第百十回 晋の王侯は先鋒を択ぶ

 かねて約した期日には十四路の諸侯の軍勢がぎょうに揃い、それぞれ謁見のために元帥府に向かう。出迎えは成都王せいとおう司馬穎しばえい)の命により盧志ろし和演わえん、それに荊州けいしゅう刺史の劉弘りゅうこうとその部将の皮初ひしょがあたった。

 儀礼を終えると成都王は陸機りくき、劉弘たちと諸侯の前に立ち、大軍を会して漢賊の平定にあたる宣言をおこない、諸侯は神妙に承った。ついで成都王は宴席を設けて衆人を労う。

 日が暮れるとそれぞれ官職により定められた軍営に戻って休み、夜が明けると七人の親王も鄴に入った。成都王は石超せきちょう公師藩こうしはん牽秀けんしゅう、和演、陳昭ちんしょう陳眕ちんしん蔡克さいこくの七将を先導に遣わし、親王たちを元帥府に招じ入れる。

 諸親王と諸侯は官位に従って席次を定め、儀礼を終えると陸機が諸侯とともに諸親王に拝礼する。

 二十一路の軍勢からは張方ちょうほうをはじめとする将帥二十一人、李含りがん游暢ゆうちょうをはじめとする長史ちょうし、参謀二十一人、さらに成都王の長史の盧志と石超をはじめとする十人の部将が参じて末席にあった。

 鄴に軍勢を会する親王は次のような顔ぶれであった。


 長沙王ちょうさおう司馬乂しばがい、字は志度しど武帝ぶてい司馬炎しばえんの第六子

 参軍さんぐん劉佑りゅうゆう董拱とうきょう逮苞たいほう馮崇ふうすう、部将は上官己じょうかんき皇甫商こうほしょう宋洪そうこう王瑚おうこ

 軍勢六万、糧秣五十万


 河間王かかんおう司馬顒しばぎょう、字は文載ぶんさい宣帝せんてい司馬懿しばいの弟の司馬孚しばふの子

 本人は長安に留まり嗣子の司馬暉しばきが張方、李含とともに代理を務める

 軍勢八万、糧秣四十万


 東海王とうかいおう司馬越しばえつ、字は元超げんちょう、武帝の第八子

 部将は王秉おうへい宋冑そうちゅう何倫かりん施融しゆう劉洽りゅうこう

 軍勢四万、糧秣三十万

 

 瑯琊王ろうやおう司馬睿しばえい、字は景文けいぶん司馬伷しばちゅうの孫、司馬覲しばきんの子

 司馬、参軍は王導おうどう祖約そやく、大将は段雄だんゆう太史賓たいしひん龔同きょうどう計明けいめい伏尚ふくしょう潘仁はんじん史恭しきょう

 軍勢四万、糧秣四十万


 南陽王なんようおう司馬模しばぼ、字は元範げんはん、武帝の第二子である秦王しんおう司馬柬しばかんの子

 部将は卞勝べんしょう夏勇かゆう席盛せきせい岑紳しんしん齊成せいせい馬進ばしん

 軍勢二万、糧秣十万


 范陽王はんようおう司馬彪しばひょう、字は世雄せいゆう、宣帝司馬懿の庶子である司馬京しばけいの子

 部将は王曠おうこう劉璵りゅうよ石正せきせい周侲しゅうしん文璧ぶんへき

 軍勢二万、糧秣八万


 新野王しんやおう司馬歆しばきん、字は叔静しゅくせい、宣帝司馬懿の族弟の子

 部将は徐魯じょろ虞袞ぐこん陳隆ちんりゅう周鎮しゅうちん魴欽ほうきん楊威ようい

 軍勢三万


 これらに加え、成都王自らは九人の将官に十万の軍勢を伴っている。齊王の司馬冏しばけいは別に董艾とうがい王義おうぎたちに五万の軍勢を与えて兵站の任を命じ、成都王の下知に従うよう申し伝えていた。


