第十八回 張賓は盗に遭いて陳元達を訪う
張賓兄弟は
黄臣と黄命もまた蜀漢の老将軍として知られる
張賓は彼らと兄弟の交わりを結んでいた。
また、趙家に仕える家僕の汲桑は字を
さらに、趙染の弟に趙勒という者があるが、この時はまだ幼く、汲桑が背に負って成都から脱出したのであった。趙勒の脚では他の者に追いつけず、今は遊牧民が使う馬革の袋に放り込まれ、汲桑がそれを背負っていた。
張賓たちは漢中を出て
途中で出会った人々は汲桑と張賓の容貌から商人にも農民にも見えず、宿を借りて飯を買った土地の人々は賊徒かと疑った。一行は無用の疑いを避けるために鎗や大刀を手放し、短刀を懐に道を急ぐ。
数多の
※
ある日、昼飯時になろうという頃に
ほどなく天は暮れかかり、方向も分からなくなって
もう一人は身長九尺(約280cm)ばかり、肌は黒く髯は短く、四角の顔に大きな耳、広い額に
二人は大呼して言う。
「お前たちは一体何者だ。財物があるなら置いて行って通行料にしな。そうすればここを通してやらあ。もし断るんなら命を貰う。生まれ育った故郷があるなら、知らねえ土地で亡者になることもねえだろう」
張賓が舌先三寸で逃れるべく言う。
「吾らは漢中からの旅客、商いをしくじって元手を失い、今は財物を携えておりません。これより
羌族の巨漢は張賓の言葉を無視し、大斧を振るって張敬に斬りかかる。避けるだけでは危ういと、張敬も短刀を抜き、闘いが始まった。張敬に万一があってはならぬと張實も短刀を抜いて大斧を防ぐ。
※
張賓がさらに声を張り上げて言う。
「将軍よ、異郷の客を憐れんで
「俺らは命が欲しいわけじゃあねえ。銭金を差し出せば通してやろうってんだよ。銭も出さねえってのなら、俺らの手は止まらねえぞ。斧の味でも試してみろや」
男が攻め手を止めないと見るや、黄臣も杖を引いて参戦する。賊徒は黄臣を恐れず競り合いになった。張敬、張實、黄臣の得物は短く、賊徒を斬り退けるには至らない。
日はまさに暮れようとしており、趙染と黄命も短刀を抜いて加勢する。
「異郷の人間だってえから囲み殺さなかったってのに、幾ばくかの通行料を俺らの酒代にするのも嫌がり、かえって手向かおうたあ、ずいぶんと肝が太えじゃねえか」
賊の副頭目らしい赤い幘の男はそう言うと、大刀を抜きつれて撃ちかかる。
趙概と汲桑は荷物と趙勒を一所に下ろし、それぞれ武器を手に群がる賊徒に立ち向かった。賊徒は十数人が一団となって一人の退く者もなく、喚き叫んで闘いつづける。
数人の賊が足元の荷物に目をつけて一斉に飛びかかり、荷物を奪って逃げ出した。張敬と趙概は闘いの最中にあって荷物を追えず、怒りを込めて首魁に斬り込んでいく。
荷物を奪ったと見るや首魁らしき男が叫ぶ。
「日は落ちた。俺らがこやつらを阻む間に、さっさと先に行け」
その言葉を潮に賊徒は風に払われたように逃げ散った。去り際に賊徒の一人が趙勒の入った革袋を奪い去る。それを見た汲桑は、取り返すべく賊徒の
※
百歩先が見えない夜闇の中、黄臣、張敬をはじめとする一行は、首魁二人が率いる賊徒を相手に戦いを続けていた。
赤い幘の男が呆れたように言う。
「お前ら、死ぬまで引き下がらねえつもりかよ。俺たちがお前らを殺せないと思うのか。ほどほどにして引き下がった方が身のためだぜ」
賊徒は大刀や鎗を揃えており、短刀では身を守るのが精一杯、さらに首魁二人に従う賊徒は一行の二倍を越える。
張賓は被害が広がるかと懸念して叫んだ。
「こやつらは賊徒、勝っても奪った荷は還ってくるまい。この場はこれまでとせよ」
黄臣と張敬も賊徒を捨てて引き下がり、首魁二人も残党をまとめて退いた。賊徒を追った汲桑は健脚を飛ばして易々と趙勒が入った革袋を取り返す。
賊徒は財貨と思い込んで一斉に追いかける。暗闇に紛れて逃れたものの、張賓たちとは逸れてしまった。
※
