【番外編】川のぬしづかみ 8
踵を返して村長宅に向かうと、果たしてムヌーグはそこにいた。昼間から書類仕事に忙殺されているアエリの机の横で優雅に茶などを飲んでいる。タジが現れると、待っていたとばかりににっこりと笑って、目の前のティーセットに両手を広げてみせた。ご一緒にどうですか、と披露しているようだ。
「ハチミツはありませんが、ご一緒にお茶などいかがですか?」
「噂のぬしはアンタか」
ムヌーグは眉を上に動かして、片手でアエリの机を指さした。
「アエリか」
「そうちゃーん」
肯定のつもりなのだろうが何とも分かりづらい返事が返ってくる。
「耳が早いな。なんで俺がぬしを捕まえたことを?」
「見回りの二人が報告してくれました」
タジは言われて思い出す。確かにぬしを捕まえに行く直前に、見回りから帰ってきた騎士団の二人組に出会った。
「あなたが思っている以上に、私たちはあなたのことを見ているのです」
「ほーう、それは監視しているって事か?」
「まさか。庇保しているんですよ」
「庇保の方向が分からないねぇ」
タジのことを守っているのか、タジのことから守っているのか。この二つの峻別を主語のない言葉から判別するのは難しい。
「もーう、お二人ちゃんはなんでそういう回りくどい話し方をするちゃんなの?」
机に積まれた書類の間から覗き込むようにしてアエリが口を挟んだ。
「性分でして」
「ムヌーグがいつも腹に一物あるような言い方をするからだ」
「それでいて妙に仲が良いのがよく分からないちゃんなのよね……それで、何の話だっけ?」
「熊だよ熊。っていうか川についての情報をアエリの知っている限りで教えてくれ」
「教えてくれも何も、タジちゃんが見た通りちゃんよ。川に魔獣ちゃんが現れて簗を壊したちゃん。危険ちゃんだから騎士団に依頼して倒してもらおうと思ったらタジちゃんが手づかみで食べちゃった」
「食べてねぇよ」
「あらそうなのちゃん?」
魔獣を倒せば霧のようになって消えることはアエリも知っていることだ。タジが苦い顔をしてやると、アエリは書類の間で唇を尖らせておどけて見せた。
どうやら川のぬしというのは、アエリの作り話だったらしい。重要なのは、魔獣の出現によって川が危険地帯と化してしまい、子どもを遊ばせておくわけにはいかない、という村長判断だ。
「で?それがどうして『熊が出てきたから川遊び禁止』なんて話になるんだ?」
誰の手であれぬしがいなくなれば川には平和が戻る。今回はタジがたまたま倒しただけで、わざわざもう一度物語を作って川への立ち入りを禁じる必要がない。
「アエリは子どもたちを川で遊ばせたくないのか?」
川遊びは危険だ。
前日の天気いかんで水かさは変化し、それは遊んでいる間にも刻一刻と変化しうる。その上、村の中央を流れる川の勢いは決して遅いわけではない。場合によっては子どもの身体能力だけではどうしようもない急流になることもありうるし、そういう危険に配慮して今後一切の川遊びを禁じるために、熊が出たという話を作り上げた、ということもありうる。
しかしそれは子どもたちの自由を奪うものだ。
危険があるのだったら危険であることを教えたうえで遊ばせればいい。互いの動向を常に見やって、必要があれば直ちに周囲の大人に報告する。対処方法さえ知っていれば、未然に防げる事故もある。子どもたちに与えるべきは安全ではなく、安全をつくる方法だ。
「うーん、そういうことじゃないちゃんなのよね」
「そこから先は私がお話ししましょう」
村長は仕事を、とムヌーグに促され、アエリは渋々書類の海へと帰っていった。
「もう少しくらいアエリに話させてやれよ……」
ここのところ、村長という肩書きに対する書類仕事は莫大なものとなっていた。契約、手続き、決裁、等々。積み上げられた書類の量は、そのまま次の村の発展への礎ではあったが、机にかじりついて一言も発さず羽ペンを動かすだけでは、虫になってしまう。
「これでも我慢した方なのですよ?」
「お前サディストだもんなー」
「ええ、騎士団の仕事を奪った暇な大型動物にお仕置きするくらいには」
ニッコリ笑ってティーセットのある机に立てかけた剣を取るムヌーグに、アエリはため息交じりで言う。
「ケンカするちゃんなら外でお願いちゃーん」
「これだから血の気の多いお嬢さまは」
「タジちゃんもあんまりつっかかんないのー」
何で私が母親みたいなことを言わなきゃならないの……というつぶやきは、書類の海の中に泡となって消えた。
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