祈りの歌姫と紅き竜 18

 紅き竜が祈りの歌姫を連れ去ると同時に、最前線にいた司令官は混乱した。言い置かねばならないことだが、チスイの荒野における司令官は、有能な者がその任に就く。これはその時の司令官も例に漏れない。

 ただし、その司令官は平時において有能だったのである。

 おかしな話だが、戦場は平和だった。祈りの歌姫が現れるまで魔獣側と人間側の戦力は拮抗しており、一進一退を繰り返すものの、戦場が大きくどちらかに傾くことは無かった。そういう局面において、赤獅子の騎士団から有能と選出された司令官は正しく司令官として権能を揮い、指揮をした。平和な戦場が彼を有能たらしめていたのだ。

 そこに祈りの歌姫が現れ、戦場の力の均衡は大きく人間側に傾いた。

 初めは祈りの歌姫に対し慎重な運用を心掛けていた司令官だったが、その八面六臂の活躍と、戦場を駆ける歌姫の美麗に次第に心を奪われた。連戦連勝の美酒も相まって、司令官は次第に己の力量に酔い始める。……それが歌姫のもたらしたものであることをすっかり忘れて。

 広げられた地図に描かれた三本の等高線のようなものは、前線の推移であった。魔獣側に食い込んだ線が、歌姫の活躍による連戦連勝で破竹の勢いだったころの戦線、真ん中は拮抗状態にあった頃の戦線、そして今、戦線は人間側に歯型のように食い込んでいる。引かれた線に短い線が縫い糸のように描かれているのは、そこが戦闘状態を示すものであるらしいが、だとしたらその戦線は一目でかなり伸び切っているのが分かる。

「つまり、勝利の美酒と戦場の美姫に泥酔した司令官は己の能力を弁えずにしっぺ返しを食らった、と」

「止められなかった我々の責任でもあります」

「はッ、あの状態を誰に止められるっていうんだ。誰もが人間側の快進撃に酔いしれていた。あの熱狂が戦線の士気を高めていたからこそ俺らは多少の怪我などものともせず戦っていられたんだぜ?」

 二人の言葉がやや芝居がかっているようにさえ感じられたのは、二人が何度もそのことについて反省し、言葉にしていた証左のようであった。

「当時の反省をいくらしたところで、もう司令官は帰ってこないだろうな」

 戦に負けることは常であっても、肝心な場面で逃げ出す司令官は失格の烙印を押されてしかるべきである。命令に従うのは、信頼に足る司令官であればこそ。信頼は威厳によって齎される場合もあるし、実力によって齎されるものもある。敗戦によって実力を疑われ、逃亡することによって威厳を失い、騎士団としての矜持すらも失った指揮官に再起の道はもはやない。

「その代わり、そういう混乱の中でこそ頭角を現す者もいる、という訳か」

 ラウジャは、逃亡した指揮官の代わりに戦場を駆け巡り、敗走の殿を自ら務めて、混乱の只中にあった戦線を立て直した。

「ラウジャの功績がなければ、チスイの荒野は魔獣側にもっと食い込まれていたでしょう」

「ありがとうございます。しかし、私はその為に多くの同胞をその手に……」

「同胞……どういうことでしょうか?」

 ラウジャの表情は複雑である。イヨトンの問いにオルーロフの表情も曇った。

「紅き竜エダードの吐いた炎によって、戦場の多くは灰燼と化しました。かろうじて人間の形をしていた真っ黒な遺体、こともあろうかそれらが魔獣化したのです」

 イヨトンが息を飲むのが聞こえてくるようだった。ケムクも驚きで声を出せずにいるらしい。しかし、彼女らの反応に対して、タジのそれは淡泊だった。

「まあ、可能性としては……なくはないのか?」

「可能性!?人間が魔獣化するなど、聞いたこともない!我々人間は太陽と共にあり、太陽の加護を受けている!太陽の加護は魔瘴を跳ね返し、魔瘴から人間を守るものなのですよ!?」

 オルーロフの言葉に、タジは納得する。

 魔獣と、彼ら人間とが戦う本当の意味は、そこにあるのだ、と。

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