第二章 井の中の蛙大海を知る

2-1 戦闘貴族とは

 翌朝、アリシエとソニックが起床すると首周りがやけにすっきりとしていた。試しに首に手を近付ければ、硬く冷たい金属特有の感触が無くなっている。寝ている間に首輪が外されたせいか、身体がふわふわと宙に浮いているような気がしてしまう。首輪一つないだけで、久々に柔らかい寝床で休んだだけで、疲労が激減したようだ。


 二人は虹牙こうがに案内されるがまま、ベッドの上で朝食を済ませた。かと思えば状況も把握出来ないままに別の部屋に連れていかれる。しかし二人を率いる虹牙は奴隷船にいた者達と違った。黒人二人に配慮して、人として扱い気遣う。嫌悪感を表に出すことすらしない。


 アリシエとソニックが新たに通された部屋は、昨日の応接室から少し歩いたところにある白壁の小さな部屋だった。装飾品はもちろんのこと、家具の類ですらほとんど無い。あるのは五脚の椅子、暖炉、そして本棚だけ。昨日の部屋とは違い、机やソファといった来客向けの家具はない。


「今日は、昨日話した言語について説明しようと思うんだ。この国についても、簡単に教えよう」


 虹牙は困ったように首を傾げるアリシエにそう伝える。いきなり知らない部屋に通されて不安にならないはずがない。アリシエもまたその一人。どうやらこういうところだけは、良い意味でまともなようだ。


 笑顔を見せつつも周囲を見回して落ちつかないアリシエ。そんな彼とは違い、ソニックは冷静だ。初めての場所だというのに眉一つ動かさない。その落ち着きがどこから来ているのはわからない。唯一妙なことと言えば、虹牙の顔を見ようとしないことくらいだろう。奇妙な沈黙の中で虹牙が言葉を紡ぐ。


「そなた達はこのままあかつき家に居させてもらうのと、街に戻って追われるの、どっちがいい?」


 紡がれた言葉に、アリシエとソニックは顔を見合わせてしまう。虹牙の今の言葉に疑問を感じたからだ。問いかけられた選択肢に違和感があった。それは言葉のつたないアリシエにすら感じ取れるほどはっきりとした、口に砂利を含んだ時の異物感に近い不自然さ。


 虹牙の言う「追われる」は昨日奴隷船から逃げた時のことだろう。アリシエとソニックは運良く奴隷船から逃げ出したものの、港で待ち構えていた船員の仲間に追いかけられていた。「追われた」のは事実だ。しかし虹牙がそれを知っているのはおかしい。


 虹牙はあの場にいなかった。二人を助けに来た金牙と警官は途中からやってきただけ。アリシエとソニックが追われているその瞬間を見てはいない。事実を知っているのは、奴隷船の船員とその仲間達だけ。金牙から話を聞いたのであれば、明確に「追われる」とは断言出来ないはずだ。しかし虹牙は「追われる」と言い切った。


 昨日の出来事を、虹牙がアリシエ達の心を読んで知ったのだろうか。だがそれにしては、この屋敷は二人を受け入れる準備が整い過ぎている。まるで最初から二人が来ることを知り、それにあわせて準備をしていたようだ。





 二人には二つだけわからないことがあった。なぜ金牙に選ばれたのか、なぜあのタイミングでラクイア大聖堂に入ってきたのか。それだけは、いくら考えても答えが出てこない。


 奴隷なら他にもいる。戦える黒人も、アリシエとソニック以外にいる。確かに銀色の目を持つ黒人はアリシエしかいない。だが、もしアリシエが狙いだとしてもおかしい。


 奴隷船から拘束されていた奴隷が逃げるなんて、通常ならありえない。誰かが船内で手引きしない限りありえない事象だ。また、たとえ逃げるのを知っていたとしても、そのあとにどこに行くかは不明である。そもそも、アリシエがどの奴隷船に乗るかもわからないだろう。


 暁家の屋敷に来た時の違和感。金牙がアリシエ達が戦っているタイミングで運良くラクイア大聖堂にやって来て二人を助けたという事実。これらを「運が良い」と一言で片付けることは出来ない。金牙は奴隷船で二人を助けた船員と共犯だった、そう考えるのが自然だ。


「どっちがいい?」


 再び虹牙が聞いた。無表情のままで言われたその言葉はあまりに冷たく、身体が凍りつくような感覚を与える。その声に急かされ、アリシエとソニックは「暁家に居る」とすぐさま言葉を返してしまう。二人の表情に迷いは見られない。いや、「迷うまでもない」という表現が正しい。


 街に戻ったところで物を盗んだり人を襲ったりして生きていくしかない。二人を奴隷船から助けた老人は言っていた。ハベルトの人の大半が彼らのような有色人種を嫌っている、と。


