八章 蜀漢再興

第六十七回 劉淵は左國城に漢を継ぐ

 劉聰りゅうそう胡延攸こえんゆうとともに洛陽らくようから逃れることを得て、齊王せいおう司馬冏しばけい)の追手を警戒しつつ夜を徹して道を急ぎ、ほどなく左國城さこくじょうに行き着いた。

 父の劉淵りゅうえんに謁見すると喜びはひとかたならず、宴飲を開いて労い、諸将との会話は晋朝の政情に及んだ。

「晋主は昏愚こんぐ凡庸ぼんよう、諸親王は互いに殺しあっており、洛陽の府庫は空しく兵卒は疲弊しております。一人の勇将に一万の軍勢があれば、河南かなんの地を横行できましょう」

 劉聰が言うと、諸葛宣于しょかつせんうが反論する。

「洛陽の府庫が空しかろうと藩鎮の諸王は隠然たる勢力を保っており、にわかに河南までは出兵できません。吾らがいる西から順に地を奪っていくのがよろしいでしょう。いまだ晋国に国運を揺るがす変事はなく、危亡の際を窺うのであれば今しばらく時をお待ちになるべきです」

 劉聰はさらに言い募る。

「晋国の変事は甚だしいものがあり、軍師がご存知ないだけです。洛陽の宮中では真夜中より世を徹して鬼がき、金墉城きんようじょうからは断末魔の悲鳴が夜明けまで聞こえてきます。黄河の水はれて河底が現れ、夜になると銅の駱駝らくだ像が走り出す有様、太白星たいはくせいは昼間に中天に現れ、中台星ちゅうだいせいは巡って南極の分野に出ています。それ以外にも大小の怪異が数え切れません。いずれも晋が滅ぶ前兆です。父王は方数千里の地に雄兵二十万を擁され、さらに各地の古老や文武の士人はみな漢の世を懐かしんでおります。彼らと力を合わせれば、どのような大事も成らぬことはございますまい。仇に報いて業を復する機はまさにこの時にあります。さらに時機を待つなどということは許されません」

 劉聰の熱弁を受け、張賓ちょうひん、諸葛宣于、胡延晏こえんあん王彌おうびたちの心も挙兵に傾いた。

「そこまで仰るのであれば、急ぎ挙兵いたしましょう。しかし、挙兵に先立って漢の国号を建てて名分を明かにし、号令を天下に伝えねばなりません」

 一人として反対する者はなく、張賓は奥に入って劉淵に諸将の意見を報告する。

孟孫もうそん(張賓、孟孫は字)の言は吾を愛する故ではあるが、中国の地に半歩も入らずして妄りに尊号を唱えては、世人の物笑いの種になるだけであろう」

「晋国は大いに乱れ、怪妖変異が頻発しております。また、蜀では李特りとくが叛乱を起こし、諸親王は互いに殺し合い、天下の人々は大いに憂えております。この時にあたって漢の国号を建てなければ、人心の帰するところがございません」

「事をいてはならぬ。昔、周の文王は天下の三分の二を有しながらも殷に臣事し、世人はその徳を讃えた。吾は漢の末裔ではあってもわずかな胡地を保つに過ぎぬ。正統の王朝が胡地に都を建てた例などあるまい」

 胡延晏が進み出て言う。

「往時とは世が異なり、王業と覇業はそれぞれ進む道が異なるものです」

 劉淵を説得するに至らぬうち、劉理りゅうりの子の旧の西平王せいへいおう劉義りゅうぎという者が、関氏の兄弟、関山かんざん関河かんかとともに劉淵の許に身を寄せた。

▼劉理の子に劉義の名は伝わらない。

 劉淵は大いに喜んで問う。

「ここまでどのようにして来たのか」

「吾が関山、関河を捜していたところ、『関氏の者たちは上邽じょうけいより難を逃れて梓橦しどう李豊りほうの許に身を寄せている』という者があり、彼らを訪ねて梓橦に向かいました。しばらくはそこに身を寄せておりましたが、大王が左國城にあると知って尋ねて参りました。近頃、李特が叛乱して梓橦に拠り、趙廞ちょうきんは自立して成都せいとに拠っているため、蜀の地も乱れております。吾が祖父(劉備りゅうび)の不孝より今に至るまで五十年が過ぎ、流れるように月日が過ぎて功業を恢復できず、このような有様では生きておっても仕方ありませぬ」

