凪いだ海、忘却の港町 53

 鮮血が靄となって海水中にジワリと混ざった。

 赤色の靄はゆるゆると広がっていき、あっというまに周囲の水に溶け込んでしまう。後には無残に千切られた魔獣の体が残っているのみだった。

 一斉に襲いかかる魔獣の一体に向かって、タジは文字通り牙を剥いた。野蛮だとは分かっていたが、身体が口に何かを入れるのを求めたのだ。不自然に生えた腕を除けば、彼ら魔獣は全くもって海の魚である。何らかの意思疎通方法があったとして、その言語ないし方法が分からなければ、同情よりも残酷さが勝る。

 彼らの肉を食んだタジは、その味に強い満足感を覚えた。

 仲間の一体がタジに齧られ、前腕を掴まれた腕を外そうともがくうちに、タジに食われた魔獣は失血死してしまった。浸透圧の関係なのか、血の流出が早いようだ。

 海中にこれだけ長くいて生きていることもさることながら、仲間を食らう人間など見たことの無かった他の魔獣たちは、その出来事に思わず尻込みし、襲いかかるのを止めてしまう。

 タジは、その肉をもう一度噛み千切った。

 息を吸っているという感覚はないが、心なしか息苦しさが解消されているように感じた。飲み込む魔獣の肉は海水に味付けされて塩辛く、余計に水分が欲しくなるような味だったものの、飲み込むという行為が身体にもたらした影響は、延々息を止めていなければならなかったタジに人間の自然な行為を思い出させたようだった。

 魚がその身にため込んでいた酸素を食べることによって取り込んだのだろう。普通の人間にはそんな芸当不可能だし、呼吸の代わりにするにはあまりにその量は少ない。

 それが可能なのは、タジが人間離れしているからだ。

 しかし、今はとにかくそれに縋るしかなかった。

 タジはさらにその絶命した魔獣の肉を口にする。噛み跡に見える赤身の肉は、鮪や鰹を思わせる。背中辺りの肉厚さと脂ののりは最高だ。その上、口にすればわずかながら息苦しさが解消されるというのだから、これ以上ない。

 足から離れた二体の魔獣も、今ではしっかりタジから距離をとっている。

 海底からゆっくりと浮き上がるかと思ったが、タジの身体は特に浮き上がることもなく、岩礁に爪先が微妙に届くくらいのところでふわりと浮いているような感覚だった。

「今度はこちらの番だな」

 噛み跡のついた魔獣を放り投げると、ゆったりと海中を海月のように漂う。タジは他のまだ生きている魔獣と向かい合う。

 攻守交替だ。

 今度は、魔獣の方が逃げる番だった。

 逃げなければ、食われる。

 タジに食われた魔獣の亡骸が地面に着くのと、タジが残った魔獣たちに襲いかかるのは、同時だった。

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