Moulin Rouge 10
なんとも言えない複雑な気持ちで、わたしはドレッシングルームをあとにした。
自分の力のなさを、痛いくらいに思い知らされた気分。
『みっこのそばについていてあげたい』という気持ちに引きずられながら、わたしは力なく、螺旋階段を登っていった。
ふと、視線を上げると、階段の途中に、川島君の姿があった。
「川島君…」
彼の姿を見たとたん、安心したような、なにかにすがりつきたいような、そんな思いにかられて、わたしは階段を駆け上がり、彼の胸にしがみついて、顔を埋めた。
「さつきちゃん。森田さんは… どうだった?」
「泣いてる。だけどわたし、どうすることもできない」
「どうすることも?」
「そうなの。
『忘れた方がいいよ』とか『新しい恋を探した方がいいよ』とか言ってみても、みっこは一年も過去から抜け出せないでいるじゃない。わたし、みっこに言ってあげられる言葉が、見つからない。
わたし… 思い上がってた。みっこのこと、分かってあげられるって。
わたしって、全然みっこの親友なんかじゃないよね…」
ひとり言とも愚痴ともつかないことを言いながら、しがみついているわたしの手を、川島君はぎゅっと握って言った。
「そんなことないよ。さつきちゃんは、見守っていてあげればいいだけだよ」
「そう?」
「森田さんは今まで、自分のことは全部自分で解決してきたんだろ? 今度だってそうだよ。さつきちゃんがそばにいるだけで、きっと森田さんも力づけられると思うよ」
「…そうかな」
その言葉に少し安心して、わたしはまたその胸に頬を埋めた。
川島君はこんなに優しく、わたしのことを気遣ってくれる。わたしのそばにいてくれる。
なのに、いつかはわたしたちも、別れてしまわなければならないの?
わたしも今夜のみっこのように、涙を流さなきゃいけないの?
「わたしたち、別れるの?」
わたしは唐突に、川島君に訊いた。
「藍沢さんの言うように、わたしたちにもいつかは、ターニング・ポイントが来るの?
それは、どうしようもないことなの?」
わたしは川島君の瞳を見つめた。とにかく、確かなものが欲しかった。
「ぼくはあんな、運命論みたいな考え方は、嫌いだ」
力強くわたしを見つめて、川島君は言う。わたしはその瞳を、すがるような気持ちで見上げていた。
川島君はぎゅっとわたしを抱きしめると、わたしの頬に手をそえる。
暖かいぬくもり。
彼はゆっくりと顔を近づけ、わたしに唇を重ねた。
「ん…」
彼の柔らかな暖かさが、唇をとおして、からだ全体に満ちていく。
痛みをやわらげるかのようなぬくもりに、からだの力が抜けていき、わたしは川島君にからだを預けた。
いったいどのくらい、そうしていたかは、わからない。
ただ、気がついたら、川島君はわたしの肩にぽんと手を置き、微笑んでいた。
「お互いが相手のことを思いやってさえいれば、ターニング・ポイントなんて来やしないよ。絶対」
「…ん」
恥ずかしさで頬を赤らめ、わたしはうつむいてひとことだけ応えた。
そうよね。
運命なんて、自分の力で切り
ただ、安らかな想いだけが、わたしの中に溢れていた。
チークナンバーが数曲続き、フロアにユーロビートの活気が戻ってきた頃、みっこはようやく
わたしは真っ先にそばに駆け寄る。
「みっこ…」
彼女はちょっと驚いたようにわたしを見たが、すぐにわたしの心配を察して、それを打ち消してくれるかのように、かすかに微笑んでうなずく。
さっきまでの森田美湖とは、もう違う。
彼女のはにかむような微笑を見て、わたしはそう感じた。
ドレッシングルームでひとり、気がすむまで泣いて、みっこはなにかを掴んだのかもしれない。
川島君の言うように、彼女は自立心の強い子だから、下手にわたしが声なんてかけない方がよかったんだ。
みっこは藍沢氏が座っているソファの前まで進み、明るく声をかけた。
