第六回 張賓と諸葛宣于は蜀の乱を避く

 晋漢しんかんの度重なる合戦に妙術みょうじゅつ奇謀きぼうを尽くし、漢家かんかの功業を助けた柱石ちゅうせきの臣、張賓ちょうひん諸葛宣于しょかつせんうたちも成都せいとの失陥により離散を強いられた。

 その昔、先主せんしゅ劉備りゅうび股肱ここうの臣、張飛ちょうひ范彊はんきょう張達ちょうたつに殺害された後、劉備はその死を深く哀しみ、成都に邸宅を建ててその家族を住まわせた。その後、張飛の子の張苞ちょうほう諸葛孔明しょかつこうめいに従って出征し、魏将をとらえようと追った際に崖から落ちて世を去った。

 後主こうしゅ劉禅りゅうぜんは張苞を深く愛惜あいせきしてその眷族けんぞくを登用した。

 張苞の生前、めかけ李氏りしが一人の男児を生んだ。これがすなわち張賓である。李氏が張賓を懐妊かいにんするにあたり、夢に呂洞賓りょどうひんと名乗る仙人が枕元に立って一本の玉柱ぎょくちゅうを授けた。

▼「呂洞賓」は唐の頃に生まれ、終南山しゅうなんざんで修行して仙人になったとされる。

 その後に妊娠が分かったので、夢を奇瑞きずいと考えて幼名ようみょう柱奴ちゅうどと名付けた。長じて名をひんあざな孟孫もうそんと名乗った。

 それより後、張苞の正妻も二人の子を生み、兄は名をじつ、字を仲孫ちゅうそんといい、弟は名をけい、字を季孫きそんという。

▼張苞の子は張遵ちょうじゅんの名が伝わる。

 三子はいずれも勇気があったが、張賓は生来聡明にして世の常から抜きん出ていた。若年より史書を読みふけり、古今の典籍てんせきは目を通した端からそらんじる。経史けいしたぐいは言うに及ばず、呉起ごき孫臏そんぴんの兵書までも学んで余すところがない。

 しかし、妾腹しょうふくの子であるために本妻はその聡明を喜ばず、他家で養育された。


 ※


 ある時、張賓は姜維きょういの幕府を訪れて面会した。その議論は風のように起こって知性の華をひらき、姜維の幕僚にも及ぶ者がない。

 姜維は大いに驚き怪んで言った。

「この子の器量は凡庸ではない。蜀の人であるとは実に喜ばしいことだ」

 それより心に留めて何くれとなく援助したが、張賓はまだ幼く、その母は寡婦かふであるために出征に随うこともできない。それでも、事ごとにその家を訪れて意見を聞き、良策を得て帰るのが常となっていた。姜維は諸葛孔明より伝えられた遺書を贈り、自ら平生より学んだ技術を詳しく教えてやる。

 さらに、次のようにいましめた。

「お前の才能は吾に十倍する。必ずや後年には人の上に立って功業を建てるだろう。しかし、大器は晩成ばんせいするものであり、慎んで涵養かんように努めねばならぬ」

 張賓はその教誨きょうかいに従い、常に韜晦とうかいして功名を焦らなかった。

 蜀漢の炎興えんこう元年(二六三年)に魏の鄧艾とうがいが成都にせまった際、後主劉禅は柔弱で決断を欠き、ただ民を安んじて一族を全うすべきという譙周しょうしゅうの主張をれて降伏すると決した。この時、功臣の眷族たちはみな邸宅を出て難を避けた。

 張賓も同じように勧められたが、こう言って断った。

「吾の観るところ、漢の国運はいまだ尽きておらず、鄧艾は自ら敗亡するだろう。万一、当たらなかったとしても、張子房ちょうしぼう張良ちょうりょう)が博浪沙はくろうさに秦の始皇帝をつちで狙った故事にならうことはできる。故国を忘れて仇敵の国に従えるものか」

 それより門を閉ざして外出しなくなった。


 ※


 趙雲ちょううんの子である征西せいせい将軍の趙統ちょうとうには二人の男子があり、一人の名をがい、字を総翰そうかんといい、もう一人は名をせん、字を文翰ぶんかんといった。この二人は武芸に秀でるのみならず、義気に富んで泰山たいざんのように動かしがたい威がある。

▼趙統の子の名は伝わらない。

 さらに幼弟があり、名をろくという。趙勒は幼年ながら容貌優れて長者ちょうじゃふうがあり、張賓はその行く末を頼もしく思っていた。

▼「趙勒」は『通俗』『後傳』ともに「趙朸」とするが、後段では「趙勒」に統一される。本翻訳では「趙勒」に統一する。なお、「概」「染」「朸」はすべて「木」に従う字であり、兄弟の命名に規則性を持たせる例は枚挙まいきょに暇がない。

 さらに、蜀の老将として知られた黄忠こうちゅうには黄臣こうしん黄命こうめいという二人の孫があり、黄臣の字は良卿りょうけい、黄命の字は錫卿しゃくけいという。この二人も同じく義勇の士であり、張賓はかねてより交際して義兄弟の契りを結んでいた。

