食人竜の村 38

 疾風のように森を駆け抜ける。

 頭に入れた地図を頼りにしなくとも、村から出て最初の目印さえ見つければ後は流れるように進むことが出来た。草結び状になっている木の根が次の目印に向かうように伸びているので、目印で足を止めることもなかった。疾風は比喩でもなんでもなく、タジは文字通り森を吹き抜ける風と一体になっていた。

 木の葉を踏む足音すらも遠く背後に追いやって、木々に隠れて見えない太陽が地平線からようやく頭を出そうという頃には、既に目的地に到着していた。

 タジは息をひそめる。

 頭陀袋が一つと、喉首を斬られ血抜きされた羊が一頭、それから人間の大人のものと思われる足が二本、泉の畔に置かれていた。

 タジが気になったのは、頭陀袋がぺしゃんこであったことだった。

 中に入っていたエッセはどこへ消えたのか?

 周囲をうかがう。周りに動物は見当たらない。領主ガルドとタジとの争いで荒れた地面には不自然に盛り土がされている。朝露の湿り気とは別の、つい先ほどどこかから掘り起こした土で不自然に埋め立てたと言わんばかりの様子に、タジは一瞬、その場所に駆け寄ろうとして、強引に体を圧し止めた。

(馬鹿か、生贄を埋めてどうする?)

 何か人間の側に教えられていない儀式的なものである場合を考える。その場合はそこかしこに穴を掘った跡があるだろう。ニエの村からは定期的に生贄が送られているはずで、いちいち新しい穴を掘っていたら泉の周りは穴の跡で荒らされているはずだ。儀式のために特別な穴を掘る場所がある、というのなら、なおさら戦いで出来た不自然な穴を用いて儀式を行う必要がない。

 ミスリードに時間を取られている場合ではない。別のところに注意すべきだ。

 まばたきを一つして視線を泉に戻すと、そこには先ほどまでいなかった人間の姿があった。

 全裸の少年が、肩の辺りまで泉の水につかっている。しとど濡れた黒髪は、先ほどまで水の中に潜っていたことがうかがえた。少年は息もせず、微動だにもせず、そこに潜っていたのだった。何のために?禊のためだ。

「エッセ、無事でよかった」

 少年の無事を確認したタジは、隠れている意味がなくなったので、身を潜めていた繁みを抜け出て、少年に歩み寄った。少年は驚いて身構える。顔色が悪いのは、夜明け方に水浴びをしたためだろう。

「ああ、君は俺のことを知らないよな。俺はニエの村からお前を助けに来た人間だ」

「お兄ちゃんが、助けに来てくれたの……?」

「そうだ。水浴びはなぜしている?その理由は聞いたか?」

「えと、おおかみのすがたをした神さまが、この泉で体をきれいにしなさい、って」

 疑問に思わず唯々諾々と従うのもむべなるかな、大人が信じるものを子どもが最初から疑惑の目で見ることなどないのだ。

「そうか。自分で上がってこれるか?」

 タジは片手を伸ばす。本当は強引にでもエッセの手を取りたかったが、それではエッセを怖がらせてしまうだろうし、人は恐怖の対象に伸ばされた手を信用をもって握り返すことなどまずできない。

「うん」

 返事をしたエッセは、水底を蹴り上げるようにしてこちらへ歩いてくる。それはタジにとってひどくもどかしい時間に感じられた。

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