光の届かない場所 17

 タジが底板を蹴って跳び上がると、小舟はその衝撃に耐えきれずに海の藻屑と化した。

 顔を模したミレアタンの先端に向かって、タジは腕を振り上げる。

(ッ!?)

 その開かれた手に強い違和感を覚えたミレアタンは、身を不格好にのけ反らせて、振り上げられたタジの腕の軌道から回避した。

 タジの右手が空を切る。その軌道上に、見えない何かが生まれているのをミレアタンが察知するのと、タジがその見えない何かを右手の運動量で自転しつつ左手で掴んで片手で逆上がりをするようにその上に登ったのはほぼ同時だった。

(まさか)

「そのまさかだよ」

 水中で、力の流れそのものの存在が後ずさるような仕草をするのが分かった。

 ミレアタンに五感があるかどうか、それはタジには分からない。それでもタジの攻撃に対して何か危機を感じてミレアタンが距離を取ったことだけははっきり見て取れた。

 そもそも危機感などというものは、命あるものが死を恐れるがために防衛本能によってうみだされたものだ。自身をこの世界の「責任者」だと宣うような意思だけの存在が、危機感を覚えるはずがない、とタジは思っていた。

「お前に危機感があるとは、思ってもみなかったよ」

(危機感がなければ、世界の異変には気づけないからね)

「なるほど、そういう見方もあるわけだ。と言うことは、俺は今、危機を与える側の人間になっているっていうことだな」

(キミが人間だとは、ボクにはあんまり思えないんだけどね)

 絶大な力を持っていれば、その世界が箱庭に見えてくることもあるだろう。大きな虫かごの中で全てを与えられて人間に生かされるカブトムシがその虫かごの世界を認識しないように、人間もまた、この世界をミレアタンのような存在に与えられて生きているのだとすれば……。

「虫唾が走るね」

(何の話だい?)

「こっちの話だよ」

 タジが、見えない何かを蹴って、ミレアタンに突進した。水の流れを凝縮させたミレアタンの身体は、タジが向かってくるよりも早くその身を解いてただの海水へと姿を変えていく。

 真下の海流が、大きく渦巻いた。

 ミレアタンの内包していた力の流れが一気に海水に溶け込めば、そこには嵐のような奔流が生まれる。タジ直下の海は、台風の目のようにその海水の奔流によって干上がり、目が生じつつあった。

 台風の目のような海流の穴は、タジを睨みつけているようにさえ見える。

(キミを無力化させるにはどうしたらいいかな?)

「俺に聞くなよ」

 海流の壁、海に開けられた穴。落下するタジの周囲が一面奔流となったその時、タジはその撹拌機のような海流に押しつぶされた。

(今度は、物理的に止めようか。永遠の渦の中だ)

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