第五十一回 趙王司馬倫は謀りて賈后を廃す

 賈后かごうが晋の皇太子である司馬遹しばいつを罪なくして殺したために天の怒りに触れたのか、それより天変がつづいて太白星たいはくせいが昼間に見え、妖星が東南に現れるなど、凶兆がさまざまにつづいた。

 張華ちょうかの末子の張韙ちょういが深夜に天を仰いで天象てんしょうを観ると、一つの星の光が揺れ動いて今にも落ちそうに見えた。大きさは月と同じほどもある。

「あれは何という星でしょうか」

 問われた張華が答える。

「あれは中台ちゅうだい華蓋星かがいせいだ」

 翌日、同じように空を眺めると、星は見あたらない。張韙は父を諌めて言う。

「天象に異変があるのは世の人をいましめるためと申します。近頃は人事が乱れて母が子を殺すごとき無道がありました。それも世の乱れを告げる予兆ではありますまいか。父君は法をつかさど司空しくうの職におられるといえども、天道の異変を観て人事の誤りをだたせますまい。それならば、職を去って禍から逃れ、清名せいめいを全うして家を保つ方が賢明でありましょう。昨夜に姿を消した華蓋星は地上の三公に応じると聞きます。すみやかに職を去らなければ、おそらくは禍が身に及ぶことになりましょう」

「吾は赤心をもって国家に尽くしているが、賈后が朝に臨んで虐をほしいままにしておる。これを匡そうとすれば、その害は民にまで及ぼう。その上、天道は悠遠にして理は奥深く、天象が示すすべてが地に応じるわけではない。静清にして時を待つよりあるまい」

 張華がそう濁したものの張韙は諌めてやまず、ついに上表して骸骨を乞うた。しかし、晋帝と賈后はそれを許さず、身が老病であれば静養しつつ職務を執るがよいと慰留され、ついにその諌めを容れずに終わった。


 ※


 張華が病を理由に辞職を申し出たため、晋帝は輔佐のために尚書僕射しょうしょぼくや王戎おうじゅう、字は濬沖しゅんちゅうという者を司徒しとに抜擢した。王戎は後に宰相となる王導おうどうの従兄である。

 司徒となった王戎は、朋党や一族を次々に高官に就けていく。手始めに阮咸げんかんの子の阮瞻げんせん、字は仲容ちゅうようという者を中書舎人ちゅうしょしゃじんに、弟の王衍おうえん、字は夷甫いほという者を尚書令しょうしょれいに任じた。さらに、樂廣がくこう、字は彦輔げんほという者を洛陽を含む行政区域の長官である河南尹かなんいんに、胡毋輔之こぼほし、字を國彦こくげんという者を樂安がくあんの太守に、謝鯤しゃこん、字は幼輿ようよという者を側近の司徒しと長史ちょうしに、畢卓ひつたく、字は茂世もせいという者を吏部りぶ侍郎じろうに、それぞれ任用した。他にも、姻戚である阮氏一族の阮籍げんせき阮咸げんかん阮修げんしゅうを任用していく。晋帝は王戎の任用に異を唱えることはない。

 王戎が任用した者たちは、その一族や姻戚であって名門出身、当代に名を知られる者たちである。しかし、彼らは流行している清談にうつつを抜かし、逍遥しょうようして放恣ほうしに振る舞い、酒を飲んでの逸楽を好み、閑談かんだん詩賦しふたしなんで悠々と過ごすことをたっとぶ。勤勉に政務を執る態度を賤しむ類であった。張華や裴頠はいきのように政務にいそしむことは絶えてない。

 司徒に任じられた王戎からして時論を離れて遠略を廻らす能はなく、ただ蓄財にのみ心を傾けて国政を省みなかった。世人は上を見てそれに倣い、誰もが私利を専らとするようになる。