趙染たちは汲桑と趙勒がいないと気づき、声高に呼んで探しはじめた。汲桑はそれを賊徒の声と思い込んでその場から遠ざかる。趙染たちは四方に分かれて呼びかけたが、二人の逃げた足跡もなく、賊に捕まったかと大いに
張賓はそれを止めて言う。
「汲桑は走れば日に四百里(約224km)を行き、八百斤(約478kg)を背負う豪傑、賊に馬がなければ捕まる
「それは良策ではない。衣服を奪われたわけでもなく、夜を明かすのに不足はない。荷物は奪われても身につけた金銀で路銀も足りる。郭胡の家に引き返すには及ぶまい」
黄命がそう言ったところ、汲桑と趙勒を探しに出ていた趙藩が駆け戻って言う。
「二人の足跡を探したが手がかりはない。ただ、この先に
一行が趙藩について行くと、間もなく言葉のとおり庄村に到り、大きな屋敷の門を叩いた。
屋敷の
そこに張賓の穏やかな声が響く。
「吾らは遠方からの旅客、不良の徒ではございません。この先で山賊に荷物を奪われて身一つになってしまいました。この夜半に行くあてもなく、食料を分けて頂きたく門を叩いたのです。一夜を明かせば、この地を去ります。願わくは、御恩の浅からざらんことを」
内にいる者たちには、客人と見て家主に報告しようとする者あり、客人であろうと武器を持っている者を妄りに泊めては万一の際に取り返しがつかないと言う者あり、口達者な賊徒だと憤る者もあって収拾がつかない。
内の喧騒を聞いた張賓が言う。
「剣と琴は旅人が欠かさず携えるもの、帯剣を理由に人の善悪は定められますまい」
その言葉に応じるように門を開いて男が出てきた。
「遠路の客人があれば、吾に報告すべきであろう。門を隔てて悪罵するとは礼に
張賓はその慧眼に舌を巻き、僕隷を庇って謝罪した。
「山賊から逃れてこのような夜半に押しかけてしまい、礼を欠いたのは吾らが先です。誤解を招いても無理はなく、彼らに罪はありません。何卒、
「あなたがたはどこで山賊に出遭ってここまで来られたのか。このあたりで起こったことであれば、管理している吾の過失、詳しくお聞かせ願いたい」
庄主は徴税や紛争の調停、それに治安の維持を責務としており、当然の問いである。
張賓が答える。
「吾らは漢中の者ですが、河西と
それを聞くと、庄主は僕隷に命じる。
「客人は道中にて難儀に遭われ、さぞかし空腹であろう。酒飯を整えてお出しせよ」
一同は難儀の多い一日であったが、庄主の歓待に心が休まるようであった。
※
酒食が揃うと互いに名乗り、一座の話題はこの土地のこととなる。
「吾が姓は王、名を
張賓が先ほどの賊徒について問うと、王伏都が答える。
「あなたがたが出遭った賊の首魁は、姓を
▼曹爽は
「あなたは彼らのことに詳しい。思うに、彼らと交誼を通じておられるのではありませんか。そうであるならば、吾らの奪われた荷物を取り返して頂きたい」
張賓がそう願うと、王伏都は難しい表情を浮かべた。
「彼らが賊徒に身を落としてすでに久しい。奪った財物はすぐに売り払うなどし、奪い返されないよう手元に残さないでしょう。それでも試みられたいのであれば、ここから遠くない
それを聞くと、張賓は王伏都に拝謝して礼を述べた。
▼陳元達の出自を『後傳』では「原祖は後部の人」と記す。『晋書』によれば後部の人で元の姓は高とある。この後部は匈奴五部の一にあたり、山西の人と考えればよい。
※
翌日、張賓たちは陳元達の許に向かうべく王伏都の邸宅を辞した。王伏都は旅費の足しにといささかの金子を送り、中途まで馬を出して見送りに出る。
「身の落ち着け処を得たならば、必ずや書簡を送って本日の御恩には背きますまい」
張賓が改まって礼を言うと、王伏都はその含意に気づかず呵呵大笑で応じた。
一行はそれより数日して陳元達の家に到り、門を叩いて来意を告げる。
「ここに居ても仕方がありません。出先を訊いてそこに向かいましょう」
趙藩がそう言い、家人に出先を問うた。
「ご主人は世俗の
そこから
一帯を遥かに望めば、松蔭が差す林間に
四海は混沌とし 誰か