 ※


 一堂に会した諸親王と諸侯を前に成都王が言う。

「各地の軍勢が到着したにも関わらず、五路の夷族ども、蒲洪ほこう姚弋仲ようよくちゅう慕容隗ぼようかい拓跋猗盧たくばついろ段務勿塵だんむふつじんの軍勢が着いておらん。すみやかに文書を発して催促すべきであろう」

 南中郎将なんちゅうろうしょう祖逖そてきが進言する。

▼「南中郎将」は征討にあずかる官であったが後漢末には形骸化したらしい。『後漢書ごかんじょ百官志ひゃっかんしの注によると「漢末には四中郎將よんちゅうろうしょう有り、皆な師をひきいて征伐するも、いずくの時に置かれるかを知らず。董卓とうたく東中郎將とうちゅうろうしょうと為り、盧植ろしょく北中郎將ほくちゅうろうしょうと為り、獻帝けんてい曹植そうしょくを以て南中郎將と為す」とある。なお、曹植が建安けんあん年間に南中郎将に任じられたことは、『宋書そうしょ』百官志に「南中郎將、漢獻帝の建安中に臨淄侯りんしこう曹植を以て之に居らしむ」という記述がある。

「彼らに参集の意志があれば、すでに到着しておりましょう。おそらくは遠境にあることを恃み、遅参したところで罪を問われるまいと侮って参集しないつもりでしょう。そもそも、夷狄いてきは羊犬と同様に扱い、恩恵を与えて辺境を侵略せぬように防ぐだけでよいのです。彼らを駆り立てて用をなそうとしてはなりません。濫りに追い使えば辺境に叛乱を引き起こし、不測の事態を招きかねません。最悪の事態を想定すれば、戦場で胡漢に与して鋒をさかしまにせぬとも限らぬのです。ゆえに、彼らが参集せぬのであれば、それはそれとして捨て置くのがよいのです。古より、『将の任は謀にあって勇になく、兵は精鋭をたっとんで多勢を必ずしも求めない』と申します。今や大晋の軍勢は百万にもなろうとしており、胡漢を平らげるに足ります。懸念すべきは初めて会する軍勢が同心せず、戦場で賊徒につけこまれることです。それでは大事を成し遂げられません。昔、王莽おうもうは多勢を恃んで軍紀を疎かにし、光武帝こうぶてい麾下の呉漢ごかんの精鋭に一陣を襲われて救う者なく、ついに全軍の敗戦に及んだ例があります。ゆえに、大王におかれてはこのことを慮り、一人の盟主を立てて全軍の指麾を明かにし、軍勢を前軍と後軍に分かって先鋒の将を定めれば、自ずから軍は紀律を以って進退いたしましょう」

 祖逖の言を聞いて成都王は言う。

「卿の言を肝に銘じよう。まずは盟主を定めねばならん。長沙王の勇は三軍に冠たり、その才は盟主たるに足る。まさに盟主に推して全軍の指麾を委ね、も一軍の将として従おうと思うが、いかがだろうか」

 長沙王ちょうさおう司馬乂しばがいが言う。

「そうではありません。古より『事の大小に関わらず、練達した者を尊重するのがよい』と申します。成都王の智謀は深遠にして見識は広く、その才は衆人を統べるに堪え、先には逆徒の司馬倫しばりん誅殺ちゅうさつし、またこの度の漢賊の討伐もすべて王の意によります。吾らはその万分の一にも及ばず、ゆめにも盟主になろうとは願いますまい。成都王をいて盟主に足る人はございません」

 成都王は再三にわたって謙退したものの、諸侯は等しく盟主の座を勧めて言う。

「齊王は洛陽にあって朝政を輔けておられ、王を措いて盟主の任に足る者はございません」

 長沙王は殿上に盟主の座を置き、諸侯とともに成都王をその席に着かせた。成都王はついに盟主の任を受けて言う。

「諸親王と諸侯の推挙を受けては固辞もできず、盟主の任にあたらせて頂く。諸王侯は謹んで各々の任に勤めてねたむ心を捨て、同心協力して国家のために功を立てよ。強弱や親疎にこだわって為すべきことを怠ってはならぬ。軍功を挙げれば賞を行い、過失があれば軍法によって裁いて賞罰を明白にせよ」