 ならば、生死の保証がないのは街だろうと暁家だろうと同じはずだ。それでどちらかを選べと言われたら、衣食住が保証されている方を選ぶに決まってる。そんなの、幼児ですら答えられるほど簡単な質問だ。


 昨日と今朝の金牙達の対応を見るに、この屋敷にいる者は二人のことを差別しているように思えない。少なくともまともに扱ってくれている。銀牙という有色人種の血を引く者は金牙と親しい。このような些細なところから、暁家に対する安心感が生まれた。


 二人の返事を聞いた虹牙はアリシエに椅子に座るよう指示する。驚いた様子がないのは、二人の返事を先に心の声として聞いてしまったからなのだろう。実際の声としてしっかりと二人の返事を聞くと、虹牙は本棚からいくつかの本を取り出した。





 虹牙が一冊の本を床に広げる。そこに描かれていたのはハベルトの地図。ハベルトは長方形に近い形をしている。山脈と川が隣国との境界の役目を示しており、その国土の形はかなり複雑だ。長方形に近いと言っても実際の境界は、緩やかにカーブしたり複雑に曲がりくねったりしている。


 虹牙の開いた本にはアリシエには読めない文字で何かが書かれていた。ソニックはその文字が読めるらしく、時折小さく頷きながらも文章を読み進めている。虹牙はアリシエのためにと地図を指で示しながら言葉を紡ぎ始めた。


「この国には皇帝がいて。その皇帝に絶対の忠誠を誓う五つの氏族しぞくがあって。その氏族のことを、戦闘貴族と言うんだよ。

 五つの氏族は皇帝のために戦う。そして国の都市の統治を任される。わかりやすく言うと、ハベルトでは武芸者が都市を守る。戦闘貴族の他にも武芸を司る氏族はあるけど、そのほとんどは戦闘貴族に仕えているんだ」


 虹牙の説明にさっそく眉をしかめたアリシエ。虹牙がアリシエにもわかるよう例えるも、漠然としたイメージしかわからなかったようだ。だが彼女は最初から、アリシエがその意味を理解出来るなどとは思っていなかった。大事なのは戦闘貴族の意味ではない。


「皇国ハベルト、この国は大きく五つにわけられるんだ。この五つの都市名と統治する戦闘貴族の名前だけは覚えてほしい」


 ハベルト東部の都市、ラクイア。統治しているのは暁家。今アリシエ達がいる都市がラクイアである。ハベルトで唯一の港がある都市でもある。アリシエ達を連れてきたような奴隷密売業者も多い。


 ハベルト南部の都市、アポロン。統治しているのはアウテリート家。ここの当主は金牙達の友人であり恩人。アポロンの市民はそのほとんどが武芸者としてアウテリート家に仕えているという。


 ハベルト西部の都市、ライデン。統治しているのはイ家。ナルダ社という武具を取り扱う会社も経営してる。武芸者向けの装備品販売としての方が知られており、ナルダ社の名を知らぬ武芸者はいない。


 ハベルト北部の都市、ミズナミ。統治しているのは葵陽きよう家。暁家の親戚にあたる氏族で、現当主は戦闘貴族で唯一の女性当主である。


 最後はハベルト中央部の都市、クラウド。統治しているのはクライアス家。医学に詳しい氏族で、薬師としても名をせている。皇帝の住まう宮殿があるのも中央都市クラウドだ。


 虹牙は都市一つ一つを地図を使って説明した。ハベルトの地理についての話を、アリシエは何とか理解出来たようだ。細かい名前を覚えているかは定かではないが、少なくとも頷いて納得した表情を見せている。


 ソニックはというと虹牙の説明に何一つ文句を言わない。それどころか涼しい顔で話を理解し、目線だけで続きを訴える。その様子はまるで元々知っていたかのようにも思えた。


「戦闘貴族は基本的には氏族で構成されるんだ。他の戦力には、そなた達みたいな戦闘員がいるね。戦闘員も戦闘貴族に含まれるけど、扱いは部下に近いかな」


 虹牙の言葉に、アリシエが眉をしかめて首を傾げてしまう。ソニックには困惑する様子が見えない。困った虹牙はアリシエの心の声を聞き、その疑問を解消することにした。


「……部下っていうのは、あるじと共に行動して求められる仕事をする人だ。そうやってお金を得る人のことだよ。そなた達の場合は、金牙が主になる」

「つまり僕達は、金牙のために戦うってこと?」

「そういうことになるね。基本的には金牙の指示に従ってもらうことになると思うよ」


 これまで黙って話を聞いていたアリシエが始めて、自身の認識が合っているかを確認した。肯定されると、幼い子供のような無邪気な笑みを見せる。見た目は十代後半であるが、彼の言動は十歳未満の幼子のそれと同じであった。


 虹牙が説明したのはあくまでハベルト皇国についての説明だ。ハベルト皇国の仕組みと地理について、暮らす上で必要な最低限の知識を教えただけ。本当に大事なのはここから先の話である。

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