第142話「エゴ」

 ――沈む。

 どこまでも深い底へと沈んでいく。

 雑多な情報がまるで稚魚の群れの様に周りを擦り抜けていく。

 どの情報も暖かく、優しい。

 幼児向けの童話の世界の様に誰一人不幸になる事なく、幸せで満ち足りている。


 ここはまだ浅瀬。

 全体で言えば、水面を撫でた程度でしかない。

 しかし、これだけでも彼の人となりがわかってしまう。


「優しく、暖かく、それでいて無垢。全てが幸せに満ち溢れていて、それが永遠に続くとしか頭に存在しない。成る程、想像通りの方なのですね」


 アステリシア様は記憶の稚魚を眺めながら、そう呟く。

 確かにその通りだろう。

 捻くれた言い方をするのであれば幼稚な世界。

 ほんの少し治安の悪い界隈を覗き見るだけで、砕け散る夢物語に過ぎない。

 一体どんな風に生きて、何を見てきたのだろう。

 彼には年齢とともに失われていくはずの純真さが宿っていた。

 それをこうして覗き見るのは後ろめたくありながらも、どこか優越感を覚える。

 誰も知らない彼を自分一人が独占しているようで、下腹部がとても疼いてくるのだ。


「そろそろ層に到達しますね。少し気合を入れたほうが良いかもしれませんよ」

「……はい」


 考えていた事を見透かされたのだろう。

 私は緩んだ気持ちを引き締める。

 そうだ、アステリシア様の言うようにここからが本番なのだから。

 私は永遠と続くように見える水底へと視線を向ける。

 潜ると言っても物理的に下方に降りれば良いわけではない。

 そもこの空間では上も下もありはしない。

 主である心象の赴くままに。

 物理法則すらも主が非と言えば、捻じ曲げれてしまう。

 しかし、ただ無秩序に混在している訳でもなく、ある程度の纏まりを持って存在する。

 それが幾つもの層に隔てられて織りなっているだけだ。

 故に私達は層を超えなくては次に進めない。


「――――っ」


 それからどれほど潜航しただろうか。

 深海から突然空中に放り出された様な感覚に見舞われる。

 漸く層を超えたのである。


「あらあら、これは……」


 逸早くアステリシア様が感嘆の声を上げる。

 目を見開くと、私達は巨大な屋敷の庭に立っていた。

 何処の山奥だろうか。

 周囲を見渡しても山しか存在しない。

 田舎だとか寒村だとかそう言うレベルの話ではなく、人の手が入った人工物すら屋敷以外には存在しない。

 恐らくは陸の孤島……と言うよりは陸の無人島と呼んでも差し支えない程の山奥に存在するのだろう。


「これは彼の住んでいた場所をモデルにした心象風景でしょうね。自己紹介のときにも山奥に住んでいると言ってましたし」


 私は辺りを分析しながらそう言う。

 完全にそのまま、と言うわけではないだろうが多大な影響を受けているのは確かだろう。


「となると、居るとすれば自室でしょうか? 或いは外で遊び回っているのかもしれませんが……」

「外は範囲が広いので、先に屋敷内の探索を――」


 そう言いながら私は屋敷内に続く扉に手をかけた。

 その瞬間――。


『――――ダレダ?』


 赤い絵の具を垂らしたキャンパスの様に、世界は赤へと反転した。

 まるで照明のスイッチを赤に切り替えたかの如き唐突さで。

 いや、それだけではない。

 反転と同時に手をかけた扉は血肉へと変わり、格子は骨へと変わっていた。


『――ダレダ?ダレダ?ダレダ?』


 急いで手を離すがもう遅い。

 山奥で景色と融和する形でひっそりと立っていた屋敷は、ホラー映画も斯くやと言った具合に血と肉と骨だけの景色に変貌していた。

 地面は血肉の蠢きあう絨毯となり、辺りの木々は骨の幹に肉の葉が生い茂っている。

 そして血肉溢れる地面から、肉の木から、骨の屋敷から、夥しい数の化物が出現し始めた。


「侵入者向けの防衛システム、の様なものでしょうか。今まで様々な方の精神なかみを覗いてきましたが、ここまで過剰なものは初めてです。何でしょうか、当人以外の別の意思を感じますね」


