光の届かない場所 05

 タンクの呼吸弁を口に咥えて呼吸を一つ。

 視界がグラリと傾いて、それから真っ暗な世界へと戻った。

 夜空にぽっかりとあいた月は、先ほどよりもずっと早くに判然とする。覚悟をしていれば、闇夜に目が慣れるのも早い。

 タジは呼吸を止めた。タンクの中の空気を吸うことが時間軸を移動する条件であるのならば、あまり頻繁に中の空気を減らしてはいざというときに困る。それこそ、二度と太陽から逃れることができなくなるかも知れない。

 夜の世界にコンはいなかった。辺りを見回しても、他に人の気配は無い。

 しかし、時間軸を移動して夜の世界に来たはいいが、それからどうすべきかが全く分からない。太陽の光が届かない場所、それはおそらく月の光さえも拒絶する必要があるはずだ。

 あらゆる光の届かない場所。

 やはり、水中しかない。タンクがその証拠だ。昼だろうと、夜だろうと、海底の深いところは闇の世界。あらゆる地上の光の届かない世界だ。

 しかし安易に海へ潜ろうとすれば、ミレアタンがそれに気づかないはずがない。彼は海流そのものであり、海中にある水の流れが彼の身体である。ウデカツオとコンたちが呼んでいた魔獣がタジを海底へと引き込むときに、タジは何度も凪の海の中ほどを流れる海水の通り道を横断してきた。

 横断する、ということはミレアタンの身体を通り抜けることと同義であり、月夜のわずかな光で彼の身体を避けて海底へと潜っていくのは極めて難しい。

(ん……?)

 タジは違和感を覚えた。

(この沢が海へと続いているとして、汽水域の流れはどうなっている……?)

 ミレアタンは海竜である。川の流れや、川から流れつく汽水域の流れが、ミレアタンの身体であるとは考えにくい。また、どのような理屈かは分からないが、汽水域は塩分濃度が高くなるほど海と同じように凪の状態になっていた。

 川の流れを利用しつつ、水底を滑るように……ヒトデやカニのように、水底を体を低くして歩いていけば、ミレアタンに気づかれないかも知れない。

 そんな推測を重ねていくうちに、汽水域まで戻ってきた。

 目の前には、月の形が浮いた鏡のような海の水面。

 タジは一切呼吸をせずに数十分の道のりを戻ってきたわけだが、汽水域へと戻ってくる間、一度たりとも時間の牢獄たる太陽の沈まない世界へと戻ることはなかった。

 咥えていた呼吸弁を口から外すと、タジは小さく息を吐いて、静かにゆっくりと息を吸うと、間もなく世界は再び太陽のギラギラと照る世界に戻った。

 汽水域のさらに向こう、近くのシシーラの村の方から、驚くほど多くの人の気配がする。

 見つかってはマズいことになりそうだ。タジは再びタンクの呼吸弁を含んで中の空気を吸った。

 辺りは再び夜の世界に包まれる。

 視界に飛び込む光量の急激な変化に目の前をチカチカさせながら、タジは汽水域から海へと体を屈めてゆっくりと侵入した。

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