 劉義はそう言うと涙を流して止まない。諸将は進み出て言う。

「皇孫の言は道理です。今まさに漢の国号を建てず、いつ功業を恢復できましょうか」

 劉義とともに左國城に到った関山も言う。

「晋の形勢を見聞するに、諸親王は殺戮を繰り返して賢良の朝士が誅殺ちゅうさつされています。その禍敗する時がまさに至ろうとしているのです。時機を失ってはなりません」

 諸葛宣于も諸将とともに一斉に即位の勧進かんじんをおこなったが、劉淵はなおも辞して受けない。この時、劉聰が左國城に戻ったと聞いた右賢王ゆうけんおう劉宣りゅうせんの訪問があった。


 ※


 劉淵と相見そうけんの礼を終えた後、劉宣は諸将に言う。

「蜀漢が滅んだ後、尺寸しゃくすんの地もない王侯は民草と変わりがない。吾は衰えたとはいえ軍勢は数万を下らぬ。拱手きょうしゅして余人の指図を受け、百年を過ごすことなどできようか。元海げんかい(劉淵、元海は字)の英武は群を抜き、その容貌は先主せんしゅ(劉備)によく似ておる。玄明げんめい(劉聰、玄明は字)もまた天日の如き容貌に龍鳳の姿を備えている。諸将もみな卓越した才と棟梁の器を備えておる。これは天が漢の旧業を復さんと欲している証であろう。今や司馬氏は肉親同士で殺し合って府庫は空しく、遠方に叛乱が起こっても平定できぬ。漢家の功業を恢復すること、この時を逃して何を待つというのか。時機を逃してはならん。吾は吉日を選んで劉元海を立てて君とし、尊号を勧めるつもりだ。異論はあるまいな」

 諸将は一同に慶賀して言う。

「老大王のほかに大王(劉淵)の心を定めて事を決し得る者はございません」

 劉宣は諸将に当日の役を割り当て、壇を築いて台を造り、翌日にはみずから諸将とともに劉淵をたすけて壇に登らせた。劉淵は壇上でも四度にわたって謙退し、劉宣に即位を勧める。

「殿下は後主こうしゅ劉禅りゅうぜん)の正嫡にして漢の正統の血胤、この老胡がどうして大位にけましょう」

 劉宣はそう言って拒み、劉聰も進み出て言う。

「それほど辞退されるのであれば、後主の正統に近い劉義を建てましょう」

▼劉理は劉淵の兄であるため、子の劉義は長幼の序により血統が劉禅と近いことになる。

「吾が父が存命であっても左賢王のように復仇はできますまい。また、北地王ほくちおう劉諶りゅうしん)のように身を殺して節を尽くしたわけでもありません。言わば先主にとっての罪人です。この不肖の甥がみだりに大位に即くことなどできません」

 劉義はそう言って厳しく拒み、ただ劉淵に即位を勧める。

 拒んだところで衆将が許さないと劉淵は思い、ついに壇上で天地を祭って摂漢天王せつかんてんのうの位に即き、年号を元熙げんきと定める。大歳たいざい甲子こうしの年(三○四)のことであった。

 陛上に坐して諸将の礼を受け、詔を下して五部の官属を署して政体を整える。境内に大赦をおこない、皇父の安樂公あんらくこう劉禅を追尊して孝懐こうかい皇帝とし、高帝こうてい劉邦りゅうほう以下三祖五宗の神主しんしゅを立てた。皇后には妻の胡延氏こえんしが冊立された。胡延氏の本姓は魏氏であり、胡延晏の妹にあたる。

▼神主は位牌に相当するものと思えばよい。


 ※


 ついで漢の朝廷に百官が置かれ、主な官職は次のように定められた。

  左丞相さじょうしょう 劉宣(右賢王)

  右丞相ゆうじょうしょう 諸葛宣于

  司徒しと 劉義(劉理の子)

  司空しくう 劉累りゅうるい(故左賢王劉豹の子)

  太尉たいい 劉歓りゅうかん(劉宣の弟)

  侍中じちゅう 劉膺りゅうよう(前部の旧部帥)

  司寇しこう 劉宏りゅうこう(後部の旧部帥)

