vol.15 12月を忘れないで

12月を忘れないで 1


 九月の空はなにか、もの哀しい。


華やかな季節が幕を閉じようとする、静かな空気の下に、色彩のかげりを見てしまうから…

寒い季節の訪れを予感させる、冷たい空気を感じてしまうから…




 よく晴れ渡った青空だった。

「海が見たいな」

珍しくわたしからそんなわがままを言って、平日の昼間に、川島君の赤い『フェスティバ』を、海まで走らせてもらった。


 高速道路を東に走り、山道の国道を抜けると、目の前いっぱいに真っ青な海が広がり、開け放ったクルマの窓から、潮の香りが鼻腔をくすぐる。


九月の海は、だれもいない。

ほんとうに澄みきった青と、白だけの、おだやかな風景。

静かにゆっくりと、高い日射しに、キラキラ光る波がなぎさを濡らし、すうっと水が引いたあとに、砂に滲んだ透明な水の流れが、綺麗な模様を残していく。

潮のざわめきのほかには、なにも聞こえない。

そんな砂浜に降り立ち、わたしと川島君は、あてなく歩く。


「さつきちゃんとどこかに行くなんて、久し振りだな」

まぶしそうに手のひらをかざして、遠い水平線を見ながら、川島君は言った。

「こういう、ちゃんとしたデートは、二ヶ月ぶりよ」

なぎさに散らばっている小さな貝殻を拾いながら、わたしは答える。

「そんなになるかな? もっと会っていたと思うけど」

「前から約束して、朝からふたりっきりで会って、どこかにいくのなんて、川島君が『東京に行く』って言い出した、七月はじめのデートのとき以来よ」

「そういえば東京じゃ、会っているときでも、他の人といっしょだったり、残業のあとだったり、帰る間際のあわただしさのなかだったりで、こうしてふたりで一日ゆっくりするなんてこと、なかったな」

「今日はわたし、のんびり過ごしたい。ふたりだけで」

「それもいいかもな」



 わたしたちは九月のなぎさを、ただ、歩いていた。

波は飽きることもなく、寄せては返し、また打ち寄せてくる。

それはまるで、いつまでも終わらない、メビウスの輪。

東京でのめまぐるしい時間の流れが、遠い昔のことみたい。


「座ろうか」

「ええ」

川島君は海に向かって、腰をおろす。わたしはロングスカートの裾をひざの裏に巻き込みながら、そのとなりにしゃがみこむ。

川島君は、遠くの沖を、口を結んだまま見つめる。

そんな彼の横顔を、わたしはちらりと覗き見る。

そう言えば、まだ川島君とつきあう前は、彼をずっと見つめていたくても、なかなかできなかったな。

川島君の心のなかを知りたくて、視線を合わさないように、彼の横顔をいつも盗み見ていた。


どうして、そんなつきあう前のことなんか、憶い出しちゃったんだろ?

最近の彼が、あの頃みたいに、わたしにはちょっと遠い存在に感じられるから?




「川島君、東京に行って、なんだか変わったね」

なにもしゃべらないまま、じっと海を見つめる川島君に、わたしは遠慮がちに言った。

そんなわたしの気持ちを知る風でもなく、川島くんはなにげなく振り返って訊く。

「どんな風に?」

「なんてのかな… 『大人になった』っていうか、夏休み前の川島君より、成長した気がする。いろんな意味で」

「おとな… か」

川島君はわたしの言葉を繰り返し、足元の巻貝を拾って、手のひらでもてあそびながら言う。

「やっぱりぼくは、ただの田舎のカメラマン志望のガキだったよ」

「え?」

「東京には凄い人たちがいっぱいいて、ぼくなんかまだまだ、カメラマンのスタートラインにも立っていないひよっこだってのを、痛いくらい実感した。

アマチュアカメラマン向けの写真雑誌のコンテストで金賞とったなんて、自慢するのが恥ずかしいくらいだったよ」

「そうなの?」

「星川先生の所で、責任ある仕事を任されて、プレッシャーを感じながら写真撮るのって、技術以上に、精神力もなきゃ、ダメだった」

「仕事なんだもの。責任はついてまわるだろうし、趣味とかで気軽にやるのとは、やっぱり違うんでしょうね」

「そうなんだ。ぼくも写真にはまじめに取り組んでいたつもりだったけど、それが仕事となると、真剣さの度合いが、格段に違うんだよ。ぼくの写真なんて所詮、学生の習作程度のもんさ」

「でも、星川先生って、モルディブじゃ緊張感もなくて、ニコニコしながら写真撮ってたけど」

「それがあの先生のすごい所なんだよ。そうやって周囲をなごませて、相手の肩の力を抜かせてリラックスさせて、モデルの魅力を引き出すんだ。

あの笑顔の裏に、そういう周到に計算された写真技術があったなんて、いっしょに仕事して、やっと気づいたよ。いや、あの先生のことだ。案外天然なのかもしれないな」

「あは」

「はは…」

「…川島君」

「なに?」

「東京に行ったこと、後悔してるの?」

「逆だよ。むしろ、行ってよかったって思ってる。自分の力量を知る、いい機会だったって。じゃなきゃ、『井の中の蛙』で終わる所だった」

川島君はそう言うと、手にしていた巻貝を海に放り投げる。そうして視線を沖の方に移し、また、遠い人になってしまった。

わたしはかすかな不安を覚えた。


つづく

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