第34話6-3.ボクシングの構え(前編)

「OK! それじゃ、さっそく準備を始めよう」


 赤毛の女性は格闘技の練習器具が置いてあるエリアに移動すると、その場で衣類とブーツを脱ぎ捨て黒い下着姿になり、ハンドタオルにボクシンググローブ、パンチングミット、それに長い帯がついた黒い指ぬきグローブを持ってくる。


「あの……麻衣さんも脱ぐんですか?」


 麻衣の格好を見た志光はため息をついた。


「当然だよ。普段の格好で、どうやって練習するの?」


 彼女はやや顔をしかめながら、帯のついた指ぬきグローブを少年に渡す。


「これは?」

「カンタンバンテージだよ。ボクシングをするならバンテージを巻いて手首と手の甲を保護する必要があるんだけど、いちいち巻いていると時間がかかるからね」

「グローブを填めたら、この帯を巻くんですか?」

「そうだよ。最初はアタシがやってあげるから、両手にグローブをはめて」

「はい」


 志光が手に指ぬきグローブを填めると、赤毛の女性は慣れた手つきでグローブの上から手首と手に帯を巻き付け、最後にマジックテープで止めた。


 帯が巻き付いた部分は、確かに固定された感じがする。


 少年は両手を眺めながら感嘆の声を上げる。


「この上からボクシンググローブを填めるんですか?」

「そうだよ。その前に、まず簡単に格闘技の説明をするよ」

「はい」

「アタシが今からキミに教えるのはボクシングだ。両手で上半身の前側のみを打ち合って、相手をKOするか、判定で勝つという方法で勝敗を決める格闘技だよ」

「はい」

「ただ、どの格闘技でもそうだけど、遠距離からの銃撃にはかなわない。接近戦でも武器を持っている相手には不利だ。だから、現代の兵士は遠距離戦のために銃器、接近戦では主に銃剣やナイフの使い方をきっちり訓練させられるけれども、素手での戦い方に関しては最低限で済ませるのが通例だ。魔界日本の戦闘訓練も同じで、銃の撃ち方と銃剣道はやるが、素手で戦う技術は覚え易いものに限っている」

「まあ、どんなに素手で強くても、遠くから銃で撃たれたらどうしようもないですもんね」

「そういうことだよ。それに、格闘技では選手の体重差が決定的だ。プロの格闘家や兵士でも、三十キロ以上の体重差は克服できないとされる。たとえば、キミの相手が百キロ近い格闘家なら、キミに勝てるチャンスはまず無い。だから、ほとんどの格闘技では近い体重の者同士が戦う決まりになっている。いわゆる体重制だね」

「でも、僕はその勝ち目のない相手と戦わなければいけないんですよね? プロレスラーと僕じゃ、余裕で三十キロ以上の体重差がありそうなんですが」

「常識的に考えればその通りだね」

「じゃあ、ボクシングをやる意味があるんですか?」

「あるよ。キミのスペシャルは何だった?」

「手で触れた物体を加速させることですね」

「そのスペシャルを生かすために、ボクシングの技術は必要? それとも無用?」

「必要です」

「話が合って良かったよ」


 麻衣はそう言いながらバンテージを巻いた少年の手にボクシンググローブを被せてマジックテープで留めた。両手を真っ赤なグローブに覆われた志光は、顔の前で二つの拳を合わせてみる。


 ボクシンググローブは、思っていたよりもずっと固い。こんなもので殴られたら、ただでは済まなさそうだ。


「それで、どんな練習をするんですか?」

「全体会議の時にも言ったけど、普通なら未経験者がボクシングを習ってプロテストを受けるのに一年から一年半はかかる。それを百日に短縮して練習するんだから、簡単なことしか出来ない。具体的には左右のストレートだけを覚えて貰う」

「ストレートって、まっすぐ打つパンチのことですよね?」

「そうだね。練習も通常のものとは変える。常識的に考えるのであれば、初心者には何ラウンドも戦い続けられるように体力作りを優先させるんだが、タイムスケジュール的にそれは無理だ。だから技術を先に教えることにする」

「普通なら、どんなトレーニングをするんですか?」

「一番多いのはランニングだね。後は八百メートル走かな? それで心肺機能を鍛えて、最低でも四ラウンド、一ラウンドが三分だから合計十二分は戦えるようにする」

「時間としては意外と短いんですね」

「後で実際にやらせるけど、今のキミじゃ一ラウンドどころか二分も保たないと思うよ」

「……そんなに激しいんですか?」

「当然だよ。ただ、キミはプロボクサーになる訳ではないし、世界チャンピオンを目指す訳でもない。だから、最終的に五分ぐらい続けて戦える心肺機能になれば十分だと思う」

「まだ分からないですけど、頑張ります」

「さあ、始めるよ。まずは構え方からだ。鏡の前に立って。次に足を肩幅に開いて」

 パンチングミットを手に填めた麻衣は、顎で鏡の前を指し示した。志光はその場所に移動すると、両脚を肩幅に開く。

「そういえば、志光君は右利きだよね?」

「はい」

「じゃあ、ボクシングのスタイルとしてはオーソドックス、つまり左足が前になる。だから右足を半歩ぐらい下げて」

「こうですか?」

「それでいいよ。基本的に足の幅はそれ以上広げないのがボクシングの特徴だ。理由は後で説明する」

「はい」

「それと、ボクシングでは戦闘中に足を交互に出して前進したり後退したりしない。左足が前にある構えなら、基本的にずっと左足が前にある状態で前進、後退をする」

「……すぐに覚えられるかどうか不安ですけど、とりあえず分かりました」

「よし。次は胸を大きく張る。両肩が背中側にきて、肩甲骨が背骨にくっつくぐらい派手にやってごらん」

「こうですか?」

「いや、一緒に首をすくめちゃ駄目だ。パンチを出した時に、肩が顎に当たっちゃうよ。肩は下げて」

「こうですか?」

「……そう。それでいい。次は膝を曲げて。角度は十度から二十度ぐらいだ」

「こうですか?」

「いいね。そうしたら両方のかかとを上げて。足の親指のつけ根、母子球という場所に重心をかけるんだ」

「はい」

「そう。それでいい。ボクシングでは常にかかとを上げている訳ではないんだ。相手と打ち合う距離で、その姿勢になる。ずっとその格好だと疲れるからね」

「確かに疲れそうですね」

「でも、最初はこの姿勢を覚えるために、あえてかかとをあげさせることにしている」

「はい」

「じゃあ、次に行こう。ここからが難しいよ。足先と顔を正面に向けたまま、足首から肩まで右側に捻っていくんだ。角度は正面から見て四十五度から六十度ぐらいだ。足先は完全に正面を向いていなくてもいい」

「ホントだ……これ、難しいですね」

「駄目だね。顔も一緒に捻って斜めにしない。鏡で見て、両耳が見えるまで正面を向くんだ」

「はい」

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