 清談の流行により時俗から離れるのを高尚と見なし、劉伶りゅうれい向秀しょうしゅうの輩は大酒を飲んで常礼をさげすみ、忌憚するところがない。世人は彼らを竹林の七賢と称して虚名をはやし、皇太子が死ぬという異状があってもその事情を追及して責を問う者さえない有様となる。晋の国勢が衰える始まりは、王戎の任用にあった。


 ※


 そのような世情の中、趙王ちょうおう司馬倫しばりんの隷下にある司馬雅しばが士猗しいの二人は、かつて衛督えいとく将軍、殿中の郎将ろうしょうに任じられて東宮とうぐうに仕え、害された皇太子より寵遇された経験があった。その後、趙王に仕えて郝元度かくげんど齊萬年せいばんねんの征討に軍功を挙げ、洛陽に凱旋して次の任用を待っていた。

 二人は皇太子の死を知って旧恩を思い、仇を打つために趙王に献策する。しかし、趙王は決断を下さず、二度と進言しなかった。

「諺にも『将を得るにはまず馬を射よ』と言う。吾らが事を挙げるよう勧めても、趙王は決断されない。ここは信任を得ている孫秀そんしゅうまいないを贈って内より同じく勧めさせれば、趙王も踏み切られるであろう」

 そう相談すると、二人は金珠を携えて孫秀に面会した。事情を聞いた孫秀は言う。

「聖上は賈后の虚言を信じて皇太子を廃し、これを誅された。吾もそのことを知り、及ばぬながらも悔いておる。この件は政事に関わりがある者たちはすべからく憤慨すべきであろう。吾からも事をおこなうよう趙王にお勧めしてみよう」

 司馬雅、士猗と孫秀の三人はさらに話し合って策を定めた。

「賈后は嫉妬に狂ってついに皇太子を殺害しました。これは国家の大罪人です。先に張華と語らって楊太后ようたいごう金墉城きんようじょうに幽閉して殺し、さらに聖上の実弟である楚王そおうに止まらず皇太子をも殺し、臣民の誰もが深く怨んでいるところです。大王が問罪の軍勢を起こして賈后と張華を除かれれば、臣民は喜悦いたしましょう」

 それより、孫秀は趙王に謁見の度にそう言い、ついに趙王も決断して言った。

も日夜そのことを考えているが、諸王の間で異論が出るかと思って決めかねておった。お前の言うところを聞き、逡巡しゅんじゅんしている時ではないと分かった」

 趙王に賈后の誅殺ちゅうさつを勧めるにあたり、孫秀は張華をも誅殺するように勧めた。

 孫秀はかつて趙王とともに雍州ようしゅう羌賊きょうぞくの征討にあたった際、刺史の解系かいけいの上表を受けて張華が孫秀の誅殺を主張したことを恨みに思っており、賈后とともに張華を誅殺して遺恨を晴らそうとしていた。


 ※


 賈后を討つと意を定めた趙王は、許超きょちょう、士猗、張泓ちょうおう殷渾いんこん路始ろし閭和りょわ、司馬雅、駱休らくきゅうをはじめとする将佐を召集し、方策を定めるべく軍議を開く。また、密かに使者を遣わして張衡ちょうこう張林ちょうりんの二人を招いて宴を開き、密盟を約した。

 張林が勧めて言う。

「漢の呂后りょごうが劉氏のを危うくした際、親王の劉肥りゅうひ劉章りゅうしょうたちが周勃しゅうぼつ灌嬰かんえいと協力して呂氏を誅殺したがゆえ、漢の世は永くつづいたのです。齊王せいおう司馬冏しばけい)の鎮所の許昌きょしょうは洛陽に近く、五日あれば到着できる上、その士馬は強盛です。また、淮南王わいなんおう司馬允しばいん)は三軍に冠たる勇者にして一万を超える江淮こうわい勁卒けいそつを率いております。先ごろ入朝して皇太子の死因を明かにせんと図り、賈后は詔をめて入城を許さず鎮所に還らせようとしております。このことで淮南王は心中に不平を感じておりましょう。齊王の入朝を促し、さらに鎮所に還る餞別をおこなうと称して淮南王と通じ、ともに賈后誅殺の大事を謀られるべきです。それならば、諸親王も賈后を畏れることはありますまい」

