第三十五回 周處は梁王司馬肜に陥れらる
晋軍の
周處は使者から梁王の言葉を聞き、怒りかつ懼れて副将たちと相談して言った。
「昨日は早朝より兵を出したがため、午の刻(正午)を過ぎた頃には兵馬がともに餓え疲れ、敗戦を喫した。ゆえに、今日は辰の刻(午前八時)より準備に入って巳の刻(午前十時)より兵を出す。これならば兵馬が餓え疲れることなく賊軍を打ち破れよう」
その指示に従って兵たちがゆるゆると食事を整えていると、梁王の使者が軍権の所在を示す
周處は梁王の遣りように怒りを覚えたものの、それを抑えて言う。
「吾が策はすでに定まっておる。大王の意に叶わぬことはあるまい」
そう言うところに、梁王が
「大王がこの軍営にお出でとは、何用でございましょうか」
周處の問いに梁王が答える。
「将軍は昨日の敗戦によりいささか兵馬を喪ったため、敵を畏れて出戦しないのではないかと思ってな。この城を賊に奪われては、大晋の威名は尽く失われよう。将軍が賊軍を畏れているなら、
「小将は出戦するつもりで軍士たちに食事を整えさせています。食事を終えればすぐに出戦しましょう」
「将たるもの、夜になっても鎧を脱がないものだ。すでに日が出ているのに食事を摂っていないなどという莫迦な話はあるまい。そのようなざまで国に報いることなどできようか」
梁王の面罵を受けた周處は食事を諦め、ただ軍士たちには先に食事を摂って準備を整えるよう命じた。その一方で梁王を城に戻らせようとしたが、梁王は言う。
「食事を終えた後、孤とともに馬を出して賊の軍営に向かえばよかろう」
そう言われては、梁王の前で一人食事を摂るわけにもいかない。何とか梁王を城に戻らせようと心にもないことを言った。
「小将が誤っておりました。大王の御手を煩わせるわけには参りません」
「賊と対陣している最中にそのような詫びを聞いている暇はない。ただすみやかに出戦して賊を破り、国に功を立てて朝廷の付託に背かぬことが肝要であろう」
言われた周處に返す言葉はない。促されるままに鎧を着込んで刀を執り、梁王ととにも軍営を出る。梁王はそこから城に還っていった。周處が食事を摂っていないと知る副将たちは、軍営に戻って食事を摂った後に出戦するように勧める。
「梁王はすでに吾を疑っている。ここで意に沿わぬことをすれば、後日に禍を受けることになろう。死生は常に吾らの眼前にある。ただ、願わくは天が晋室を
そう言うと、周處は軍勢を率いて
※
十里(約5.6km)も進まず賊兵が現れ、陣形を整えて相対峙した。齊萬年は
「晋軍の中に吾と戦おうという者はおらんか。いるなら出てきて勝負せよ。命まで奪われたくないのであれば、
それを聞いた周處が怒って馬を出す。
「軽率な匹夫よ、お前は晋軍の周處を知らんのか」
「見たことも聞いたこともないわ」
周處は
「吾を知らぬと言うのなら、何ゆえに幾日も出戦せぬのか」
「お前が戦機を知る将軍かと買いかぶっただけよ。昨日の小競り合いで吾が手並みは見ただろう。
周處は大いに怒って吼える。
「無知な
言うや、刀を振るって馬を馳せ、兵を率いて攻めかかる。齊萬年も刀を抜いて迎え撃ち、両軍の交戦が始まった。互いの技量に高下なく、相対峙しての戦いはたちまち四十合にも及ぶ。
周處は誘いと知らず
齊萬年は振り返って馬を立て、周處に言い放つ。
「匹夫よ、互いに技量を競って高下を試み、吾は敵わぬと潔く退いた。再戦は明日のこととして、ここは馬を返して引き退け」
