第115話24-1.プライオメトリクス
運動エネルギーは、質量に速度の二乗を掛けたものを半分に割ることで求められる。これは、自動車のような機械でも、人間でも変わりは無い。
だから、ボクシングやレスリングなどの体重制を採用しているスポーツでは、筋肉量だけでなく瞬発力が求められる。体重がほぼ同じであれば、筋肉量もそれほど変わらないので、スピードの差がパワーの差に直結するからだ。
半年以上のトレーニングで、ボクシングに必要な筋力をある程度身につけた地頭方志光が、彼のトレーナー役を務めている門真麻衣から言いつかったのが瞬発力の増加で、そのために採用されたのがプライオメトリクスと呼ばれるトレーニングだった。
具体的には、腕立て伏せで腕を伸ばす際に瞬間的に力を入れて手を床から離すプライオプッシュアップ、スクワットで脚を伸ばす際に飛び上がるジャンピングスクワット、踏み台の上に飛び乗るボックスジャンプ、踏み台から飛び降りて即座にジャンプするデプスジャンプ、ボディーブローに対する打たれ強さを鍛えるために使われるメディシンボールを両手で持ち、床や壁に叩きつける、後方に放り投げる、などである。
こうした訓練の後で、鏡に向かってパンチの練習をすることによって、正しいフォームを目で確認しながら手足の速度を上げていく。
「最近は白誇連合への反撃で忙しくて、それほどトレーニングに時間を割けなかった。実戦も良いが、やはり定期的に訓練をしないと正しいフォームを忘れてしまう。キミは初心者だから、その点はベテランよりも気をつけるんだ」
麻衣はそう言いながら、志光の拳の位置や足幅を修正した。少年は赤毛の女性の指示を聞いて姿勢を直す。
彼女の言うとおりだ。練習は実戦で勝つために行うものだが、実戦ばかりしていると練習をする時間が無いので基本が疎かになる。
少年がドムスの二階で練習を始めて一時間ほどすると、魔界日本の情報担当であるアニェス・ソレルがトレーニングルームにやってきた。彼女は汗みどろの少年の姿を目にすると休息用の椅子に腰を下ろし、麻衣と無言で視線を交わす。
「ちょっと休憩」
しばらくすると赤毛の女性は志光にタオルを投げた。少年は髪の毛、顔、首筋、脇の下を拭ってから両手で髪型を整える。
「ベイビー、お疲れ様」
椅子から立ち上がったソレルは、トレーニングルームに備え付けられてあった冷蔵ショーケースから邪素の入ったボトルを取りだし、蓋を開けてから志光に手渡した。
「ありがとう。ここに来るのは珍しいね」
褐色の肌に礼を述べた少年は、ボトルに口をつけて邪素を補給する。
「麻薬密売の件で、重要な情報が入手できたわ」
「瀬川さんに頼んで、三日しか経ってないのに?」
「あの子、本当に凄いわ。自分に近寄ってきた男女を問わず、どんどん喋らせて密売人のルートを掴んじゃったのよ」
「はあ……」
「ただ、厄介ね。相手は犯罪慣れしている。ひょっとすると、ホワイトプライドユニオンのメンバーに元犯罪者がいるのかもしわないわね」
「どういうこと?」
「彼が見つけたバイニンは全員が白人男性で五人。マトリに逮捕されたのが二人だから、元々は七人以上いたのかも。外国人性愛(ゼノフィリア)の日本人女性とつき合っていて、彼女たちの友人関係を利用してクスリを売りさばいているわね」
「ああ……白人女性に固執する男性もいるもんなあ」
「問題はここからよ。彼らは一キロ単位、あるいは百錠単位で商品を売りさばいているわけではないわ。メタンフェタミンやコカインなら一グラム以下の小袋に分けて、鎮痛剤なら一錠か二錠の単位で売りさばいているのよ」
「ごめん。ちょっと意味が分からないんだけど……」
「つまり、薬品を小分けにしている場所が別にあると言うことよ」
「なるほど」
「問題はその場所で、都内じゃないのよ。私が発見したのは埼玉県のマンションの一室にあったわ」
「つまり、池袋のゲートから、麻薬を直接六本木に運んでいないってこと? どうして?」
「ゲートを隠すためと、都内で流通ルートを完結させないためでしょうね」
「ああ……東京都と埼玉県は、警察にとってそれぞれ別の管轄だから、その分だけ捜査の手続きが面倒なのか。確かに、それは犯罪慣れしている人の手口かも知れないなあ」
「ちなみに、小分けにしている部屋の隣室には、例のカニ男が見張りについているわ」
「小分けをしているのは人間で、その監視をしているのが魔物ってこと?」
「そうよ。でも、たぶん人間の方は魔物の存在に気付いてないわね」
「でも、誰かが池袋ゲートから小分けにする場所へ麻薬を運んでいるんだよね?」
「そうね。だから、ホワイトプライドユニオンが日本で麻薬を密売するルートは、ゲートから小分けする場所への運び屋、小分けをする場所の責任者、そこで小分けされた商品を買って売りさばくバイニン、の三段階と言うことになるわね」
「じゃあ、バイニンを捕まえてもトカゲの尻尾切りにしかならないのか……」
「直接売買ではない分だけ、コストはかかるだろうけど安全性が高いわね」
「小分けをしているアジトを襲っても、一時的に供給が出来なくなるだけだろうしなあ……やっぱり、ゲートから麻薬を運んでいる奴を捕まえないと駄目だね」
「特定するのに時間がかかるけど、どうするの? 私を運び屋の監視に使えば、その分だけこちらのリスクが上がるわよ」
ソレルの発言を聞いた志光は、おとがいに手を掛けた。
褐色の肌が使うスペシャル〝壁の蝿〟には驚異的な追跡能力がある反面、あくまでもアニェス・ソレルという悪魔の個人的な能力でしかない。だから、彼女が麻薬ルート解明に専念してしまうと、WPUからの再報復を警戒する任務の適任者が消える。
あちらは直ちに魔界日本を攻撃してくるだろうか? それとも、自分達の領土を防衛することに力を注ぐだろうか? 情報が乏しい中で結論を下さなければならない。
「期間は五日間。それを過ぎたら、運び屋を見つけられなくても、いつもの仕事に戻ってくれ。ソレルがいないと、報復テロを防げそうにない」
しばらく黙考した志光が結論を出すと、ソレルは嬉しそうに笑って彼の頬にキスをする。
「分かったわ、ベイビー。ウォルシンガムと私で集中的に調べるわね」
「頼むよ」
少年はそう言うと、ペットボトルを彼女に返却した。
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