▼齊王の司馬冏は武帝ぶてい司馬炎しばえんの弟である司馬攸しばゆうの子、晋帝司馬衷の従兄弟にあたる。

▼淮南王の司馬允は武帝司馬炎の子、晋帝司馬衷の弟にあたる。

「誠にそのとおりである。孤が専断したというそしりを避けるにも都合がよい」

 趙王はそう言って張林の進言を納れ、閭和を齊王の許に遣わして入朝を促すとともに、郎中ろうちゅう游顥ゆうこうを遣わして密かに淮南王を城内に迎え入れた。

 趙王自らは賈后に謁見して言う。

「先に齊王と淮南王より書簡があり、『皇太子が罪なくして貶死へんしされた事情を伺い、皇太子とその妃の葬儀をおこないたい』と申しておりました。陛下におかれましては彼らが到着された際、善言でその意を慰めて親親しんしんをお示し下さい」

 賈后は趙王の企てに気づかず、その言葉が事実であると信じた。


 ※


 趙王はこれ以降、洛陽の王府に留まって賈后誅殺の計画を練る。数日のうちに齊王も軍勢を率いて城外に到着し、趙王は使いを出して趙王府に招じ入れ、相見そうけんれいを終えると淮南王も加わり、酒宴を開いた。

 酒が数回行き渡り、互いに歓情を尽くしたところで趙王が言う。

「今や賈后は朝権を玩弄がんろうして朝廷を軽んじ、汝南王じょなんおう司馬亮しばりょう)を誅殺して楊駿ようしゅん衛瓘えいかんを族滅し、さらに楊太后ようたいごうと皇太子を鴆殺ちんさつするに至った。その本意は晋室を傾けるにある。このままでは一族の賈謐かひつ賈模かぼたちも日ならず漢を危うくした呂后の一族の呂禄りょろく呂産りょさんのように振る舞うだろう。二王の英名は世に知らぬ者もない。晋室の危亡を座視するわけにはいくまい」

 それを聞いて齊王と淮南王も言う。

「孤も賈后の所行を見るにつけてそのことを思っておる。しかし、齊国の兵力だけでは事を果たせず、朝権が余人にあってはただ憂えるのみであった」

「今や三王がここにあり、いずれも宗室の重鎮である。賈后を誅殺することも難しくはない。しかし、詔を奉じることなく洛陽城に入れば、賈后が疑心を生じよう。予め備えて謀られることを避けねばなるまい」

 淮南王の懸念に趙王が答える。

「孤が先だって賈后に謁見してすかしておいた。二王が洛陽城に入っても賈后が疑心を生じることはない。明日には、皇孫こうそんを封建して嗣位しいに就けるに備え、あわせて楊太后と皇太子の山陵を定めて葬儀をおこないたい旨の上奏文を呈するよう手配りもしてある」

 張林は齊王到着の報を聞き、殿中侍御でんちゅうぎょし楊珍ようちん左衛督副さえいとくふく李儼りげん右衛督副うえいとくふく蔡璜さいこうとともに密かに趙王府に入って三王に謁見し、張衡、殷渾とともに約を定めて言う。

▼左衛督副、右衛督副は禁軍の左衛と右衛の副官の意と解するのがよいだろう。

「大王におかれては遅滞されませんよう。遅れれば事が洩れることもありましょう」

「諸賢の協力は孤も心強いが、兵権はなお郭彰かくしょうの手にある。朝廷の詔旨もなく兵を挙げて宮城に入れば、禁衛の兵に防がれよう。互いに譲らなければ戦になり、勝敗は分からない。その上、叛乱の汚名を着せられることは本意ではない」

