荒野に虹を 85

 空にかかった虹は、眠りの国からも見えたそうだ。

「チスイの荒野に虹がかかったのを見て、レダ王は勝利を確信したそうですよ」

「ああ、そうかい」

 眠りの国の目抜き通りに建てられた飯店の二階、特別室に誘われたタジは、そこでムヌーグと同席し、ゴードの所属する商会の相伴に与った。

 チスイの荒野に虹がかかって十日。

 ゴードはチスイの荒野で仕事に忙殺されている。片腕の痛みが頭脳労働の効率を半減させていると嘆いていたが、元々仕事の多い人間だ。後輩育成のために本部から数人が派遣され、ゴードの下で指導されつつ補助をしているらしい。

 ポケノの町でも、アーシモルが色々と事を進めているらしいが、急いては事を仕損じる、ということで、まずは地固めからだと思っているそうだ。これから生じる遺児や孤児をどうするか、という問題は残っているが、杜撰な対応ができない問題だということはかつて自分がそうだったアーシモル自身が知っているはずだ。蔑ろにすることはないだろうと思えた。

「しかし、怪我の功名というか何というか、あの大雨が呼び水になるとは思いませんでしたね」

 商会からゴードの代わりにやってきた上役の一人が言う。名乗ったはずだが、タジはその名前が覚えられなかった。波形の癖がついた黒髪を後方に撫でつけて、口ひげには目の前の海魚の水煮の脂がついている。物腰は下品ではないが、権力にあぐらをかきすぎて上品さを失ってしまったような男性だった。

 もう一人は線の細い壮年の女性で、目を細めながら食事をとっている。長い髪を後ろで括って巻き上げるように整え、大きな無地の髪留めでとめていた。

 二人に共通するのは、利き手がインクで真っ黒であることくらいなものだ。長い間、帳簿と格闘してきた彼らの指先は、もはやインク汚れが落ちなくなってしまったのだろう。

「確かに僥倖だった。荒野の地中にポケノを流れる川の水が染み込み、それが地表に現れ竜巻が散水塔となるのにはもっとかかるものかと思っていたが、おかげでチスイの荒野は迅速に立て直せるだろう」

 雨が地下に染み込み、染み込んだ水が誘い水となって川から染み込んだ下流の水を引き込んだ。地表に溢れ出る水は自然によるろ過が働いて真水であったし、竜巻がいつどこに現れるかは、人間にも魔獣にも予測がつくものではなく、よって魔獣は組織だって人間側へと攻め入ることが出来なかった。

「水が苦手であるということを素直に利用する。方法としては単純ですが、物事は単純であるほど強力でもあります。全く、タジ殿には驚かされますよ」

 男性が手首を口ひげにあてて脂を拭き取った。インクにまみれた指先で拭くのがはばかられるための苦肉の策だ。

「その件でゴードには色々と世話になった。まあ、危険に曝した挙句に手首から先を片方、失わせてしまったのは素直に申し訳ないと思ったさ」

「ゴードは文句を言いましたかな?」

 タジが首を横にふる。男性は口ひげの下で口角を上げた。

「でしょうな。正しき商人の魂があれば、そんなことで文句を言うはずがない。危険にさらされ実際に何かを失っても、それ以上に得るものがあるのなら文句を言うはずがない。天秤の傾きは、こちらに傾いているほど良いとされるが、傾きが急すぎれば天秤は意味をなさない」

「過ぎたるは及ばざるがごとし」

「いえいえ、強欲は身を滅ぼすというだけの話です。ゴードはその辺りをきちんと弁えているからこそ、タジ殿を引き寄せたのです」

 タジがゴードと出会ったのは全くの偶然だ。しかしその偶然は正しき行いの結果だと男性は言うのだ。

「なるほど、教会付きの商会という意味がよく分かった」

 男性は破顔し、冷えた紅茶を飲んだ。

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