 血肉と骨で構成された化物に囲まれながら、アステリシア様は余裕の表情で観察していた。

 まるで動物園で珍しい動物を見つけたかの様な口調である。

 同じく私も知らず知らずの内に口角が釣り上がっていくのを止められない。

 この化物達の存在が、どういう意味か瞬時に理解できたからだ。


 ――なるほど、コレなら確かに過剰にもなるというもの。


 私は胸が熱くなりながら、一歩前に進む。


「フフ、Bの力を持つ妖魔が10体以上。成る程、これは盛大な歓迎だな」


 私は瞬時に完全妖魔化する。

 現実世界では面倒な封印を開放しなければならないが、生憎ここは精神世界だ。

 多少の無茶は気合と根性でどうにでもなる。

 何より、彼ら相手に手を抜きたくはなかった。


「殺してはいけませんよ?」

「無論です。――――っ!!」


 一番初めに突進してきた一角獣の化物を、私は両腕で止める。

 貨物列車でも突っ込んできたかの如き衝撃と共に、私は数メートル後退した。

 防御不能の刺突を、こんなレベルで放つのだ。

 昔の私であればただの一撃で戦闘不能になっただろう。

 私は相手を見据え笑う。

 一番槍は彼女こそが相応しい。

 自分と同じ領域で彼を想っている彼女こそが相応しいに決まっている。


「あぁ、一目見れば分かるさ、なあ、クリスティナ―――ッ!!」


 そうだ、気づかない訳がない。

 見かけこそ違えど、これは私の好敵手の妖気だ。

 そして周りを注意深く感覚を研ぎ澄ませば、大凡の正体も判別できる。


「ユニコーン、雪女、鬼、吸血鬼、白澤……そして夢魔」


 全て全て、彼と親しい妖魔ばかりだ。

 それが意味する事は即ち――。


「護っているのだな、彼を。そしてそこに夢魔わたしが居ることを、こんなにも嬉しく、誇らしく思ったことはない」


 地獄らくえんの様な風景を前に、自然と目尻から一筋の涙が溢れる。

 だからこそ全力を持って応えよう。

 妖気だけとなっても、彼を自らの意志で守り続ける彼女らの誇りに答える為に。


「おおおぉぉ――――っ!!!!」


 全身の妖気を両腕に収束し、目の前のユニコーンを投げ飛ばす。

 現実世界では受け取った血の力の半分も発揮できていないが、ここでは別だ。

 夢の中であるなら私は己の性能を100%発揮する事が出来る。

 Aランクを超え、Sランクすら打倒できる原初の夢魔へと成る事が出来るのだ。


『ユルサナイユルサナイ、カレヲキズツケヨウトスルモノハ、ダレデアロウトユルサナイ』

『ジャマダキエロ』

『ワタシトカレノジャマハサセナイ』


 野性的な雄叫びを上げながら、彼女達は津波の様に押し寄せてくる。

 理性など元よりないのだろう。

 何よりここは彼の中で、私は侵入者だ。

 それ以上の理由など彼女等は必要としない。


「さあ来い!! キミ達の敵は此処だ。ここに居るぞ――――ッ!!」


 翼を広げ、私は銃弾の如く飛び出す。

 音を抜き去り、荒れ狂う津波の先頭を走る妖魔達を弾き飛ばした。


『コロスコロスコロス』


 呪詛とともに幹の様な太さの氷柱が眼前に迫る。

 これは雪女の力だろう。

 だが明らかに刹那嬢の力よりも遥かに強い。

 ランクが一つ、或いは二つほど上がっている。

 彼からの恩恵か、或いは肉体という楔から解き放たれた結果か。

 何れにしてもここに居る彼女達は大なり小なり強化されている。


「――フッ」


 刀剣よりも鋭くなった爪で、氷柱を切断する。

 豆腐の如く氷柱は五分割され、崩れ落ちていく。

 だが休む間もなく妖魔達はありとあらゆる方向から追い縋ってくる。

 世界全てが敵なのだ。

 安全な場所など何処にもなく、四面楚歌である。

 空を飛べるものは空から、地を這うものは跳躍して、或いは仲間の体を踏み台にして襲いかかってくる。

 そこに戦略と言うものはなく、獲物に群がる蟻でしか無い。

 思考が単純であれば、対処もまだやりやすい。

 私は魅了でコントロールを奪った氷柱をそれぞれに飛ばす。

 切断された氷柱は鋭さを増し、氷の刃とかした氷柱は周囲の妖魔を斬り裂いていく。

 しかし――。


「オチロオチロオチロオチロ」

「ジャマダジャマダジャマダ」

「ツブセツブセツブセ」


 やられた仲間など物ともせず、寧ろ更なる勢いをまして襲い掛かってくる。


 ――彼女達は強い。


 それはスペック上だけの話ではない。

 多少のダメージなど怯みもしない軍勢。

 魅了で同士討ちを狙おうにも、彼に対する想いが強すぎてレジストされる。

 体が欠損しようと、直ぐに辺りの血肉を取り込み再生する。

 殴っても切っても蹴っても叩き潰しても、何度だろうが立ち上がる。


「コレが……コレがキミの見ている光景なんだね」


