第四十六回 晋帝司馬衷は張華に質して楚王司馬瑋を殺す

 李肇りちょう公孫宏こうそんこう汝南王じょなんおう司馬亮しばりょう衛瓘えいかんの処刑を終え、後宮にある賈后かごうに報告した。

「二人は死に臨んで何ぞ怨言でもあったか」

 賈后の問いに李肇が答える。

「衛太保は捕らえられる際にも談笑しつつ縛につきました。怨言などはございません。ただ、『死しても恨みはないが、帝と后にお会いして知遇の恩に謝することができなかったことが心残りだ』と申しておりました」

「汝南王はいかがであったか」

 今度は公孫宏が答えた。

「同じく怨言はございませんでした。ただ、『の忠心は天日に明らかである。なぜ無辜むこの者をげて殺そうとするか』とのみ申しておりました。日が西に傾くまで汝南王の処刑を行う者がなく、民には涙を流して身代わりになろうとする者までおりました」

 賈后は黙然と頷くだけであったが、一人になって鬱々と独語した。

「二人の言葉は理に適う。太宰たいさい(汝南王)と太保たいほ(衛瓘)が異謀を企てておったとして、妾の腹心の誰も知らず、楚王そおう司馬暐しばい)ただ一人がそれを聞くなどということがあろうか。借刀殺人しゃくとうさつじんの計略に利用されたに相違ない。あの小人のために無実の二人を殺したことが悔やまれる。二人は黄泉に行ったとはいえ、妾を怨まぬはずもない。楚王めを殺して二人の怨みを雪ぐほかあるまい」

▼借刀殺人の計略は、生殺の権を握る者をそそのかして自らの敵を排除する計略を意味する。この場合、楚王は政敵の汝南王と衛瓘を除くために賈后を利用した。


 ※


 汝南王と衛瓘の死を知った賈模かぼは、さらにその党与に誅殺が及ぶかを探るべく、後宮を訪れた。賈后は憂いに眉をひそめ、欄干に寄りかかって独坐している。

「陛下のご様子を窺うに、面に憂いの色がございます。汝南王と衛瓘を誅殺されたことでお悩みになっているのではございませんか」

 賈模が近づいて問うと、賈后が答える。

「お前の言うとおりよ。聖上を廃して妾を放逐せんと企てておるという楚王の讒言を真に受け、誤って社稷しゃしょくに功がある二人を殺してしまった」

「二公は社稷の功があり、かつて罪過はありません。それゆえ、何ゆえに誅戮ちゅうりくを蒙ったのかと、百官に愕かない者はありません。一方、楚王は功を恃んでいよいよ専断の振舞いが多く、兵戈へいか玩弄がんろうしております。いずれ制し難くなるおそれもありましょう」

 賈模の言を聞いた賈后が後悔の念を深めた折から、朝会を終えた晋帝の司馬衷しばちゅうが後宮に戻った。

「顔色がよくない。中書令ちゅうしょれい(賈模)が何か言ったのか」

 賈后は立ち上がると、汝南王と衛瓘を罪なくして誅戮したあらましを語り、重ねて自らの罪を謝した。晋帝は珍しく怒りを露わにして言う。

「朕もまた二人を哀れみ、榮晦えいかいを遣わして官を免じるに止めさせようとした。それにも関わらず、二人は誅戮されてしもうたか。二人を殺した奸人どもの罪を正さねばならぬ。皇后は楚王を善人と見ていたようだが、朕の見るところ、奸佞を隠して讒言をおこない、ほしいままに悪事をおこなっておる。このような輩は枝葉を蚕食さんしょくし終えれば、ついに幹を枯らしてしまうものだ。汝南王の身に起きた凶事は、朕と后にも降りかかってこよう。汝南王と衛瓘を誅殺した功で楚王が賞を受けるとは、まったく朕の心に叶わぬ」

 賈模が進み出て言う。

「事ここに至っては、すみやかに楚王を防ぐよりございません。凶事が起こった後にほぞを噛んだところで、及びもつきません」

 三人が話すところ、外より賈謐かひつが入って言う。

「楚王の専恣せんしは日増しに酷くなっております。兵権を奪わねば、虎狼のように人を喰らって骨をも残しますまい。このまま永く政事を委ねては賈氏の一族をも滅ぼそうといたしかねません。皇后陛下におかれましては、よくよくお考え下さい」