▼黄忠の子は黄叙こうじょ、子はなく、家は絶えたと伝わる。

 また、統軍とうぐん諸葛瞻しょかつせんの末子は名を宣于せんう、字を修之しゅうしといい、これもまた成都の知名の士である。諸葛宣于の胸中は武庫ぶこのごとく智慧を蓄え、祖父の孔明こうめいの秘術をも受け継いでいる。

 父の諸葛瞻が魏軍を防ぐべく成都の東北にある緜竹めんちくに出兵しようとした際、姜維の軍勢が戻るまで動かないよういさめて容れられず、ついに諸葛瞻は陣没じんぼつした。この一事をもって諸葛宣于の智謀は推し量れよう。

▼諸葛瞻の子は諸葛尚しょかつしょう諸葛京しょかつけいの名が伝わる。

 他には魏延ぎえんの三子、魏攸ぎしゅう魏晏ぎあん魏顥ぎこう驍勇ぎょうゆうにして軍勢の進退に秀で、大刀を得意とする。馬謖ばしょくの子の馬寧ばねいもまた機略に長けてさくを善くした。

▼魏延と馬謖の子の名は伝わらない。


 ※


 彼らは姜維と約し、自立を図る鍾会しょうかいが鄧艾父子を拘束する機に乗じて鍾会をも擒にせんと企てた。しかし、はかりごとは破れて約は果たされなかった。

 城の四面に火が起こると姜維は子の姜發きょうはつを遣わし、成都より逃れて後事を図るよう張賓たちに告げさせ、その後、姜維は乱兵に害される。

▼『三國志』姜維傳では、鍾会が殺された際に姜維の妻子も乱兵に害されたと伝わる。

 張賓たちも城に火が起こったのを目にして事態の急変を覚り、急ぎ成都からの退去にかかる。そこに姜發が駆けつけて姜維の言葉を伝え、みな大いに驚愕した。

 諸人が呆然とする中、趙概が声を挙げる。

「吾らの大事だいじはすでにきわまった。大丈夫だいじょうふが志を立てたならば、死中にあっても活を求めるもの、どうして手を束ねてたおれるのを待つことがあろう。再起の機会があるならそれを掴むだけのことだ。各々はどのようにお考えか」

「趙概の言が正しい。これより成都では玉石を分かたず焼き払われよう。魏の羅網らもうに自らかかる必要はない。成都を離れて別に計を立て、幾年かかろうとも宿志しゅくしを果たさねばならん」

 張賓の言葉に衆議が決した。

「この期に及んで家族かぞく眷族けんぞくは惜しむに足りぬ。しかし、幼弟の趙勒は父君ふくん鍾愛しょうあいを受けており、見捨てるわけにはいかん。誰か保護して城を出てくれぬか」

 趙概がそう言うと、趙府ちょうふ牧馬師ばぼくしを務める汲桑きゅうそうという者が声を激しくして応じた。

▼『三國志會要さんごくしかいよう』によると、蜀に趙王は存在しない。汲桑が趙家の者を主と仰いでいることから、所属していた「趙府」とは趙統が征西将軍であった頃の将軍府と考えるのがよい。

しもべあるじの間柄は手足と頭のようなもの、どうして幼主の難儀を見捨てることができましょう。吾が命を捨てても保護して城を出て、先代、先々代の御恩に報いて御覧に入れます」

 汲桑は字を民徳みんとくといい、軍務に通じて歩戦を得意とする。趙勒を背に縛りつけて軽々と背負い、徒歩で城門に向かう。

「民徳ほどの勇士が請けあったなら、この子の命も安心してよい」

 衆人はそう言い、それぞれに勇を奮って城門に向かった。


 ※


 張賓、張實、張敬は一軍を率いて文武の官吏を護衛しつつ魏兵に占拠された城門の様子を窺った。

 魏攸、魏晏、魏顥の三兄弟が進み出て申し出る。

「かねてより国家への報恩を願って久しく、今日の国難に殉じたとて望むところです。吾ら兄弟が先に立って一路をひらきましょう。衆士はその後につづいて頂きたい」

 ついに一同ともに南門の魏兵を蹴散らして城を脱け出す。

 汲桑が勇士であるとはいっても背中の趙勒を守りつつ戦わねばならない。はしるのも常より遅く、ついに遅れたところを魏兵に取り囲まれた。

 魏将の李明りめいが鎗をひねって突きかかるも、汲桑は大喝だいかつすると趙勒を背負って駆け回る。

 魏兵はその大斧を避けるのに精一杯、李明の馬は汲桑の大斧を腹に受けて倒れ、李明も馬から投げ出される。汲桑は逃さず大斧で李明の首を打ち落とした。

 それを見た魏将の張平ちょうへいは汲桑の勇を怖れ、兵を指揮して取り囲む。汲桑は包囲の中を左に突き右にり、奮戦をつづけた。

 先を行く趙染と趙概が汲桑の遅れに気づき、子弟してい家僮かどうを率いて駆け戻る。魏兵を蹴散らして包囲から救い出すと、先行する一団の後を追う。

 成都を脱け出した一行は再起を図るべく、西北の河西かせいに落ち延びていったことであった。

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