狼の尻尾亭 09

 一瞬で詰め寄ろうとしたタジは、しかし滑るように大きく方向転換しようとして失敗し、ムヌーグの目の前で尻もちをついて倒れた。

 タジが詰め寄ろうとしたその場所には、ムヌーグの握るナイフが置かれていたのだ。

「知識と予測ってことね」

「大したことではありませんよ」

 片足を上げて、目の前で尻もちをついたタジに向かって踏むように蹴り下ろす。タジが距離を取るように身をかわすと、待っていたとばかりに剣を抜いて、顔を上げたタジの眉間に切っ先を突きつけた。皮膚に切っ先が触れるか触れないかという距離で止めるムヌーグの技量に感心せざるをえない。

「確かに、単純な暴力では納得してくれなさそうだな」

 彼女の矜持は訓練によって獲得した技術とその応用である。

 肉体を用いた戦闘において互いの身体能力が拮抗している場合、あるいは自分の方が劣っている場合、重要になるのはその肉体を十全に使えることであり十全に使うための技術である。技術は用いる時と場所を選び、そして時と場所とを適切に選ぶには知識と予測が不可欠。実戦経験が埋める問題もあるだろうが、それとは別にムヌーグの動作の中に思考が備わっているように感じられた。

 相手の意図を読み、どのように動くかを予測すること。予測したうえでそのように動くように相手を誘導すること。

 タジが感じたのは、まさしく自分がそのように動かされているという感覚であり、そのような戦い方を評価するのであれば、タジの膂力による押さえつけなど大人の力で子どもの腕を押さえるようなものだ。

 現状、一方的に強くて当たり前な存在と言って差し支えないタジを目の当たりにしてなおもムヌーグが涼しくいられるのは、そこに勝算があるからではなく、負けない、あるいは負けても身の安全を確保できると信じているからだろう。

「単純な暴力では俺の方が強いぞ」

「存じ上げておりますよ」

「うーん、その涼し気な顔を引っぺがしてやりたいな」

「……色々やり方はあるのではありませんか?」

「部下の眼前で衣服を全て脱がせるとか?」

「それで私が納得すると貴方がお思いでしたら」

「そうなんだよなぁ……納得しないと思うんだ」

 矜持である技術を無碍にする一撃でムヌーグを傷つけることはそれこそ大人が赤子の手をひねるくらいにタジにとっては容易なことだ。ただし、赤子の手をひねることに道徳的に抵抗を感じるくらいには理性も残っている。この辺りの事はムヌーグも分かっており、要するにゲベントニスがタジを襲ったのもムヌーグの戯れに過ぎない。

 大人が本気を出さないからと言って子どもが本気にならないわけではないように、タジが安易に人を傷つけようとしないからといって、突然現れた三人がタジ相手に容赦をしないわけではないのだ。

 それが証拠に、ムヌーグは、もはや直立する甲冑のオブジェクトと化したゲベントニスの足元に短剣をポイと投げ置くと、自前の剣を構えてやや腰を落とした。

 ムヌーグの剣は甲冑姿の二人のものに比べて幅が狭く、厚みもやや薄い。突剣に近く、中距離からの刺突がメインの動きになるだろう。

「あれ?それだと選択肢が減ってるだろ」

 先ほどまではもう片手に短剣を持っていたために、近距離の対応がそちらで行われた。急速に詰めようとした間合いに短剣を置かれただけでタジが無様に尻もちをついたのを考えれば、わざわざ短剣を投げたのは近距離の対応を疎かにすると宣言するようなものだ。

「心配には及びません、タジ様はこの後私に触れることも叶いませんから」

 その言葉はさすがにタジの逆鱗に触れた。

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