荒野に虹を 65

 とにかくその場を去るしかなかった。

 丘陵の多いチスイの荒野は、風食による谷戸のような場所がある。

 すり鉢の側面をえぐるように作られた谷戸は、人が隠れるには絶好の場所だ。月の位置で大体の方角をつかみながら、ゴードを抱えてイヨトンは走った。追手との距離は離れなかったが、丘陵のおかげで姿をくらませることができ、丘陵のくぼみに二人で身体を詰め、声を潜めている。

「どうして私を見殺しになさらなかったのですか」

 触れる肩の震動でようやく聞き取れるほどの小声でゴードが囁いた。

 イヨトンは口に人差し指を当てる。

 目の前がわずかに明るくなった。追手の篝火が周囲を照らして捜索しているのだろう。

「魔獣が攻めてきたぞ!」

 突然、二人が背中を預けている丘の上から、追手の騎士が叫んだ。

 ゴードは騎士の声を聞いてイヨトンの顔を見る。周囲の警戒に緊張の面持ちだったイヨトンは、丘の上から聞こえる騎士の声を聞いて、わずかに微笑んだ。

「逃げた方向は……」

「ゴードの想像通り、チスイの荒野の奥側、斥候が伝えた魔獣組織の近くです」

 モルゲッコーが斥候を使って有機的な軍隊の運用をすることは聞いていた。だからイヨトンは色々と手を尽くして、現在チスイの荒野で魔獣がどこで組織だって動き始めているのか、どこがたまり場なのかなどを報告書や非番の傭兵などから確認を取っていたのである。

 騎士ではなく傭兵から確認を取ったのは、用兵に不平不満を持つ側の方が情報をよく有しているだろうと思ったためだが、追手の騎士たちの動揺ぶりを見ていると、権力にふんぞり返ると思わぬところから寝首をかかれるものらしい。

「一応、備えておいて良かった、というところです」

 夜の荒野は急激に冷える。それでもイヨトンの額には一筋の汗が伝っていった。緊張はまだ完全に途切れさせはしないが、それでも急場は凌いだ。

「しかし、これでは身動きが取れません」

 切り替えが早いのは商人の癖なのか。ゴードは既に次の事態について頭を巡らせているようだった。

 安心してほっと一息つくのではなく、すぐに次の行動へ。

 そういう心の切り替えが簡単に出来ることが、優秀な商人の証なのかもしれない。イヨトンがそんなことを思っていると、遠くから魔獣と騎士との小競り合いの音が聞こえてきた。

 魔獣の鳴き声、人間の雄たけび、叩きつけられる武器と武器。篝火は次々とそちらに向かって流れていく。

「混乱に乗じるなら今のうちに行動を起こすべきですが……」

 チスイの荒野でタジの帰りを待っていることはもはやできない。しかし、だからと言ってポケノの町や眠りの国に逃げ込もうとも、それだけはさせまいと、既に各地の入口には衛兵が待機しているだろう。

「逃げるしかない、という状況ですか」

「商会のつながりでどうにかできませんか?」

「連絡のつけようがありません」

 魔獣との戦いに出向く人間が飽和状態になると、必然的に再び捜索にあたる人員が多くなる。チスイの荒野はいつまでも逃げられるほど隠れ場所が多いわけではない。

「いたぞ!」

 篝火の灯りに照らされて、二人の姿が晒される。

「こっちです!」

 イヨトンに促されるままに、ゴードは走り出した。ポケノの町の方に向かっているのはゴードも分かったが、その先に何があるのかは未知数だ。少なくとも、今は走って逃げ続ける限り、前に回り込んでくる伏兵は出てこないはずだ。

 この場で一番避けるべきことは、八方塞がりになることだった。イヨトンだけならもっと速く走れる。逃げられる。それを思うと、お荷物でしかない自分の状況に、ゴードは奥歯をギリリと強く噛んだ。

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