その挑発に周處は大いに腹を立て、それでも路側の四方に目を配る。兵を伏せ置く樹木や茂みに意を払い、伏兵を置く地形ではないと見定めるや、馬を蹴って跟を追う。齊萬年は追い詰められた体で迎え撃ち、少しばかり刃を交わすと馬頭を回して逃げ奔る。
周處は疑いもなく跟を追い、さらに行くこと数里ばかり、追いつ追われつの両軍が伏処を通り過ぎた。齊萬年はそれでも馬を
「賊どもめ、逃げ延びるつもりだろうが、どこまで逃げても安住などできると思うな」
周處の叫びを聞くと、齊萬年は顧みて哂う。
「お前はすでに網の中、大言を吐く前に身を逃れる術を考えた方がよかろう」
※
その様子を見るやさすがの周處も狼狽し、幾ばくか平坦な西を目指して馬を駆った。二つ続く砲声を合図に劉霊、
馬を返して東に向かえば、齊萬年が隘路に水も漏らさぬ陣を布いて到来を待ち受ける。剛勇の齊萬年が隘路に拠っては抜けようもなく、怯んだところに別の一軍が襲いかかった。
先頭に立つ黄臣、張敬の二将といささか戦を交えたものの、すぐに敵のいない湖畔の道に逃れ出る。
その道は
背後の黄命が大喝して追いすがり、周處も軍を返して迎え撃つ。十合ほども競り合った頃には胡延晏が軍勢を率いて追い到り、周處は戦を捨てて湖畔を右周りに逃れ去る。
日が暮れかかって夕闇の迫るなか、周處は湖畔の澤辺に辿りつく。
もはや追手もあるまいと馬の歩みを緩めれば、鬨の声とともに
歩兵と見た周處が意に介さずにいると、楊興寶が大呼する。
「
「歩卒に過ぎぬ下郎が大言を吐くな。身を慎んでおれ」
周處が大喝して馬上より大刀で斬り下げる。楊興寶は大鎚を構えて刀を受け、歩兵に命じて周りを囲む。周處は馬を駆って包囲を逃れつつ楊興寶と戦うこと二、三十合、思わぬ苦戦に愕いて囲みを衝くや奔り去る。
※
いよいよ彼我の軍旗を分かたぬ夜闇となるも援軍は到らず、ようやく楊興寶の追跡を逃れた頃にはまったくの闇夜となっていた。
夜陰に乗じて湿地を抜けんと図るところ、
深夜を待って囲みを衝くには澤中に潜みつづけるよりない。
その頃には、齊萬年は使いを張賓の許に走らせて告げ知らせ、張賓は各所の軍勢を集めて湖畔を囲み、ついに澤の周囲は鉄桶のように囲まれた。
窮地に陥った周處が軍勢を率いて包囲を衝くも兵士が失われるばかり、湖畔の重囲は小揺るぎもしない。五更(午前四時)を過ぎて夜も白々と明けはじめ、ついに決死の突撃にかかる。
湖畔を包囲する兵を多く殺傷して周處も二度鎗を受けたものの、包囲の二段目を破って三段目に攻めかかる。
この時、昨日から食事を摂っていない周處はもちろん、兵たちも力尽きており、三段目の囲みを抜ける力は残っていなかった。包囲の兵たちは弓弩を揃えて一斉に射放ち、矢が雨のように降り注ぐ。
周處は身に四矢を受けてもなお死力を奮って包囲を衝いた。三段目の囲みが崩れそうになると、新手が駆けつけて四段目の囲みを築く。
周處は天を仰いだ。
「嫉妬に狂った梁王がこの期に及んで援軍を出さぬことが恨めしい。援軍さえ到れば賊の包囲を破るだけでなく、この戦に勝つことさえできるであろうに」
周處の言葉を聞き、麾下の数人が囲みを破って梁王に援軍を求めに奔る。
「周将軍には自らの軍勢があり、敵に遅れをとることはあるまい。それに、吾が部下には雄略ある将がおらぬ。将軍が窮地に陥ったとしても救えるはずもない」
決死で包囲を抜けた周處の部下が援軍を乞うも、梁王はそう言って援軍を出そうとしない。
「周中丞は窮地に陥っています。援軍を出して救わなければ、大きな失敗を犯すことになりましょう。何より、これより以降、洛陽より遣わされた援軍は前駆となることを怖れて大王の命を聞こうとはしますまい。そうなってはこの城を守ることも難しくなります。早急に援軍を発し、国事を誤ってはなりません。御心に忿怒されていても、面に出してはならぬのです」