 齊王が懸念すると、趙王が言う。

「それならば、孤が人を張華の許に遣わして詔書を出させよう」

 閭和が趙王に反対して策を述べる。

「張司空は剛烈の人ではありません。この大事を決して主導しないでしょう。明日、趙王が賈后に見え、『東安王とうあんおう司馬繇しばよう)が官職を奪われた遺恨を抱いているところに皇太子の死を聞き、誅殺された楚王の旧臣を集め、仇に報いて遺恨いこんを晴らそうと企てております。東宮の衛士も東安王に協力しているようです』と言えば、賈后は大いに愕いて大王に計を問いましょう。そこで、『軍勢を揃えて東安王を鎮定すると宣し、機を見て齊王の軍勢を呼び寄せて城内の守備に充てれば、鎮圧は容易です』と答えられれば、軍事に暗い賈后は必ず従います。齊王が軍勢を率いて洛陽に入り、入朝して恩を謝する際には、賈后には手足をく場所も残されておりますまい」

 趙王は閭和の策に従い、翌日には入朝して賈后に謁見して策のとおりに談ずる。

 予想とおり大いに愕いた賈后は怒って言う。

「謀叛となれば防備を固めて謀を許さぬのが上策です。王の憂君愛国の意は重々伝わりました。聖上には妾より上奏して東安王の処し方を定めます」

「齊王の司馬冏も忠正の者です。幸い、皇孫の封建ほうけんを請うために洛陽に到着しております。齊王を大司馬に任じて東城の鎮守を委ねるのがよろしいでしょう」

 趙王はそう言うと城外に出て齊王を呼び寄せ、齊王はついに入朝して恩を謝した。


 ※


 司馬雅は趙王の命を受けて張華に面会していた。

「趙王と齊王が小将を遣わした理由は、ともに皇室を輔けて君側くんそくかんを一掃せんがためです。師保しほとして三王に代わって聖上に密詔を乞うて頂きたい。公とて王室への忠誠を失ってはおられますまい」

「今や天下泰平、百官は各々の職を奉じておる。賈后が朝政に関与してはいるものの、賈謐、賈模といった賢明な者に政事を委ねており、聖上をなみする行いがあるわけでもない。皇太子の廃嫡は自ら招いた禍であり、君側に除くべき奸人などおらぬ。お前はなにゆえにそのような妄言を吐くのか。また、汝南王、楚王の死は相争ったが故のこと、皇后が関わった訳ではない。みだりに妄言をなして叛逆の汚名を着ることがないよう、口を慎むがいい」

 張華がそう言って拒むと、司馬雅は怒気を帯びて退く。府門を出てから呟いた。

「刃がその頸に加わる直前になっても、あの老賊は同じ言葉を吐けるのか」

 趙王は司馬雅の報告を聞いて怒り、齊王と約して雲龍門うんりゅうもんを固めて東安王に備えるよう見せかけた。許超、司馬雅、士猗、閭和がその軍勢を率い、その実、賈后の党与が宮内に入れぬようにしたのである。張泓ちょうおう孟平もうへいは淮南王の軍勢を率いて宮内に入った。

 駱休、張林、卞粋べんすい、路始が内応し、詔を矯めて禁衛の司馬に命じる。

「賈后は嫉妬を懐いて賈謐らと謀り、楊太后を害して皇太子を枉殺おうさつした。聖上の密旨を奉じて社稷しゃしょくを安んじるため、淮南王、齊王が宮内に入って賈后を廃することとなった。命令に従う者には爵関内侯しゃくかんだいこうを与え、逆らう者は三族を誅殺する」

 宮内にも皇太子の死に同情して賈后を憎む者は多い。趙王、齊王、淮南王の三王が賈后を廃する兵を挙げたと聞くと、ことごとく門を開いて軍を解散し、三王の軍勢を迎え入れる。淮南王が先頭に立って進み、三軍は鼓声とともにその後から雪崩込んだ。


 ※


 趙王は宮内に賈后の備えがないと見ると、雲龍門を守る許超たちに命じて淮南王の軍勢と合流させた。三王の軍勢が宮城を囲み、門を打ち破って雪崩込んでいく。尚書郎しょうしょろう師景しけいは詔に偽りがあるかと怪しんで三王の兵を拒み、たちどころに斬られた。