 諸王侯は一人残らず応諾した。


 ※


 成都王は諸王侯を順に席に着かせ、そのまま軍議の場とした。

「朝廷はすでに陸士衡りくしこう(陸機、士衡は字)を惣兵そうへい元帥げんすいに任じられている。これより講武場にて諸軍の兵器や練度を調べ、それぞれの任を命じることとしよう」

 盧志がそれを阻んで言う。

「軽率に事をなしてはなりません。今や天下の軍勢はこの鄴に会しており、元帥の着任にもしかるべき儀礼が必要です。そもそも元帥とは諸軍の服するところであり、儀礼を盛大におこなわねば元帥が尊い存在であると諸軍に知らしめられません。昔、燕の樂毅がくき、漢の韓信かんしんが将軍を拝命した際のように、壇を築いて座を設け、大王が自ら印綬いんじゅと剣を授ける礼をおこなってこそ、元帥はその任の重さを感じて尽力し、諸々の将兵も元帥の威を畏れて命に従うのです」

 成都王は盧志の言をれて鄴の城内に壇を築かせると、吉日を択んで陸機を召し出した。

 陸機は軍勢が並ぶ中で壇に上り、成都王は裁可の権限を示す印綬と軍法の所在を示す剣を奉じて元帥の任命を進めようとする。

 壇上の陸機が言う。

「臣は江東こうとう僻遠へきえんに生まれた非才の身、学問は浅く才は凡庸に過ぎません。諸王侯の麾下にあって軍務に就いても任を果たせるかと懼れる者です。まして、天下百万の軍勢を統率する元帥の任など受けられません。この任は三略さんりゃく六韜りくとうの大略に通じて軍機をそらんじ、文武の才を兼ねた者でなくては果たせません」

▼「三略」「六韜」はともに兵書、『三略』は劉邦りゅうほうの軍師を務めた張良ちょうりょうに兵学を授けた黄石公こうせきこうの著と伝わり、『六韜』は周の武王をたすけた呂尚りょしょう太公望たいこうぼう)の著とされる。

 成都王が言う。

「今や天下は乱れて胡賊は横暴をおこない、万民は塗炭の苦しみに喘いでいる。大丈夫たるものは時世を救う一念を持ち、才ある身は徒に謙遜して能を隠すようであってはならぬ」

 傍らの諸王侯も同じて言う。

「元帥は洛陽らくようにてすでに帝命を受けており、ここで任を辞することなど許されません」

 陸機はそれでも再拝して謙譲し、ついに盧志たちが扶けて壇上の台に上がらせ、成都王は印剣を奉げ持つ。陸機がひざまずいて印剣を受けると、成都王は全軍に向かって宣言する。

「朝廷は民が胡族の横暴に晒されていることを痛ましく思われ、特に征西せいせい破漢はかん大元帥を拝して天下の軍勢を統率させるべく勅命により剣と印章を賜った。万一、元帥の命に従わぬ将士があれば、すみやかに誅戮せよ」

 成都王が壇を下りると、代わって陸機が壇に上がる。諸将を前列に召集して命じた。

「吾が晋帝は漢賊の横暴を怒られ、成都王を拝して摠兵そうへい大都督だいととくに任じ、吾に點兵てんぺい元帥の職を授けられた。明日、諸将は日ごろより磨き上げた武芸をこの講武場で披露せよ。辰の刻(午前八時)に出陣時と同じく戎装じゅうそうを固めて兵器を整え、講武場に参集することを命じる」

 諸将はその命に応諾し、陸機は壇を下りた。


 ※


 翌日、陸機は早朝から成都王の軍営に入り、成都王に謁見して言う。

「本日は諸王侯にも壇上に上がって頂き、全軍の先鋒を定めねばなりません」

「軍勢を集めることは難しくない。適した将に任じることが難しいのだ。関中かんちゅうの張方は驍勇にして容貌ようぼう魁偉かいい、敵に畏れられるであろう。彼を先鋒に任じるのがよいかと思うが、元帥はどのように思われるか」

