Invitation 5

そう言ってみっこはひと息つき、夢見るように語りはじめた。

「あれは、高校一年の夏休みだったわ。

ロケ先のデンマークにあの人も自費でついて来て、ロケのみんなと一緒に泊まっていたホテルを、あたしは夜中に抜け出して、直樹さんがいるホテルの部屋へ行って、そこではじめて結ばれたの。

白夜で、空が一晩中白んでいて、幻想的な夜だった。まるで夢の中のできごとみたいに、直樹さんはあたしの全身を優しく撫でてくれて、気がつくと、あたしの中に入ってきてて、あたしの頭は朦朧もうろうとなって、シャガールの絵みたいに、いろんな景色の断片が、浮かんでは消えるような感じだった。

だけど、朝、目が醒めると、シーツが汚れちゃってて、おなかの下に妙な違和感があって、痛くって、気分がすぐれなかったわ。だからもう、二度としないって誓った」

「でも、そのあともしたんでしょ?」

「ん~。ダメなのよね~。

あの人に会って、キスされて、抱きしめられると、『もうどうでもいい』って気持ちになっちゃって。

そうするといつの間にか、ブラウスもスカートも脱がされてて、キスしながらボタンでもファスナーでも、簡単にはずされてしまうのよ。ほんっと、変なところが器用なんだから」

「テクニシャンなのね~」

「悔しいからあたし、デートのときに、ボタンが40個くらいついたワンピースとか、下着も脱がされないように、ギュウギュウに締めつけられたコルセットとか、着ていったことがあったわ。そうしたら逆に興奮されておもしろがられて、ひとつひとつ丁寧に、ボタンをはずしていくの。

そんな風にされると、こっちまで、なんだかじらされてるような、たまらない気持ちになっちゃって… そのときはじめて、快感っていうか… イった感じがしちゃったの」

「つっ… 爪、立てたの?」

彼女の話に思わず引きずり込まれ、昨日藍沢氏が言っていたことを思い出して訊く。みっこは呆れたように答えた。

「立てた立てた!

『みっこちゃんと別れるまでは、ぼくの背中はだれにも見せられないね』なんて、あの人しゃあしゃあと言うんだもん。だからあたしもムキになって、血が滲むくらいガシガシ引っかいてやったわ」

「わぁ~。痛そう。みっこってやっぱり過激なのね」

「ふふ。でも… 幸せだったな。

あの人とひとつになれた充実感… っていうのかな?

あの人のものがあたしの中でいっぱいに広がると、足りなかった部分が満たされていくような気がして、痺れるような満足感に浸れるの。

いちばん奥の秘密のお部屋を、“コツコツ”って、ノックされて、ドアをめくられて。

そのうち大きな波が訪れて、きゅーんって意識が遠のいちゃって、頭の中にいろんな幻覚がグルグルまわるの。

それが嬉しくて気持ちよくて、あたし一度も彼を拒まなかったし、あたしの方から求めることだってあった。

今思えば、あたしと直樹さんとの恋愛の中で、あの頃が怖いものなしの、いちばん無邪気な幸せに浸ることができた時期だった」

みっこはそう言うと、じっと『ウエッジウッド』に注がれたアールグレイの水面みなもを見つめた。ゆらゆらと波紋を残して、みっこのシルエットが曖昧あいまいに揺れる。

きっと彼女はその頃の、『無邪気な幸せ』だった日々を、ビデオでも見るように懐かしく憶い出しているのかもしれない。


そんな、なにも悩みのない恋愛は、もうできないことを。

なにかに訣別しているような…

そんな気がして、わたしは黙ってみっこを見つめた。


「『恋をしたことのない者は人生の半分、それも美しい方の半分を知らない』って、ことわざがあるでしょ」

『ウエッジウッド』を両手で包み込むようにして、みっこは言った。

「あたし、この言葉が大好き。今振り返れば、いろいろ恥ずかしいことやみっともないことをしたり、言ったりしたけど、どれもみんな素敵なできごとばかりだった。

そんな恋に巡り会えて、あたし、本当に幸せだったと思ってる」

「そうよね。その言葉、共感できるな。わたしも、『恋』っていう稀な感情が、今、自分の中にあることを嬉しく思うし、感謝もしているもん」

みっこの言葉が、いちいち自分の気持ちと重なって、わたしは同調するように言った。

わたしは川島君との恋を、一生手放したくないと思っているし、みっこもかつて、そう思っていたに違いない。

なのにどうして、ふたりは別れることになったの?


『ターニングポイント』


藍沢氏の言葉が、心をよぎる。

長い沈黙のあと、みっこはすうっと視線を、ティーカップから、窓の外の彼方へ移した。

なんだか見覚えのある表情。

ああ…


これは夏にふたりで海に行ったとき、不意に彼女が見せた仕草と同じ。

あのときわたしは、『みっこは彼氏、いないの?』って訊いたんだっけ。

すると彼女は、今みたいに視線をそらしながら、『あたしはまだ、心から好きになれる男の人に、出会ったこと、ない…』って、答えた。


藍沢直樹氏と別れて一年。

みっこはいつも過去を追っていて…

ううん。

過去に追いかけられていて、モデルをやめたり、福岡の大学に来たりしながら、自分の本当の居場所を探していたのかもしれない。


 しばらく口を噤んでいた彼女は、ようやく話しはじめた。

「だけど、そう思えるようになったのは、つい最近のことなの。

それまであたしには、なんにもわからなかった」

みっこの遠くを見つめる瞳がかげった。微かに眉をひそめて、彼女はきゅっと唇を噛んだ。


「はじめて彼を拒んだのは,高校三年になったばかりの、春だった」


つづく

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る