリシエは何が起きているのか理解すらしていない。頭を撫でる虹牙の腕を掴んで抵抗するほどに、その心の傷は深い。


 アリシエの生きていた世界は厳しい世界。奪って奪われてが当然の世界。故に、アリシエは平和で安全な世界を知らない。それがアリシエのズレた思考回路の根源である。そしてそんな世界で生きていたからこそ、強くなったのだろう。


「真剣なしでどうやって、練習するの?」

「真剣は、素振りや動きの確認に使うんだ。的を攻撃するのはいい。でも、命を奪う理由なしに人を攻撃してはいけない。

 木刀はあくまで仕合にしか使わないよ。仕合で木刀を用いて戦うことで、実戦での体捌たいさばきを身に付けるんだ。意味、わかるかな?」

「うん。武芸に関する言葉ならわかるよ。文字? とかは全くわからないけど」


 アリシエが嬉しそうに笑う。しかし武芸に関する用語しかまともに知らないということは、武芸に関する偏った知識ばかりを教えられたということ。他のことを教える余裕がなかったか、そのような環境でなかったか。いくつかのパターンが考えられる。


 ではなぜ偏った知識ばかりを覚えているのだろう。アリシエに武芸や知識を教えたのは誰なのだろう。そもそもアリシエの親はどこにいるのだろう。それらはアリシエの心からはすぐには読み取れない。アリシエの過去は虹牙にもわからない謎ばかりであった。





 虹牙はおもむろに床に置いた本の山に手を伸ばす。そしてその中から一冊の本を選び取った。本を開いてアリシエとソニックに見せる。


 それは絵本だった。だが描かれている絵は子供向けではない。その絵は、血などの表現こそ誤魔化しているが、一言で言えば「人種差別」を示す絵ばかり。


 その絵本に出てくる人物は大きく二つ。肌の黒い人間と肌の白い人間をイメージしたイラストだ。その絵本が示すのは黒人と白人による差別の実態であった。



 最初は白人が黒人を見つけて驚いている。自分達と見た目が違うからだ。そしてそれを気味悪がる。その違いを恐れる。そんな絵から始まっていた。


 次は白人が黒人に対して石を投げる。黒檀の肌を持つ者を同じ人間としてみなしていないのだ。その次には、手錠や足枷を付けた黒い人――奴隷を売っている白人の絵がある。


 ある白人は売られている奴隷を買ってこき使う。それで肌色の違う者が傷つこうが死のうが、気にしようともしない。やがて黒人の犠牲者が一人、また一人と増えていく。


 絵本を読み進めていくうちにアリシエの表情が険しくなる。だがアリシエが感じるのは、金牙と絵本の白い人との違いばかり。絵本の内容はとても信じ難い内容だった。


 絵本が進むと、二つの関係性も変わる。ついに絵本のあるページでは、黒人と白人が握手をした。二つの人種が和解をしたようだ。だがその和解では根本的な解決にはならなかったらしい。


 ページを一枚めくると、再び白人が黒人に石を投げている。ヒソヒソと何かを話したり指差したり。和解はであって、差別の根源は解決していないのが絵を見てわかる。和解をしても、差別は無くならなかったのだ。


 黒人の手を取り、仲良くする白人がいる。その一方で黒人に対していいイメージを持たない白人がいる。それは今の皇国ハベルトの様子を示していた。有色人種に友好的な白人とそうでない白人がいるのが今のハベルトなのである。


「まだ、そなた達のような肌の黒い者に対する差別は消えてない。やっと、肌が黄色い者に対する差別が減ってきたところだ。国民が少しずつ有色人種カラードに慣れてきたところ、だね。

 今の皇帝は差別に反対してる。そなた達の乗ってきた船も、本来なら罰せられるべきなんだ。でも……どんなに差別に反対しても、今のこの国には差別が根強く残ってる。

 だから、一人では出歩かないでほしい。何があるかわからないから。そして、私や金牙の紹介した白人以外は信じないでほしい。そなた達のためにも」


 虹牙のその言葉は、アリシエとソニックを助けた老人の言葉に似ていた。だからあの時、老人は二人に「気をつけろよ」と警告したのだ。アリシエもソニックも、老人の警告の真意にようやく気付いた。