「直樹さん、まだいたの? あなたの恋人、ずっと放ったらかしでしょ?」
「え? そうだな。まあいいさ。今日は大勢で来てるから、ぼくひとりが抜けたところで、どうってことないし」
「ばかね。彼女に紹介してほしいのよ」
「え?」
「さっきはあんなに会わせたがっていたじゃない? だったら、ここに連れてきてよ」
「みっこがそれでいいなら、ぼくはかまわないけど…」
不意打ちを食らったように藍沢氏は戸惑っていたが、おもむろにソファから立ち上がると決心するようにうなずき、言った。
「君のことは、やっぱり愛しているよ。一年経って、今日、ようやく気づいた」
「…」
「ぼくたち、どうしてこんなことになってしまったのかな? こんなに傷つけあう必要は、なかったはずなのに」
「…」
「結局、君のことを思いどおりにできなくなってきた苛立ちから、君を屈服させようとして、悪あがきしていたのかもしれない」
「…」
「ぼくは君を中学生の頃から知っているけど、きっといつまでも子ども扱いしていたんだ。
だけど君はいつの間にか、おとなの女性になっていた。
これからはお互いに、ひとりのおとなとして、つきあっていかないか?」
「あたし、あなたが知らないこの一年でも、ずいぶん変わったわ。だからもう、あたしはあなたの知ってるあの頃のあたしとは、全然違うと思うの。あたしがおとなになったことに気づかなかったように、あなたはそれにも気がつかない。だからもう、わかりあえないわ」
「そんなことはない! 君のことをいちばん理解しているのは、このぼくなんだから」
「じゃあ、あたしが今、なにを考えているか、わかる?」
「君は… 後悔している。モデルをやめたことを。ぼくから離れたことを。でも君は強情だから、それを認めたくない」
「…」
「ぼくもわがままが過ぎた。これからは君を大切にするよ。一年前のことは、もう忘れよう」
「…ダメね」
「え?」
「たった一年で新しい恋人を作ってるような人に、そのセリフは説得力がないわよ」
「恋人と言っても…」
「言い訳はいいから、彼女、連れてきて。あたし、今は、あなたがあたしより素敵な人と、幸せになってほしいって。それしか考えてないの」
「そんなの… ははは…」
しぼむように笑いが消えてしまった藍沢氏は、みっこに促されて、フロアを横切っていった。そしてすぐにひとりの女性を連れて、戻ってきた。
背が高くて細身で色白の、さらりと綺麗なロングヘアがとっても清楚な、おとなしい感じの女の人だった。
ウエストがきゅっと締まったAラインのロングワンピースが、よく似合っている。
顔も小さくて整っていて、瞳が澄んでいて美しく、まさに『モデル級』。
彼女とみっこの間に立って、藍沢氏はお互いを紹介した。
「美由紀さん。彼女は森田美湖さん、ぼくの、友だちなんだ」
「はっきり言ってもかまわないんじゃない? 『昔の恋人』だって」
みっこがそう言って茶化す。その言葉に、美由紀さんはわずかに眉をひそめて、唇を固くむすんだ。
「…みっこ、彼女は
「あら、直樹さん。そういう言い方は相手に失礼よ。マナー違反だわ」
藍沢氏にそうやり返すと、みっこは美由紀さんに向かって左手を差し出す。
「よろしく。森田美湖です。もうお会いすることはないでしょうけど」
みっこの言葉に美由紀さんはかすかに構えて、その手を握り返した。
藍沢氏は握手するふたりを、なにも言わずに見つめていた。
ふたりの間でぎこちなく、居心地悪そうにしている。
そんな彼がわたしには、オペラグラスを逆さに覗くように、小さく見えた。
みっこは握っていた左手をほどくと、藍沢氏を振り返り、とっても可憐で素敵な微笑みを浮かべながら、明るく言った。
「おめでとう直樹さん。あたしの負けね」
END
20th Apr. 2011 初稿
25th Oct.2017 改稿
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