「将たるものはみな武芸に練達しており、にわかに優劣を決しがたいものです。そのため、講武場には百四十斤(約83.5kg)の銅標どうひょうを立て、五百疋の力で引く硬弓を用意させました。諸将のうちで硬弓を執って百五十歩の距離から銅標を射中いあてた者を先鋒に任じることとします」

 成都王はそれを聞いて頷いた。

 辰の刻を前に砲声と金鼓の音が響く中、諸将が続々と講武場に参集してきた。諸将が揃うと諸王侯は壇上に上がり、順に席に着いて講武場を見下ろす。

 陸機は最前列に坐し、その左には軍政司ぐんせいし、右には紀功きこう主簿しゅぼ佇立ちょりつする。元帥の所在を示す帥字の軍旗が翻る下、先鋒に任じられた者に授けられる錦の軍袍ぐんほう、金の甲冑、印璽いんじが掛けられた。

▼「軍政司」は軍令を記録する官、「紀功主簿」は軍功を記録する官と考えるのがよい。

 居並ぶ諸将に陸機が言う。

それがしは一介の書生、身を成都王に寄せていたところを諸王侯に誤って挙げられ、掌軍しょうぐん元帥の職を授けられたに過ぎぬ。この身が大任に堪えぬのではないかと深く畏れている。幸い、諸君がその忠義により命に赴いて協力し、上は君恩に報じて下は万民を安んじようと思うのであれば、吾が命令に従え。もし軍令に服さぬ者があれば、即座に軍法によって処する」

▼「掌軍元帥」は前段では「點兵元帥」となっており、別に「惣兵元帥」という語も用いられている。用語に異同があるが、大意は同じであるためそのままとした。

「必ずや軍令に従います」

「軍事はただ紀律の遵守にある。これより軍勢を進めるに先立ち、驍将ぎょうしょうを択んで破敵はてき先鋒せんぽうに任じる。候補者は推挙によって択び、自薦は受け付けない。この講武場にてそれぞれの武芸を披露し、高札こうさつに定めた基準に適う者にはここにある軍袍、印章、甲冑を授けて先鋒に任じる。あくまで国事のためであり、我によって功を争うな」

 諸将は高札に従い、馬を引いて進み出た。


 ※


 陸機が軍政の官吏に命じて合図の鼓を打たせると、第一隊の中から一将が飛び出してきた。

 熊の如き巨躯きょくながら虎のように引き締まり、黒いまぶたこわい鬚の部将は、長沙王ちょうさおう司馬乂しばがい)麾下の王瑚おうこ、字は汝器じょきであった。

 方天ほうてん画戟がげきを手に講武場を一周して演武すると、硬弓を執って二本の矢を銅標に射中て、三本目だけが銅標から一丈(約3.1m)ばかりのところに落ちた。それから弓を置いて銅標を抜き去ると肩に担って場中を一周する。銅標を元の場所に突き刺すと大音声に叫んだ。

「先鋒の印は吾がいただく」

 その言葉が終わらぬうちに第八隊から一将が駆け出す。身の丈八尺(248.8cm)の大兵たいひょう肥満ひまん、太い眉に白い面、長鎗を手に叫んで言う。

「銅標を担いだところで先鋒など務まるものか。吾の演武が終わるのを待っておれ」

 馬上に鎗を振るって場中を一周すると、硬弓を執って三矢のすべてを銅標に射中てる。さらに銅標を抜き取ると、両手で持ち上げたまま場中を一周した。

 銅標を担ぎ上げたままに叫ぶ。

「先鋒に相応しいのは吾を措いて他にない」

 見れば、それは荊州刺史の劉弘麾下の皮初ひしょであった。

 そこに第三隊の軍旗の下からまた一将が飛び出した。黒々とした面に釣りあがった眉と車輪のように丸い両目、東海王とうかいおう司馬越しばえつ)麾下の何倫かりん、字は孟常もうじょうである。割れ鐘のような大音声で叫ぶ。

