第百十九回 漢主劉淵は粮米を送って魏陽に輸す

 諫議大夫かんぎたいふ遊光遠ゆうこうえんが進み出て漢主の劉淵りゅうえんに言う。

「三軍にとって糧秣は命と代わりありません。今や太子は孤城に拠って苦戦をつづけ、平陽へいようからの兵糧を日夜待ちわびておられることでしょう。すみやかに策を定めねばなりません」

 諸葛宣于しょかつせんうが懸念を口にした。

「本件は極めて重要ですので、臣が魏縣ぎけんに向かう軍勢に従軍したいと思います。ただ、晋の元帥を務める陸機りくきは智謀の士、必ずや糧道を断つべく軍勢を配しておりましょう。兵糧を送って太子の許にたどりつくだけでも容易ならざる難事です。それゆえ、糧秣を二軍に分けて送り、いずれか一方だけでも太子の許に届くようにせねばなりません。しかし、臣の一身では二軍をともに導くことはできず、軍勢を分けねば陸機に阻まれる危険が強まります。これをどうしたものかと悩んでいるのです」

 それを聞いた姜發きょうはつが進み出る。

「軍勢を分かって糧秣を送らんとお考えであれば、臣は不才なれど一軍に従わせて頂きましょう。必ずや別軍の進退に丞相じょうしょうを煩わせますまい。この議を心にかけられるには及びません」

 安堵と懸念が相半ばした劉淵が言う。

「人の才を占うにはその友を観ればよいという。昔、姜發は張賓ちょうひんと約して兄弟となったと聞く。それだけでも姜發が奇策を胸中に蔵すると知れるというものだ。姜發が従軍するのであれば、糧秣を運ぶにも憂いはあるまい。ただ、誰を先鋒の任にあてたものか」

 その言葉が終わらぬうちに、まだ若い将官が進み出た。誰かと見れば、劉淵の族子の劉曜りゅうようであった。劉淵は退けて言う。

「お前はまだ初陣も経験しておらぬ。この任には戦場に慣れた老練の将が必要なのだ」

「小将は必ずや先陣の任を果たして事を誤りません」

 食い下がったものの、劉淵は許さない。

 そこに一人の将官が進み出る。これもまだ年若く、さいのようにつよい首に鋭利に尖った眉、高い頬骨に口は拳が入るほど大きく、紅の唇と白い歯が見る者に強い印象を与える。

▼「高い頬骨」の原文は「插鬢そうびん」、『明史みんし袁忠徹傳えんちゅうてつでんに次の用例がある。「子は忠徹ちゅうてつ、字は靜思せいし。幼くして父の術(人相見)を傳う。父に從いて燕王えんおうに謁するに、王は北平ほくへいの諸々の文武と宴し、忠徹をして之をさしむ。えらく『都督ととく宋忠そうちゅうの面はほうにして耳は大、身は短にして氣は浮なり。~中略~都督の耿瓛こうかん顴骨かんこつ插鬢なり』と」、これより推測するに、顴骨は頬骨の意、「插」は「差す」「差しはさむ」の意、「びん」は「耳際の毛」の意であるから直訳は「頬骨に耳際の毛を差しはさんでいる」となる。それより「両頬を縁取る鬢より頬骨が出て鬢が頬骨に刺さったように見える」と解し、転じて「頬骨が高い」の意でよいかと思うが、確証はない。

 その将官は進み出ると大言を放った。

「魏縣に兵糧を送るのであれば、臣が前駆を務めねばたとえ百万の軍勢をつけたとしても城下に到ることはできますまい」

 誰かと見れば、先に汲桑とともに二万の軍勢を率いて加勢に駆けつけた上黨じょうとう石勒せきろく(趙勒、石家の養子となり石勒を名乗る)であった。

 その大言を受けて劉淵が言う。

「容貌より察するに糧秣を運ぶ任にも堪えるように思うが、晋の軍勢は歴戦のつわもの揃いの上に、ちんはまだお前の胆略を知らぬ」

「それならば、これより講武場にて武芸を御覧に入れ、技倆が口ほどにもなければ喜んで妄言を吐いた罰を受けましょう」

 それを聞いて不快に思ったのは劉淵ではなく先に願い出た劉曜であった。劉淵が石勒に前駆を許したならば、劉曜の面目は丸つぶれになる。

 石勒の前に立って言う。

「吾が魏縣に向かう先鋒を願い出て、数多の驍将ぎょうしょう宿老しゅくろうでさえその任を奪おうとはしなかった。お前はどのような能によって僭越せんえつにも吾が任を奪おうとするのか。講武場で武芸を比べ、勝った者が前駆を務めることとせよ」

