第5章 してはならないこと(1)

牧が物語を書きあげた時、突如聴き慣れない音が白い洋館の中に響き渡った。

「ボーン、ボーン」

牧は最初何の音だろうと思ったが、そのうち階下にある振り子時計のことを思い出した。そんな馬鹿な。あの振り子時計は壊れていたはずなのに。彼女は慌てて階段を下りると、玄関ホールにある振り子時計を見つめた。

「動いた……」

牧は目を丸くして呟いた。時計の文字盤は、以前見た時は四時十分を指していたが、今は十二時ちょうどを指していた。なぜ急に動き出したのだろうと思ったが、その一方で振り子時計がまた動きを止めてしまったことに牧は気がついた。


彼女はとっさに二階へと駆け上がると、例の銅の鍵を持ち、再び下へと下りてきた。そうして青の部屋へと行くと宝箱を開け、あの不思議な紙きれを手に取った。すると紙きれにはこんな文字が浮かんできた。

『私を城の塔から出してくれて、ありがとう。本もたくさん読めるし、素敵だわ。本当にありがとう』


ガラルータ国の王女からの言葉だった。牧は跳び上がらんばかりに喜んだが、その文字は徐々に消え去り、何事もなかったかのようにただの紙きれに戻った。牧は急に寂しさを感じるのと同時に、あることを悟った。もう物語は終わってしまったのだ。物語が終わったということは王女からの言葉も届かないし、私がこの洋館に来る必要も、もうないのだ。

牧は紙きれを宝箱の中に戻し、鍵も戻すと、完成した本をいつもと変わらない場所に置き、誰も来なかったかのように、そっと白い洋館を後にした。


それからしばらくの間、牧は自分の中身がすっかり空洞になってしまったようなひどい喪失感に襲われていた。まるでそれは、物語を書くために自分の心の一部を削りとってしまったようにも思えた。全てが物憂く、何もやる気が起きない。その一方で、彼女の頭の中では、同じ言葉が繰り返されていた。

『終わってしまった、終わってしまった、もう物語は』

こだまのように、その言葉が鳴り響くなか、ふと目をつぶると浮かんでくるのは、会ったこともないガラルータ国の王女の姿だった。


どんな王女だろうと思いを巡らせ、物語を書き進めるうちに、牧は王女に親近感を持つようになっていた。それは同級生の友達に対する気持ちにも似ていたが、自分と同じように本好きな王女は牧にとっては特別な存在になっていた。そして何よりも、あの不思議な紙きれには、自分の空想の産物ではなく、本当の王女の言葉がのっていた。実際にいるのに、言葉を交わすこともできない。牧は何もかもが終わってしまったことを頭では分ってはいたが、王女からの言葉をもう一度受け取れないだろうかとも思っていた。

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