  左大司馬さだいしば 劉伯根りゅうこん

  右大司馬ゆうだいしば 関防かんぼう

  開国冠軍かいこくかんぐん大将軍 劉霊りゅうれい、王彌

  平難龍譲へいなんりゅうじょう将軍 関謹かんきん張實ちょうじつ

  輔漢ほかん大将軍、護衛ごえい保駕使ほがし 黄臣こうしん胡延晏こえんあん

  車騎しゃき大将軍 趙染ちょうせん胡延攸こえんゆう

  驃騎ひょうき大将軍 楊龍ようりゅう李珪りけい

  驍騎ぎょうき大将軍 張敬ちょうけい廖全りょうぜん

  建威けんい将軍 趙概ちょうがい黄命こうめい王如おうじょ関河かんか

  建武けんぶ将軍 孔萇こうちょう桃豹とうひょう夔安きあん曹嶷そうぎょく

  楊威ようい将軍 支雄しゆう刁膺ちょうよう喬晞きょうき桃虎とうこ

  振武しんぶ将軍 趙藩ちょうはん李瓚りさん樊榮はんえい馬寧ばねい

  振威しんい将軍 胡延顥こえんこう胡文盛こぶんせい

  楊武ようぶ将軍 劉欽りゅうきん王邇おうじ

  護軍都尉ごぐんとい 関山かんざん胡宓こふく楊興寶ようこうほう

  軍師ぐんし謀主ぼうしゅ 張賓ちょうひん

  御史大夫ぎょしたいふ 崔游さいゆう游光遠ゆうこうえん

 また、劉淵の二人の子は、劉聰を皇太子として大将軍、録尚書事ろくしょうしょじに任じて晋王しんおうに封じ、劉和りゅうわには中書事ちゅうしょじを兼ねさせた。

 戦没した齊萬年せいばんねん隴西公ろうせいこう追贈ついぞうされ、廟を建てて祀らせた。その他の羌胡きょうこの諸将も遊撃ゆうげき将軍に任じられ、劉豹りゅうひょう左國城さこくじょうの王に封じられた。

▼史実では劉和が皇太子とされた。

 漢王となった劉淵は百官を定めて太師たいしと丞相の府を置き、大司馬より七位以上の者は上公の禄綬を授けられ、遠遊冠えんゆうかんを戴くこととなった。諸将は十二営に分けられて各営に一万二千の軍勢を配し、左右の司隷校尉しれいこういを置いて二十万の戸口の統治にあたり、内史ないし以下二十余人の官員を置いた。

▼遠遊冠とは、天子や諸王が正装の際に戴く冠を言う。

 さらに吉日を選んで挙兵することと定められた。

は左國城に一紀十二年を過ごし、兵は精鋭、糧秣は満ち足りている。晋朝の諸親王は内に乱れて辺防をなす暇はあるまい。まさに雪辱の軍勢を興して本国に帰還する時が来た。まずは背後にある定襄ていじょうを抜いて南に向かう」

▼『後傳』では「涇陽を目指す」となっているが、山西さんせいからは蒲坂ほはんを抜けて涇陽けいようを通らず長安ちょうあんを衝けるので、涇陽に拘泥する意味はない。以下、南進と言い換えている。

 劉淵が諸将に言うと、張賓がそれにつづく。

「定襄を抜いた後は南に進んで晋陽しんよう平陽へいようを抜くのが上策であろう。晋の不意に出て山西を席捲せっけんするのだ。定襄の晋兵は少なく、軍を進めれば容易く抜くことができよう」

 諸将もその策に同意し、太子となった劉聰、字は玄明を平晋へいしん大元帥だいげんすいに任じ、張賓を謀主として次のような陣容を整えた。

 平晋大元帥 劉聰

 謀主   張賓

 左先鋒  王彌

 右先鋒  劉霊

 折衝将軍 関防、胡延攸

 左軍   趙染、胡延晏

 中軍   黄臣、張實

 右軍   張敬、関謹

 救応使  廖全、楊龍

 後軍   王如、李珪

 粮料使  趙概、胡延顥、樊榮

 護軍   楊興寶

 ついに十五万の漢軍が滔々とうとうと流れる河水のように定襄を目指して進軍を始めた。

 定襄の守将である衛鮮えいせんは漢兵が襲ってくるとは夢にも思わず、防備も整えていなかった。漢軍が州境を越えるのを見るに及んでようやく城の防備を始めたため、守禦は脆い。漢軍が城門を突き開いて攻め込むや、慌てて応戦しようとしたところを王彌の一刀に斬り殺された。その余の兵士たちはことごとく降伏して城を明け渡した。

 劉聰は百姓を安撫した後、左國城に使者を遣わして捷報しょうほうを告げる。諸将も幸先よしと喜び、定襄から軍勢を二つに分けて介休かいきゅう泫氏げんしを目指して攻め進み、太原たいげんを落とした後に蒲子ほしに向かうと方針を定めたことであった。

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