「望みどおり、刀鎗であれ歩射ほしゃ騎射きしゃであれ、技倆を比べてやろう」

 劉曜はいきり立って殿上より駆け下りると叫んだ。

「お前の言うとおり、これまで鍛えた武芸を試合しあってみせようぞ」

「腕比べを懼れるわけではないが、先に主上の許しを得てから試合うとしよう。吾は大晋の大軍が相手であっても怯みはせん。ましてや試合を怖れることなどあろうか」

 石勒もそう言い放つと、講武場に向かおうとする。

 陳元達がそれを止めて叱った。

劉永明りゅうえいめい(劉曜、永明は字)、石世龍せきせいりゅう(石勒、世龍は字)、争いを止めよ。軍の和を破るでない。主上と吾らの評議を待て」

 そう言うと、劉淵に向き直って上奏する。

「両人を大将として糧秣を送るのがよろしいでしょう。いずれかのうち、先に魏縣の城に入ったものを勲功第一とすることといたしましょう」

 劉淵はその言を納れ、両軍の陣容を次のように定めた。


 護粮ごりょう大都督だいととく 石勒せきろく

 護粮ごりょう副軍師ふくぐんし 姜發きょうはつ

 先鋒 汲桑きゅうそう

 副先鋒 姜飛きょうひ

 郷導きょうどう 夔安きあん

 部将 趙鹿ちょうろく張曀僕ちょういつぼくなど十二将

 後詰ごづめ 桃豹とうひょう胡延模こえんぼ郭黒略かくこくりゃく

 軍勢十万、糧秣三十万


 護粮ごりょう左都督さととく 劉曜りゅうよう

 護粮ごりょう正軍師せいぐんし 諸葛宣于しょかつせんう

 せい先鋒 関心かんしん

 副先鋒 孔萇こうちょう

 郷導 曹嶷そうぎょく

 部将 廖翀りょうちゅう喬旿きょうご

 後詰 馬寧ばねい支雄しゆう刁膺ちょうよう喬晞きょうき

 軍勢十万、糧秣三十万


石勒は右路より、劉曜は左路よりそれぞれ魏縣を目指すことと定められた。

▼この場合、平陽より東にあるぎょうを向いて考えるため、右路は南路、左路は北路と考えられる。南路は平陽から長子ちょうし屯留とんりゅうを経て濁漳水だくしょうすいに沿って鄴に到り、北路は平陽から井陘関せいけいかんを抜け、南西に下って鄴に到る経路が想定される。以降の記述はこの想定に基づく。


 ※


 その日のうちに平陽より密書を持った間諜が魏縣に遣わされたものの、その間諜は晋軍にとりことされて密書を奪われることとなった。

 密書を読んだ成都王せいとおう司馬穎しばえいが諸将を集めた軍議の席で言う。

「哨戒の者が漢賊の間諜を捕らえて密書を手に入れた。それによれば、三十万の軍勢を二路に分けてこの魏縣に糧秣を届けようとしているらしい。城内の張賓は守城を善くして付け入る隙を与えず、連日攻めてまだ落城の気配もない。却って兵馬を損なうばかりだ。これで糧秣を補給されれば、いよいよ落とすのが難しくなろう。諸王侯にはこの賊を破る計略はないか。それぞれの存念を申し述べよ」

 長沙王ちょうさおう司馬乂しばがいが進み出て言う。

「漢賊を破るには糧道を断たねばなりません。兵糧を入れては勝利など夢のまた夢です。糧秣を運ぶ軍勢を迎え撃ち、城に近づけてはなりません。ここを凌げば城中の兵糧は間もなく底をつき、一鼓の下に擒とすることさえできましょう」