 私は不死者の如く蘇り、立ち塞がる彼女達の姿を見ながら、目を細める。

 湧き上がる感情は恐怖でも戦慄でも忌避でもない。

 此処は彼の精神世界。

 戦うという意思は彼女達自身の物だろうが、その強さは彼が思い描くものに相違ないはず。

 即ちこれは、いやこれこそが彼の中のイメージなのだ。


「あぁ、つまり――」


 彼は私達の事を役立たずや足手纏いだと考えるどころか、こんなにも強く頼りになる存在としてイメージしているのだ。


『――さんならきっとこう戦ってくれるはず』

『――さんはこんなにも凄い』

『――さんはもっと出来る』


 空間に溶け込んでいる彼の思念おもいを読み取る。

 それは何と尊い想いなのだろうか。

 現実の私達はこんなにも弱く、醜く、浅ましいと言うのに。


「だが私はもう弱いだけの存在ではない。今ここに証明してみせよう。私はキミの想像を凌駕し、キミを助けることが出来るようになったのだから」


 私は高らかに宣言すると、有言実行に移すべく力を振るうのであった。



 †



「不謹慎かもしれませんが、これはいい修行になりますね」


 アステリシアは遠巻きにシルヴィアの様子を眺める。

 その表情は弟子の成長を見守る師匠の様であり、子の成長を見守る親の様でもあった。


「私はその間に次の階層への入り口を探しましょうか」


 アステリシアは己の周りに伏せる夥しい数の妖魔達を見ながらそう言う。

 もし仮にこの階層に彼の意識があるのであれば、妖魔達は襲うのではなく護るように彼の元へと集結しただろう。

 何故なら夢魔の王たる彼女がいる。

 彼女の存在に比べれば他の如何なる要素も驚異たり得ない。

 それがない以上、アステリシアは早々にこの階層に見切りをつけたのだった。


『キケン、オマエハキケン。ハイジョスル』


 Aランククラスの妖気を滾らせ、妖魔は襲い掛かってくる。

 現在この場で最も危険な存在は、言うまでもなく魔王であるアステリシアだ。

 そのアステリシアに戦力が向かわない訳もなく、継続的に妖魔が送り込まれている。

 だが――。


『グ――』


 ある一定の距離まで近づいた瞬間、その妖魔は膝を折った。

 まるで進めと戻れを同時に命令された結果、止まってしまったかの様に。

 必死に体を動かそうと藻掻くが、プルプルと痙攣するだけでそれ以上動く事はない。

 これが彼女の持つ能力。

 万物全てを誘惑し、支配する魅了の魔眼。

 これが存在する限りAランク以下は無論、Sランク妖魔ですら膝を折らざる負えない。


「やはり完全なコントロールは難しいですね。これでも少し本気なのですけれどね」


 周囲全てを魅了の魔眼で完全に動きを止めながら、アステリシアは屋敷に向かって歩き出す。

 今や屋敷全てが血肉と骨で構成され、外敵を阻む要塞と化していたがアステリシアはバラ園の散策でもするような面持ちで足を踏み入れる。


「こうも赤と黒と白しかない世界だと、どれがどれだかわからなくなりますね」


 肉の廊下を踏みしめながら、アステリシアは辺りを観察する。

 肉の障子、骨でできた畳、血で描かれた掛け軸。

 どれも醜悪でまともな感性の持ち主であれば吐き気を催す光景ではあるが、彼女自身はこれはこれで、程度にしか感じていない。

 妖魔として、魔王として感性が人間と違うと言う事もあるが、それを考慮しなくても彼女は嫌悪感すら感じていなかった。

 何故なら

 何千年と人間と寄り添って生きてきた彼女にとって、この光景は寧ろ美しさすら感じてしまうのだ。

 コレは負の感情で生まれたものではなく、主を護ると言うその一心で出来上がっているものだから。


「さて、このあたりが怪しい気がするのですが……」


 アステリシアはとある部屋の扉の前で止まった。

 眼前には三つ部屋が並んでおり、その二つに挟まれる形でその部屋はある。

 アステリシアがその両隣の部屋を調べず、先にその部屋を調べようと思ったのは理由、というより至極単純な事情からだった。

 その両隣の二つの部屋だけは血肉で覆われていないのである。

 まるで血肉すらその部屋を避ける様に、その部屋だけが正常なのだ。


「やはりここですか」


 アステリシアは扉に触れると、確信を持った声で頷く。

 扉から思念を読み取り、その中身を理解した結果だった。

 血肉に覆われていて、目視では判別がつかないがここがキョウの部屋なのだろう。


「では、もう少しルヴィの修行を眺めてから出発するとしましょうか」


 未だ外で死闘を続けるシルヴィアを横目に、アステリシアは頬に手を当ててほぅっと息を吐くのであった。

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