「どうして……どうして、差別? 差別とかいうの、するの?」


 まるで幼い子供のようなあどけない表情で、好奇心からか目を輝かせながら、アリシエがそう尋ねた。アリシエの言葉にソニックは思わず頭を抱える。虹牙は困惑した表情を見せた。なぜなら、その理由は虹牙やソニック自身も正確には把握出来ていないから。


「一言で言えば好き嫌いだよ、きっと。嫌いだから、オイラ達みたいな黒人を攻撃するんだよ」


 ソニックがなんとか捻り出した答えは推測でしかない。それ以上はどう頑張っても説明出来なかった。そもそもなぜ白人が差別を始めたかすら定かではないのだ。


 「人種特有の身体的特徴を嫌うから」と言うのがハベルトで最も有力とされている差別理由である。身体能力を恐れて差別するくせに、戦闘員としては高額で売り買いされているのが現実だ。


 当然差別しない者もいる。その一方で差別する者もいる。差別しない者を嫌う者もいる。ただ傍観しているだけの者もいる。そしてそこに、虹牙が差別について触れた理由があった。


「さっき、この国には何がいるって言ったっけ?」

「皇帝様! と……あと、何だっけ。にぃに、わかる?」

「五つの戦闘貴族、だよ」

「それ! 皇帝様と戦闘貴族がいるよ、この国には」


 ソニックに教えてもらいなんとか虹牙の質問に答えるアリシエ。どうやら先程の虹牙の教えを少しは理解していたらしい。アリシエの様子を確認すると虹牙は再び言葉を紡ぎ始める。


「そう、皇帝と戦闘貴族だ。皇帝は今説明した差別に反対している。ということは、皇帝に忠誠を誓う戦闘貴族はどうかな、アル?」

「差別反対!」

「正解。皇帝と同じ思想を持つ人を『皇帝派』って呼ばれてるんだ。で、ここからが大事。ややこしいけどよく聞いて。

 皇帝には皇太子という弟がいる。彼は差別を容認していて、武力を行使して今の状況を変えようとする過激派。『皇太子派』って呼ばれてる一つの勢力だ。ここまではいいかい?」


 虹牙の言葉にソニックとアリシエが頷く。もっとも、アリシエには「皇帝派と皇太子派で国が二つに分かれているらしい」程度しか理解出来なかったが。二人の反応を確認してから、虹牙はさらなる言葉を紡いだ。





「皇帝派と皇太子派は皇位継承権を巡って対立していてね。確実に皇位に就こうと、ハベルト各地で様々な事件を起こしてる。皇太子様が直接ってわけじゃないから、こちらは反逆者を裁くことしか出来ないけれど。

 さて、私達は金牙の指示に従うのが役目だ。金牙を含む戦闘貴族の仕事は……今言った皇太子派の反逆者への対応、担当地域の統治が主になってる。

 つまり、皇太子派の暴動を抑えること。危険人物を探して必要なら殺害すること。この二つが、統治以外の仕事になってる。なんとなくわかったかな?」


 アリシエがあからさまに眉をしかめたのでわかりやすく言い換える虹牙。だが言い換えてもあまり把握出来ていないようだ。ソニックの方はきちんと理解しているというのに。ソニックが小さく頭を下げる。そして「話を続けて」と声をかけた。


「要するに指示した敵と戦ってもらいたいってことだ。仕事がない時は自由に過ごしていい。鍛錬したり好きなことしたり。必要なものは全部買ってくるから」


 ようやく虹牙の言ってることを理解したのだろう。アリシエがコクンと力強く頷く。だがその目に不安の色が見え隠れするのを、虹牙は見逃さなかった。


『安心しろ、アリシエ。俺が戦ってやる。お前は俺が守ってやる』


 アリシエの不安を感じてだろう。アリシエの頭の中にアルウィスの声が聞こえる。今のアリシエにとって、そんなアルウィスの声はすごく頼もしいもの。


 アルウィスの声を聞いて自然とアリシエの顔に笑顔が戻る。子供のように純粋で、太陽のようにまぶしい笑顔が、虹牙の目には遠い存在に思えた。

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