「それならば、誰にその重任を委ねるべきであろうか」

 成都王の言葉を受け、并州へいしゅう刺史の劉琨りゅうこんが進み出て言う。

「臣の麾下に姫澹きたん劉希りゅうきという部将がおり、万夫不当の勇があります。先に、臣の任地に蔡雄さいゆうなる群盗が十万以上の徒党を率いて冀州きしゅうと并州を横行し、誰もが畏れておりました。臣が二人に五千の軍勢を与えて取り締まりを命じると、ついに首魁しゅかいの蔡雄と幹部数十人を誅殺ちゅうさつして残党を投降させました。これより二人の威名は北の果てまでとどろいたのです。漢賊を防ぎ止める者はこの二人をいてありません。一軍を与えて険要の地に拠って待ち受ければ、敵が廉頗れんぱ李牧りぼく驍勇ぎょうゆうを誇ろうとも、城下にたどりつけますまい」

 成都王はその言を納れて二人を召し寄せ、賞を与えると漢の援兵を防ぐ任を命じた。東海王とうかいおう司馬越しばえつが言う。

「賊の密書によれば軍勢を二つに分けて魏縣を目指しているとのことです。もう一軍を出さねばなりません。誰を遣わすのがよろしいでしょうか」

 その時、荊州けいしゅう刺史の劉弘りゅうこうが進み出て言う。

「臣の麾下にある皮初ひしょ弓欽きゅうきん丁乾ていけんの三名は驍勇にして軍功を重ね、その名を荊襄けいじょうの地で知られております。これらの者たちを畏れて蜀の李雄りゆうも東に出ては参りません。要害の地を占めれば漢賊の死命を制するに足りましょう」

 盧志ろしが成都王に言う。

劉荊州りゅうけいしゅう(劉弘、荊州は官名)の推薦に従われるのがよろしいでしょう。大将に人を得るだけでなく、地の利を得ねばなりません。臣の観るところ、魏縣に通じる要地は沙麓山さろくざん霊昌河れいしょうかに過ぎる地はございません。并州の二将は陸戦に長けておりますゆえ、北に向かって沙麓山を固めるのがよろしいでしょう。荊州の三将は水戦に熟れておりますゆえ、西に向かって霊昌河の防備を固めるのが適当です」

▼「沙麓山」は「沙鹿山」とも書かれ、鄴の東に位置する。西から来る劉曜を晋兵がここで待ち受けたとは考えにくい。前段に述べるとおり、劉曜は井陘関を抜けて北西から下ったとすれば、沙麓山は鄴の西北にある石鼓山せきこさんあたりに相当すると考えねばならない。以下、鄴の西北にある前提で原文のままとする。

▼「霊昌河」という河は魏郡ぎぐんにない。黄河の白馬津はくばしんの西に延津えんしんまたは延壽津えんじゅしんと呼ばれる渡し場があり、別に霊昌津れいしょうしんとも呼ばれる。しかし、その由来は咸和かんわ三年(三二八)に石勒が黄河を渡ろうとした際、一夜にして河水が氷結したことによる。よって、それより二十年ほど前の永嘉えいか元年(三〇七)時点で霊昌津は存在しない。石勒が平陽から鄴に到るまでに濁漳水を渡る必要があることから、魏郡の西境に濁漳水の渡し場の霊昌津があり、その一帯を霊昌河と呼んだと考えるよりない。

 陸機はその意見に同じて軍令を発した。

「霊昌河の河岸は広い。皮将軍以下三将は三万の軍勢を率いて向かい、河岸に柵塁を設けて敵の侵入に備え、敵が攻め寄せれば弓弩きゅうど射竦いすくめて渡らせるな。沙麓山は登るほどに道は急峻きゅうしゅんかつ狭くなる。姫将軍以下二将は二万の軍勢を率いて山上に軍営を置き、ただ敵の到来を待って要害を守れ。漢賊が現れても出戦してはならん。攻め寄せてくれば軍営を守って戦い、勝っても追撃は禁じる。ただ軍営を守って吾らが魏縣の城を陥れるのを待て。城が陥れば漢賊どもは自ずから去るであろう。その時には軍勢を出して後を襲い、賊を擒とせよ」

 五将は命を受けて幕舎を出たものの、わらって言う。

「元帥の怯懦は甚だしい。敵に勝っても追撃するなとは何事か。それでは軍勢の士気など上がらぬわ。元帥の指示に違えても奇功を顕して吾らの手際を見せてくれよう」

 口々にそう言い合うと、自らの軍営に還っていったことであった。

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