 各門に残っていた兵士たちも、師景の死を聞くと持ち場を捨てて逃げ出していく。それより三王の軍に歯向かう者はいなくなった。

 賈后が異変を聞いて禁兵に厳戒を命じたところ、張林、卞粋、蔡璜、李儼たちが軍勢を引き連れて現れ、大呼して言う。

「聖上の密詔を奉じて賈模、賈謐らを捕らえに参った。吾に随って宮に入れ」

 先頭に立つ齊王が宣する。

「賈后はどこにいる。皇太子にどのような罪があって誅殺したのか。お前は貞婦の徳を失って朝廷を汚し、朋党を招き奸佞かんねいの人と結んで吾が晋室を危うくした。それゆえ聖上が密詔を発せられた。お前の罪はすでに満ちて刑戮を免れないところであるが、皇后でもあり結髪けっぱつよしみを思われるがゆえ、罪を減じて庶人となすに止める。速やかに宮城を出て金墉城に入るがよい」

「聖上は妾と日夜起居を伴にしておる。宣旨はみな妾より出ているにも関わらず、この詔はどこから出たのか。この詔は偽りじゃ。みなの者、齊王の言葉に従うでない」

 賈后が言うと、張林と卞粋は哂って応じる。

「それならば、先に衛太傅えいたいふと汝南王を殺し、楊太后を金墉城に幽閉し、皇太子に毒を賜って死を命じたのも、すべて聖上より出たものであったか。この詔を偽りであると言う前に、自らの所行を省みては如何か」

 賈后は一言もなく宮殿の北にある楼閣に逃げ込み、晋帝のいる金鑾殿きんらんでんを臨んで叫んだ。

「萬歳皇帝、お前は一国の主でありながら、一婦の命を保つことさえできず、詔を与えて妾を廃するとは。今日、妾に及んだ禍は日ならずお前にも及ぶことだろう。結髪の情を思い返し、早く来て妾を救え」

 齊王の軍士は賈后を探したものの、どこにも見当たらない。そこに楼閣の上からこの声が聞こえた。齊王と淮南王は張林に楼閣の賈后を捕らえるよう命じたものの、軍士たちも賈后をはばかって楼に上がる者がいない。淮南王は怒り、自ら兵士を率いて楼閣に上がる。軍士が捕らえようと近づくと、賈后は厳しく叱りつける。

「お前は醜い嫉妬から吾が家を破ろうとし、数多の忠臣国戚ちゅうしんこくせきを害した。積み重なった悪行にいまさら多言は要すまい」

 淮南王はそう言って軍士に命じ、ついに賈后を捕らえて車輿しゃよに押し込む。尚書郎の和郁わいくはその身柄を金墉城の旧宮に幽閉し、旧宮を軍勢で固めて出入りを禁じた。


 ※


 趙王、齊王、淮南王は晋帝に請うて正殿せいでん出御しゅつぎょを願い、百官を集めて賈后の十悪を述べ、さらに、賈模、賈午をはじめとする一党を東市に送って刑に処することを議論する。また、張林を遣わして張華、裴頠はいきを捕らえるよう命じた。

 この時、張華は末子の張韙ちょういに対し、先に司馬雅より賈后を廃する企てに加担するよう求められた一件を話していた。

「吾が早く辞職されるようにお勧めしても聞き入れられず、さらに趙王に逆らわれるとは、遠からず禍が降りかかりましょう」

 張韙が言い終わらぬうちに、張林が軍勢を引き連れて現れた。

「司空の肘にこのかせを懸けるために参りました」

「卿はげて忠臣を害そうとするか」

「楊太后が幽閉され、皇太子が廃嫡される際、司空は一言の理も述べず、賈后に阿附あふして位を貪り、その職も名のみあって何ら晋室に裨益ひえきせず、世に益があったと聞くこともない。何をもって忠と言われるのか。諌めて聞き入れられなければ、職を去るのが筋というものであろう」

