凪いだ海、忘却の港町 15
夕焼けの城下町を夕食を求めて飯店に入り、その机の上を目の当たりにして、イロンディが不満顔でつぶやいた。
「こんなに良いものばかりを食べていたら、太ってしまいます」
「良いものが食べたかったんだろう?馬車の中で言っていたじゃないか」
眠りの国において一二を争うほど有名な飯店へと誘われたイロンディは、そこで見たこともない豪勢な食事をタジによって振る舞われた。
「眠りの国における最上の贅沢は海魚だから、どうしても格は一段、落ちるんだけどな」
山の幸がこれでもかと机の上に並べられていた。
主菜である牛肉は、赤身の間にうっすらと脂肪の入っており、川魚のように塩をふって焼いただけだと言うのに、牛肉そのものの固さは全くなく、唇で噛み切れるかと思うほどに柔らかかった。
じっくりと熱を加えられた野菜は、甘味が極限まで引き出され、その上で炭の香りをつけるために表面を軽く強火で炙ってある。口の中に入れれば、表面の香ばしさとほのかな炭の香り、そしてトロトロにとろける野菜そのものの甘さが三重奏を奏でた。
パンは二種類。全体的に硬く、スープの浮き身にするために作られたような細長いパン。噛むほどに小麦の旨味を味わえる。もう片方は、驚くことに、中に山苺の砂糖煮が練り込まれて焼き上げられていた。表面にバターを塗って卵型に焼かれたそれは、お菓子のように甘い。
どれも聞いたことの無い調理法が使われていた。
「俺が提案した料理もあるんだぜ?」
タジは野菜と菓子のように甘いパンを指差す。
「これもそう。俺が話した案を素に店主が作ったものだ」
そう言って、持ち上げた皿の上には、何の変哲もない殻付きの鶏卵が乗っていた。
「割って中身を開けてごらん」
イロンディが促されるままに卵を皿の上に割ると、とろりと熱の入った白身と、加熱されて八割ほど固まった黄身という、よくわからない状態のものが現れた。
「な、なんですかこれは?」
「あー、俺は温泉卵って呼んでいるんだが……この国ではあんまりよくは思われない名前だったらしい。この国では眠り卵と呼ばれている」
ポケノの山には温泉があり、一か所はポケノの町で鉱山仕事を終えた男衆が汚れを落とすために入る臭い風呂である。もう一か所は、教会の頂点に立つ者だけが利用できる秘湯であり、そこは禁足地として、一般人は立入禁止の区域となっていた。
「眠り卵……」
「特製のたれをかけて食べるとうまいぞ」
たれの入った小皿から、そのまま眠り卵に流しかける。汁物をすするように皿を傾けて口の中に入れるタジの様子を真似して、イロンディも同じように口に入れた。
食というのは文化そのものだ。
タジが最初に温泉卵を眠りの国に広めたときは、酷い反発があった。もともと、鶏卵を生食する文化はなく、多少熱が加わったところで、結局はドロドロのままだ。最初に口にするための一さじまでが大変だった。
しかし、イロンディにはその躊躇いがない。
地図師として知らない国に行ったとき、相手の食のもてなしを蔑ろにすることは、相手の文化を侮辱することに他ならない。だとしたら、例えどんなものだろうと、相手がそれを口にしている以上、自分も食べなければ友好な関係を築けるはずもない。
「なるほど、美味しいですね」
イロンディが言った。
「始めの一さじをたじろがなかったのは、イロンディが初めてだよ」
「フフ、私は優秀な地図師ですから」
互いに顔を見合わせて笑った。
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