「周處は着任するや否や、まだ敵にあたってもいないにも関わらず、妄りに己の能を誇って孤を蔑んだ。それだけではない。かつて洛陽にあっては孤の過失を厳しく弾劾し、親王たる孤を軽んじおった。今もまた主帥の指麾に遵わず恣に兵を出して自ら敗れようとしておる。どうしてこれが孤の咎であろうか。援軍を出して周處めを救い出すことは容易だが、万一、それに失敗して彼奴の敗戦に連座することになれば、それこそ朝廷より譴責を被ろう。援軍は出さぬ。ただ城の守りを固めて敵の
「賊軍は周中丞と丸一日戦っており、すでに力は尽きんとしております。大王の兵は昨日一日戦に出ておらず、鋭気を蓄えております。この兵で力尽きようとしている賊軍を討てば、大勝利は疑いなく、大王の大功となりましょう。遅滞してはなりません」
傅仁はさらに言い募ったが、梁王は私怨を晴らすことだけを考えており、諫言など聞き納れるはずもなかった。
※
辰の刻(午前八時)になっても援軍が来ることはなく、包囲された周處は澤から逃れ出ようと奮戦をつづける。澤から上がろうとすると畔は脆く崩れて馬蹄をとられ、馬を返せば追いすがる趙概の軍勢との戦になる。
周處と趙概は戦うこと数十合、ついに周處の刀は中ほどより折れ、短刀を武器に戦いつづける。弓矢は尽きてその満身は返り血と己の血に染まっていた。
「将軍、すでに進退は窮まり援軍もありません。
副将の
「吾が麾下の兵の多くはすでに討ち取られ、ただ一身で生き延びようと図ったとて、包囲を破れるかは分からぬ。なにより吾は義士であり、己の生を貪ることなどできぬ。ここを死に場所として司馬肜が私情により国事を害し、忠良の臣を陥れた悪行を後人に知らしめる。聞くところ、君子は危難を免れようとはせず、志士は盛衰に節を改めず、吾が身の存亡を意に介さずに命を賭して事に臨むという。今こそその時である」
そう言い終わると、生き残った兵を集め、次のように言った。
「司馬肜に謀られて窮地に陥ったことは知るとおりだ。今こそ吾らの忠を世に顕して節を尽くす時である。人は必ず死ぬ。その死を怖れて危地から逃れても意味はない。ましてや敵に臨んで逃げるなど勇士の恥、難事にあたって避けるのは義心の許すところではない。諸君も吾に随ってこの地に忠節の名を残せ。ただ、金将軍は生き延びて洛陽に還り、この始終を上奏せよ」
生還を命じられた金冕が叫ぶ。
「麾下にあって将軍と生死を供にするのは当然のこと、離れるわけには参りません」
「吾を討ち取った後に厳しい追跡はあるまい。生きながら擒となって恥を晒すなよ」
そう言って一つ笑うと、周處は包囲に突っ込んでいく。
金冕も生き残った軍勢を率いてその後を追う。周處と金冕は包囲のうちで死戦を繰り広げ、最期の突撃で一万人近い死傷者を出した。周處も包囲の中で力戦をつづけたが、ついに力尽きて討ち取られた。
長平坂に踏み入った晋兵のうち生還した者は数えるほどであったが、彼らは梁王の軍に組み込まれることを嫌い、周處の部将の
齊萬年は勝勢に乗じて雍州の城下に到り、水も漏らさぬ包囲を布く。城外に住む民は、突然のことに愕き慌てて逃げ隠れ、
それでようやく民も安堵して落ち着きを取り戻した。
この時、一人の兵士が民家から馬を奪い、それを知った齊萬年は兵士を縛って衆人環視の中で
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