 張林の言葉に張華は一言もなく縛についた。

 正殿では趙王が殿上で賈后、賈午の兇状を述べてその罪を定めるよう大臣たちに命じていた。戎装じゅうそうした三王の左右に軍士が並んで刀鎗を光らせている。

 その様を見た晋帝は怖れおののいて趙王に言う。

「王らは宗室の至親、朕とは一体である。今や国のために功績を立てて悪逆を除き、法を行おうとしているのであるから、朕の宣旨を請うには及ばぬ」

 この言葉により賈氏とその姻戚である郭氏の一党は捕らえられ、ことごとく斬首されて三族を夷滅された。さらに、張華とその子供二人、孫三人もみな刑戮に遭った。ただ、張韙の長子である張輿ちょうよ、字は公安こうあんという者だけは薬草を採るために蜀に出ており、難を避けられた。

 また、裴頠の三族を滅ぼすことを主張する者もいたが、趙王、孫秀ともに害を受けておらず、罪はその身に止められて二人の子は遠方に配流されることとなった。

 さらに雍州刺史の解系も兄の解結かいけつの罪に連座して死罪となった。このことを知った梁王りょうおう司馬肜しばゆうは赦免を求めたが、趙王は先の雍州の戦で讒言されたと解系を恨んでおり、次のように言って拒んだ。

「解系は遠く雍州にあって直接関与しておらぬとは言え、誅殺せねば解結の死を恨んで謀叛を企てる虞があり、赦すわけにはいかぬ」

 趙王の私怨により解結、解系の兄弟をはじめとする解氏も族滅されたのであった。


 ※


 三王は晋帝に上奏し、楊太后と皇太子の位号を旧に復するとともに、皇太子の子の司馬臧しばぞう臨淮王りんわいおうに、楚王の子の司馬範しばはん襄陽王じょうようおうに、それぞれ封じて祭祀を継がせた。

 趙王は自ら太宰たいさいとなり、都督中外諸軍事ととくちゅうがいしょぐんじの官に就いて一切の兵権を掌握する。許超をはじめとする腹心の将士より十二人が将軍の号を与えられ、その兵権を分掌した。

 齊王は車騎しゃき大将軍、司徒の官に任じられ、淮南王は驃騎ひょうき大将軍、司寇しこうの官に任じられた。孫秀は朝士の人心を収めようと謀り、賈氏を誅した功績を論じ、爵を賜り禄を加えられた者は七百人に至った。

▼司徒は三公の一つで財政や教育を、司寇も同じく三公の一つで治安や刑罰を総覧する。

 趙王は自ら政事にあたり、嫡子の司馬夸しばか尚書僕射しょうしょぼくやに任じ、府の官属には名士を招いて幕下に加えた。王堪おうかん劉模りゅうぼを左右の司馬とし、束皙そくせき記室参軍きしつさんぐんに任じ、荀菘じゅんしょうたち十人を中郎に任じ、陸機りくきたち十人を参軍さんぐんに任じ、蔡璜たち二十人をえん主簿しゅぼに任じ、衙兵がへい一万人を選んで張泓がそれを率いることとなった。

 この時、李重りじゅうを趙王府の長史に任じようとしたが、李重は趙王に不臣ふしんの心があると察して任用を拒んだものの、趙王に威迫されてやむを得ず任に就いた。しかし、一月ほど過ぎると病と称し、食事を断ってついに命を落とした。

 趙王は孫秀の勧めに従い、賈后を誅殺するよう上奏した。晋帝は趙王の意に逆らえず、ついに潘岳はんがくに詔書の起草を命じた。潘岳は断ろうとしたが、孫秀の面に怒りの色が露わであったため、畏れてついに詔書を書き上げる。

 趙王は詔書と鴆酒ちんしゅを腹心の臣に与え、金墉城に遣わして賈后を毒殺させた。

 朝権を握って専権を振るった賈后もついに因果応報の理を逃れられず、自らの身を滅ぼした。朝野の人々は天運の誡めであろうと囁きあったことであった。

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