Moulin Rouge 9
「川島君と弥生さんは、恋人同志なんでしょう?」
「え? ええ、まあ…」
藍沢氏の言葉に、わたしと川島君は顔を見合わせた。彼は続けて訊いた。
「いつから?」
「まだ一ヶ月くらいです」
「お互い、初めてのつきあいですか?」
「ええ…」
「けんかをしたことは、ありますか?」
「ほとんどないです」
「今、幸せですか?」
「ええ…」
藍沢氏の問いに、わたしと川島君はかわるがわる答える。彼はうなずいて言った。
「じゃあ、まだわからないな」
「え? なにがです?」
「恋愛にも起承転結があるってことが。
あなたたちはまだ『起』の段階だろうけど、様々なできごとを経て、いつかは『ターニング・ポイント』を迎えるんですよ」
「ターニング・ポイント?」
「陽から陰に変わる。『坂を転げ落ちていく』ってことですよ」
「…」
「それに気づいたときは、もう遅い。
いったん陰に変わってしまうと、もう簡単には元に戻らない。
どんなにあがいても取り戻せないし、取り戻せないからよけいに執着してしまって、まるで取り憑かれたみたいに、愚かなことばかりしてしまうんです。
目の前にあるのは絶望ばかり。
それから逃れるために、ふつうの判断能力すらなくなってしまう。
心もからだも、暴走してしまう。
よく新聞を賑わす、失恋した相手を殺して自分も自殺するような人間を、ぼくは愚かだと笑えませんね」
「…」
「あ、ごめんなさい。これは一般論で、全部があなたたちに当てはまるってわけじゃない。
だけど気をつけた方がいい。想いが真剣な分、恋愛の末期は恐ろしいですよ。
ぼくとみっこが
最後にそう言ったきり、藍沢氏は黙り込んで想いに耽るようにうつむきながら、グラスを傾けるだけになった。
わたしも黙っていた。
『ターニング・ポイント』の話は、やっぱりショックだった。
わたしは川島君との別れなんて想像したこともなかったし、したくもなかった。
ふたりの仲は永遠に続くものだと、信じていた。
だけど、それはただの錯覚。幻想でしかないの?
わたしたちにも、いつかは別れのときが来るの?
さっきまでの藍沢氏とみっこのやりとりの中に、つい、自分と川島君の未来の姿を重ねてしまう。
どんなに愛していても、思い通りにならないことがあるの?
そして、『ぼくとみっこが辿った道を、あなたたちには歩いてほしくないな』という藍沢氏の言葉が、わたしたちの未来を暗示しているようで、怖かった。
ふと、気がつくと、フロアに流れる曲は、ゆるいバラードになっている。
古いシネマの名曲、『カサブランカ』のやるせないメロディが、インクが広がるように、じんわりと心の隅々にまで
フロアに視線を移すと、人はみな頬を寄せあい、抱き合いながら、わずかにリズムをとっている。
だけど、どんなにきつく抱きあってみても、ふたりの間には、深くて暗い溝がある。
人間なんてしょせん、ひとりで生まれて、ひとりで死ぬ。
だれだって、最後はいつもひとり。
恋愛なんて、そんな辛い現実を忘れさせるための、ひとときの夢。
友情も親友も、ただの幸せな錯覚…
「弥生さん。悪いがみっこを… 見てきてくれないか?」
ポツリとひとこと、藍沢氏がわたしに言った。
「はい!」
自分の中の淋しい思いの連鎖を断ち切るように、わたしは明るく振るまい、席を立った。
ドレッシングルームの灯りは、ほんのりと柔らかい乳白色。
フロアへ続く扉を閉めると、『カサブランカ』はゆるいBGMになった。
窮屈な
そこに、森田美湖の姿はなかった。
足音を忍ばせ、わたしはさらに通路の奥の部屋をのぞいてみた。
そこは鏡が並び、簡単な仕切りで区切られた、教室くらいの広さの更衣室だった。
人の気配はない。
部屋の中ほどまで入っていき、わたしはあたりを見渡す。すると、いちばん奥の鏡台にもたれかかっている、赤いドレスの森田美湖の姿が、つい立て越しに垣間見えた。
「みっこ…」
少しほっとして、わたしは彼女のそばに近寄っていこうとした。
が、そのとき、BGMとは違う、別のかすかな音がわたしの耳に入ってきた。
床にひざまづいたまま、みっこはドレッサーにうつ伏せになって、両腕で顔を覆っている。
みっこの背中は… 震えている。
思い出したように『ひっく ひっく』と、しゃくりあげる音がする。
みっこの
泣いてる?
みっこが?
泣いているんだ。
あの森田美湖が!
そのとたん、胸がキュンと締めつけられ、こみ上げてくる思いでいっぱいになった。
森田美湖って、わたしが思っているほど、強くてしたたかな女の子じゃなかった。
わたしと同じように、恋に傷つき、悩みを抱える、ふつうの女の子。
その震える小さな背中を見ていると、そばに駆けよって、慰めてやりたい気持ちになる。
「みっ…」
一瞬出かかった言葉を呑み込み、踏み出した足を止めて、わたしは立ちすくんだ。
今の状態のみっこに声をかけたところで、わたしになにができるだろう?
あの、プライドが高く、人に弱みを見せるのが嫌いな森田美湖に対して、どんな言葉があるというのだろう。
もう一年も、みっこは失恋の傷に苛まれている。
慰めも同情も、きっとみっこの傷を癒すことなんて、できない。
彼女のそばに寄ることができず、かといって、このまま引き返すこともできず、わたしはただ、遠くから見守っているだけだった。
どのくらいそうしていただろう。そのうち、螺旋階段をカンカンと駆け下りてくるハイヒールの音と、数人の女の子の話し声が聞こえてきた。
みっこに見つかるのはよくない。
そう感じて、わたしは彼女に気づかれないよう、そっと部屋を出た。
今のわたしが彼女にしてあげられることは、そっとひとりにしておいてあげること。
多分、それくらいだと思ったから。
つづく
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