Invitation 3
リビングルームのテーブルには、すっかりお茶の支度が整っていて、ベルガモットのさわやかな香りが部屋いっぱいに立ちこめている。
お湯が注がれ、柔らかな
琥珀色の紅茶をたたえたメリオールは、レースのカーテンをとおした日射しに透けて、細やかな泡のついたリーフが、ドレスを
わたしは窓辺の椅子に腰をおろすと、並べられた食器を見て、不思議に思って訊いた。
「あれ? カップが1客しか出てない」
マドレーヌの回りにクッキーを並べながら、みっこは答える。
「ん。実はさつきに立ち会ってもらおうかと思って」
「立ち会う?」
みっこはキッチンの食器棚のいちばん奥から、1客のティーカップを持ってきた。
『ウエッジウッド』の上品なパウダーブルーのティーカップ。
「このカップ、去年のあたしの誕生日に、直樹さんが贈ってくれたものなの」
「えっ?」
わたしはドキリとした。
まさかみっこは、わたしの『立ち会い』のもとに、このカップを割ってしまうつもりなんじゃ…
しかし、彼女はカップを洗うと、宝物を扱うように、丁寧に拭きあげた。
「あたしってバカよね。あの人から最後にもらったこのカップを見るのがイヤで、何度も、捨ててしまおう。でなきゃ、家の食器棚の奥にしまっておこうって思ってたのに、わざわざ福岡にまで持ってきちゃってる」
彼女は紅茶を注ぎながら、じっと『ウエッジウッド』のティーカップを見つめた。
「もらってから一度も使えなかった。取り出して見る気にさえなれなかった。
だけど今日、はじめてこのカップで、お茶を飲みたいなって思えたの」
「それって、藍沢さんのこと、いい想い出にできたってこと?」
「まだ、よくわかんない。でもひとつわかるのは、あたしこれからは、今までとは違った気持ちで、あの人のことを考えられそうだってこと。
昨日までは、なんとかして『忘れよう』って頑張ってたんだけど、そんな必要はなかったのかもしれない」
「みっこ…」
「今日はなんだかとっても、あの人が愛しいの。だけど、不思議なくらい執着がないの。
こんなに穏やかな気持ちで、あの人のことを考えられたのは、はじめて。
だから今日は、その記念」
そう言って彼女はカップを手に取り、少しうつむきながら口づけて、コクンとひとくち飲んだ。
それを見ていたわたしは、昨夜からのもやもやした霧が、すうっと晴れていくような気がした。
みっこは今、ひとつの想いを乗り越えられたのかもしれない。
「ね。藍沢さんとのこと、もっと話してもいい?」
「え? う、うん。もちろん…」
意外。
みっこの方から『話していい?』だなんて…
「そう言ってくれて、なんか、嬉しいよ」
わたしが言うと、みっこはまぶしそうに目を細めて、微笑みながらうなずいた。
「あの人とはじめて出逢ったのは、あたしが中学三年生になった年の春だったわ」
みっこは懐かしそうにかすかに瞳を細め、わたしの焼いたマドレーヌを口にした。
「ん。おいしい! さつきってお菓子づくりの天才ね」
「あは。ありがと。それで?」
「それで。あたしはまだ14歳で、直樹さんも21歳だったわ。はじめはあたしの家庭教師として、家に派遣されてきたのよ」
「先生と生徒かぁ。なんだか危険な香り」
「なに変な想像してるの? さつきってば、ハーレクイン小説の読み過ぎよ」
「ごめんごめん。で?」
「それでね… あたしは勉強はあまり得意じゃなかったけど、両親、特にママは、あたしを都内の『お嬢様高校』に行かせたくて、このときだけは熱心に勉強させようとしてたの。まったく、勝手な話よね」
「まあまあ。それはいいから。
…で、みっこは藍沢さんにひと目惚れだったの?」
わたしがそう訊くと、みっこはぽっと頬を染めた。
「見てのとおりのハンサムでしょ。まだ中学生の小娘が、動揺しないわけがないじゃない」
「そっか~。中学生のみっこかぁ。見てみたかったな~」
「あは。はじめてあの人が家に来た日のことは、今でもよく覚えているわ。
チャイムが鳴って、ママが玄関からあたしを呼んで。
階段を降りながらあの人の顔を見たとたん、あたし、緊張してアガってしまって、つい『あたし、勉強なんかキライです』って、言っちゃったの。ママは怒ったけど、直樹さんは『あっそう。ぼくも嫌いだな。でも美湖ちゃんのことは、好きになれそうだよ』なんて、涼しい顔して言うのよ。
『なんなの? この人』って思って、あたしムッときて、その日は全然勉強しようとしなかった。
そうしたら彼も教科書も広げないで、2時間の授業中、ずっと世間話やおかしな話ばかりしてたわ。
なんだか、気が抜けちゃった。
でも授業の時間が終わって、帰り際に真剣な顔して、あたしを見つめて言ったの。
『美湖ちゃんがほんとに勉強したくないなら、ぼくはもう、ここに来れないね』って。
そういう言い方されると、反抗したくなるじゃない?
『じゃあ、もう来なくていいわ』って言っちゃったけど、彼が帰ってしまうとすごく寂しくなって、『ほんとにもう来ないのかな?』って、とっても心配になってしまったの。
なのに次の週には、そんなこと言ったのも忘れたかのように、ケロッとした顔でうちに来た直樹さんを見て、またムッとしたけど、ほんとはとっても嬉しかった。
今から考えると、直樹さんって、最初からあたしの扱い方がうまかったのかもしれない。
直樹さんは家庭教師のバイトをいくつか持っていて、あたしの家には週2回の2時間だけ教えに来てくれたけど、受験の追い込みに入る秋の終わりくらいからは、ほとんど毎日来てくれたわ。難しい試験に受かったのも、直樹さんのおかげだった」
「みっこはその頃はもう、藍沢さんのこと、好きだったの?」
喋りっぱなしで乾いた喉を潤すように、みっこは紅茶を飲みながら、コクンとうなずく。
「多分… さつきの言うように、はじめて会った瞬間から、好きだったんだと思うわ。
なにもかも、あたしよりずっと大人びていて、あたしが思いっきりぶつかっていっても、すんなりと受け止めてくれるような、そんな余裕が好きだった」
「そうよね。藍沢さんって、話し上手で聞き上手だもん。やっぱり大人の余裕よね」
「でも、あたしは受験で勉強浸けだったし、あの人とは七つも歳が離れているでしょ。だからあの人は、中学生のあたしなんか、問題にしてないだろうって感じてて、ほとんどあきらめていたの。
それでもあの人の来る日は、いちばんお気に入りのお洋服を着たりとか、部屋を綺麗に片づけて、ポプリを置いたりとかして、少しでもあたしのこと好きになってもらいたくて、落ち着かなかった。
ただ、勉強を教えにきてくれるだけで、そんなにそわそわしてしまうなんて、今考えると、なんだか照れくさくって、恥ずかしい」
「でもそういうのって、とっても素敵なことよね~」
わたしの言葉にみっこは軽く瞳を閉じて、しばらく口を
その頃の甘酸っぱい、綺麗な想い出を、味わうように…
つづく
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