「妾は楚王のために誤りを犯し、悔いても及ばぬ」

 賈后がそう言うと晋帝は宦官を遣わし、張華ちょうかを召し出して方策を問うた。

「楚王は兵権を握って私党も多く、軽率にしりぞけようとすれば大事に至りかねぬ。公は国の元老、楚王を斥ける良策を見出し得るであろう」

 張華はしばらく思案して言う。

「上古の制度に雛虞幡すうぐはんというものがあります。これは叛臣を捕らえる際に用いられました。有徳の君は諸侯、朝臣と雛虞幡を前に誓約し、はたは武庫に納めて濫りに用いません。大晋の武庫にもこの幡は納められております。雛虞幡を携えた使者が不道の者の名を宣すれば、その者が公卿、将相、外戚であろうとも、朝敵として誅殺されます。先帝が大晋を開基された際、古例に倣って誓約されました。陛下が楚王を拘束されるのであれば、密かに雛虞幡を持たせた使者を楚王の府に遣わし、大事を諮ると偽りの宣旨を下されれば、楚王は疑いなく宮城に入りましょう。その後は、雛虞幡を掲げて楚王が朝敵であると宣言すれば、楚王の兵は逃げ散って一夫の力で捕らえられましょう」

▼雛虞とは虎に似た草食の神獣とされる。雛虞幡はその姿を描いた旗を意味する。

 晋帝と賈后は張華の策を納れ、王宮おうきゅうという者を使者に立てて楚王を召し出した。


 ※


 王府に入った王宮が雛虞幡を立てて入朝を促すと、楚王は疑うこともなく同道して宮城に向かった。

「陛下は体調が優れず、便殿べんでんにて謁見されるとのことです」

▼便殿は公務に使われる正殿の脇にあり、休息や私事に使われる小規模な建物を指す。

 王宮が言うと、楚王は便殿に向かう。殿に入ろうとした矢先、王宮は雛虞幡を高く掲げ、楚王を護衛する兵に言った。

「これより楚王は聖上に謁見される。兵はことごとく退散せよ」

 それを聞いた楚王も兵も、にわかに意味が分からず立ちつくす。

「この雛虞幡を知らぬのか。天子が不臣の者を誅して兇悪を戮する際に掲げる幡である。この幡の命に背けば、大逆不道の罪により三族を滅せられることとなろう」

 王宮がつづけてそう言うと、将士の中に知る者があって叫ぶ。

「あれは諸侯王臣を制する雛虞幡だ。あの幡が掲げられれば、その使者の下知は詔命に等しい。万一にもその命を犯せば累は九族に及ぶぞ」

 それを聞くや、兵はことごとくその場から逃げ散った。楚王は叱って留まらせようとしたが、一人として聞く者がない。王宮に向かって叫ぶ。

が兵を退けるとは、どういうつもりか」

下官げかんは陛下のご命令に従うのみです。大王と聖上は手足のように親しみあっておられます。密議に兵を伴う必要はございますまい」

 楚王は軽率にその言葉を信じて便殿に入った。殿内に帝の姿はなく、不審に思って王宮を顧みる。その時、王宮は護衛を失った楚王に宣言する。

「殿下が朝廷を欺いて太宰(汝南王)と太保(衛瓘)を枉殺おうさつした罪を厳しく正すよう聖上は詔命を発され、殿下の身を廷尉ていいに付するよう臣にお命じになりました。その詔はここにございます」

「王宮、孤は皇弟である。そこを通せ。孤は聖上に謁見して理を申し上げねばならん」

「王はすでに罪を犯され、庶民と変わるところはありません。詔はすでに下り、謁見が許されるはずもありますまい。無辜を殺した罪により自らの身を陥れられたのです」

 楚王は返す言葉もなく、涙を流して刑場がある東市に連行された。


 ※


 東市で斬刑を監していたのは、尚書郎しょうしょろう劉頌りゅうしょうという者であった。楚王は懐中からかつて賈后より下された青紙の詔を取り出して言う。

「汝南王、衛太保の殺害はこの詔を奉じておこなったことなのだ。社稷のためであり、孤が擅におこなったのではない。今になって孤の罪を問われるとは。罪なくして身は殺され、まして誰一人として憐れむ者もないではないか。公よ、孤の処刑をしばらく待ち、孤がために聖上に申し上げてくれ。囚繋しゅうけいの恥のうちに世を終えたくない」

「臣は詔を奉じて法をおこなっております。王の命に従って聖上に申し上げることは、私行となります。さらに、朝廷の者たちは、汝南王と衛太保は罪なくして誅戮された、と申しております。王の処刑に理がないとは言えず、それゆえにこの詔があったのです。臣には王をお救いすることはできません」

 劉頌は峻拒しゅんきょし、楚王は涙を流して言った。

「今や逃れる術もない。賊奴の胡牛児こぎゅうじに誤られた」

 楚王はついに汝南王、衛瓘の後を追って刑場の露と消えた。時に二十一歳であった。

 公孫宏、李肇、盛岐、榮晦たちも等しく屍を東市にさらされ、楚王の私党はことごとく刑戮けいりくを受けた。汝南王は忠順王を追贈され、その跡を司馬秉しばへいが嗣いだ。衛瓘は太尉たいい蘭陵公らんりょうこうを追贈され、子の衛恒えいこうも成侯の爵を贈られ、生き延びた子の衛璪えいそうにその跡を嗣がせたことであった。

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