「先鋒の印はまだ置いておけ」

 壇前に突き進んで宣花矛せんかぼうを雪片のように舞わせると、硬弓を執って四矢すべてを銅標に射中てる。同じく銅標を抜き放って両手で持ち上げて場内を一周した。

▼「宣花矛」は不詳、宣花斧せんかふは両側に大小違いの刃が付いた斧を指すため、それに類するものと考えるのがよい。

 東海王が悦んで言う。

「先鋒は何倫に決まった」

 そこに成都王せいとおう司馬穎しばえい)麾下の首将である石超せきちょうが馬を躍らせて飛び出した。

「吾が先鋒の印を掛けるのを見ておれ」

 大刀を車輪のように回すと一転して飛鎚ひついを五十余歩先まで飛ばし、さらに難なく手元に収め取った。ついで硬弓を取って五矢ことごとく銅標を射中てる。

▼「飛鎚」は通常小ぶりのつちで敵に投擲する兵器を指すが、ここでは手元に回収していることから、鎖がついた分銅鎖ふんどうさのようなものと考えるのがよい。

 成都王も悦んで言う。

「先鋒は石超とほぼ決まったか」

 河間王かかんおう司馬顒しばぎょう)の名代を務める嗣子の司馬暉が言う。

「まだ吾が将帥が演武を終えていません。それを待ってもっとも優れた者を択ぶべきです」

「元帥よ、納得したなら先鋒の印を吾に与えよ」

 石超はそう叫ぶと、銅標を左右に二度ずつ打ち下ろすようにした。それを見た軍士たちも大喜びで叫び足を踏み鳴らす。講武場はまるで地震のように揺れた。

 陸機は成都王の意を迎えて印璽を取り、石超を先鋒に任命しようとした。その時、第十二隊から一将が駆け出て壇前に踊り出る。

「この程度では奇となすに足りん。先鋒の印を与えよなどとよく言えたものだ」

 一将は徒歩で講武場に立つところ、軍士は二頭の馬の尻を鞭打って追い放つ。抜き身の大刀を振るいながら、一丈ほども離れたところから奔馬に飛び乗った。

 それでも刀を振るう手元に狂いはなく、いつの間にやら刀を一丈八尺の蛇矛だぼうに持ち替えている。

 場内を一周すると、もう一頭の馬に乗り換え、すでに手は蛇矛から大鎚だいついに持ち替えている。大鎚を舞わせた後、おもむろに硬弓を執ると、六矢を発してすべて銅標に射中てる。

 軍士たちは歓呼して口々に叫ぶ。

「この将軍は神業だ」

「この将軍こそ先鋒に相応しい」

 演武を終えて壇下に立つ将を見れば、劉琨麾下の姫澹であった。

 軍士の歓呼が終わらぬ中、第九隊から北宮純が斧を手に飛び出す。

「武芸は将家の習い、奇とするにあたらぬ」

 硬弓を執ると三矢を放って銅標を射中て、さらに背面から三矢を放って同様にする。銅標を抜いてゆっくりと輪を描くように一周回すと、元の場所に突き立てて言う。

「盟主、元帥はこの硬弓と銅標で先鋒を定めようとされている。諸王侯は吾に先鋒の印を与えるのが当然であろう」

 その言葉が終わる前に、廣州の呉寄、滎陽の郭黙、范陽の王曠たちが一斉に演武場に飛び出し、これまでの演武に勝るとも劣らぬ武芸を披露する。

 これらの将の中でも抜群の武芸を見せたのが、河間王麾下の張方と王浚麾下の祁弘、字は子猷しゆうであったことは、成都王、陸機、諸王侯など衆目の一致するところであった。

 そこに斥候が報告する。

「漢賊は漳水しょうすいの東岸、銅雀どうじゃくの旧台に軍営を置き、水を挟んで吾らを防ぐつもりのようです」

「狡猾な賊徒どもめ、見下しているつもりか。孤が自ら天下の軍勢を会したと知りながら、逃げもせずに漳水に拠って争うつもりとは。すぐさま軍営を踏み破って魏郡ぎぐんから叩き出してやろう」

 報告を聞いた成都王は怒りを籠めて言ったことであった。

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