伯楽は
未だ明時に遇わず 膝を抱えて徒に傷む
知己に遇うを得れば
天下は混沌として天地は明らかならず
駿馬は全力で駆けることもなく厩に繋がれ、玉のような才能は誰にも知られない
駿馬をそれと知る者も石を玉と見分ける者もすでにこの世にない
何時になれば石を削って玉を
時勢に合わず家で膝を抱えてただ心を傷めるしかできないが
知人の鑒を持つ人に出会えば天高く羽ばたくこともできように
歌声に聞き入れば、
賛嘆して戸を叩くのを止め、戸の隙間から屋内を窺がった。家内では灯の下で一人が机に寄りかかって詩を吟じている。頭に
しばらくの間、筆を執って詩を録していたが、筆を
「窓外に人の足音があった。客が来ているのだろう。門を出て様子を見てきてくれ。客人であれば粗相のないようにな」
命を受けた小童が柴の戸を開ければ、果たして張賓の一行がそこにある。
「お客様、主人に報告いたしますので、少々お待ちください」
そう言って一度引き返した童子に招じ入れられ、張賓たちは陳元達と向かい合った。主客の礼を終えると、張賓はこれまでの経緯と王伏都の言を語る。
陳元達は笑って言う。
「吾は村林の愚人に過ぎず、世の煩雑を避けて隠棲している者です。賊徒と義の向かう方向を同じくすることがあっても、彼らに徳を施したわけではありません。どうして吾が言に従いましょうか」
張賓は諦めず、再三に渡って懇ろに頼み込む。陳元達も呻吟して思案した。
「あなた方の依頼を無碍に拒むのも心苦しい。試みに手紙を書いてみましょう」
筆を走らせて書状を書き上げ、使いに持たせて二人の許に届けさせる。
それより数日後、虁安と曹嶷は奪った荷を送って寄越し、いずれも奪われる前と変わりなかった。張賓たちが篤く礼を述べて辞去しようとすると、陳元達が言う。
「あなた方の荷物は旅人のものには到底見えません。その上、容貌も尋常一様の人ではない。おそらくは仇を避けて身を隠す途上におられるのでしょう。このごろ、晋が守兵を減らしたことで各地では賊徒が勢力を広げており、落ち着き処を探すのも一苦労です。ここを出てどのような危難があるかは測れません。むしろ、この地に留まって時勢を観望されるのがよろしいのではありませんか」
一行は陳元達の申し入れに従って棲鳳崗にしばらく留まり、旅の疲れを癒すこととした。それでも、張賓は素性を曖昧にして明かさない。
それより連日、陳元達と張賓は相伴って山に登り、景観を楽しんで詩賦を作る。両人の詩の応酬がつづいて詩賦の出来は甲乙が付け難い。
また、遊猟に出れば、一行は日ごろの鍛錬の一端を表す。陳元達はそれを見て張賓たちがただの旅人ではないと確信し、いよいよその扱いは丁重を加えた。
陳元達が胸中の才略を談じれば、張賓は鋭い意見を呈する。陳元達は張賓を未だ磨かれていない奇玉と称し、張賓は陳元達を
二人とも博識にして謀画の才に秀でた奇士であり、天下を経綸するに足る才器、尋常の人ではない。春秋の世の名相の
これより張賓と陳元達は深く交誼を結び、まるではるか昔からの馴染みのよう、後日、二人は果たして北漢の謀士として史上に名を残したことであった。
▼まめ知識:第十八回(一部は第二十二回)までの蜀漢の遺臣たちの所在は以下のとおり
第一集団 成都城の西門から突破、漢中から安定を経て柳林川へ到着
第二集団 酒泉地方の棲鳳崗に滞在
第三集団 酒泉地方に滞在
第四集団 馬邑縣に滞在
第五集団 馬邑縣に在来、第四集団と接触
第六集団 第一集団が北方に向かう際に安定に残留(「二十二回」に詳述)
第七集団 長安北方の河套地方に蟠居、第一集団と接触
第八集団 黒莽坂の山賊、第二集団と接触
第九集団 第八集団との接触の際に第二集団と逸れて逃亡中
第十集団 酒泉地方、第二集団と接触
第十一集団 棲鳳崗、第二集団と接触
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