第137話「寝技は得意です。夜の寝技はもっと得意です」
「まさかあれだけの量を取り込んでも自我が崩壊しないとは思いもしませんでしたね……」
アステリシアは二人の決闘を観戦しながら独り言つ。
当初アステリシアが予定していた量は総量で数滴程度。
それを極限まで薄めて毎日体に馴染ませるつもりだったのだ。
対するシルヴィアの体に眠る根源の血は1滴未満である。
そこに数滴を投与するという事は、今まで満ちていた器に数倍の量の水を流し込むに等しい。
普通であれば器が堪えきれず崩壊するのは自明の理。
仮に堪え切れたとしても、その後始まるのは器の変革である。
満ちる血の濃さに相応しい器……つまりは祖であるアステリシアの体により近くなるように細胞から造り替えられるのだ。
それには想像を絶する肉体的苦痛と血の本能による精神汚染を伴う。
生物として祖先とは言え、別種族へと生まれ変わるのだから当然の対価である。
故に自我が僅かに残っていれば成功と言えるだろう。
「その血を初日から10滴以上取り込み尚、自我が揺らぐ事なくあるなんて、貴方は本当に……」
アステリシアは己と同じ髪色に変わっているシルヴィアを見て、染み染み呟く。
期待はしていただろう。
予測もしていただろう。
それは気が遠くなる程の時間と数多の人を見続けた故に備わる感覚。
即ち経験則である。
問題があるとすれば彼女はその経験則すら上回り、新生した事だろう。
「っ?! その妖気……まさか?!」
若は外れた右肩を嵌めながら、驚愕の表情を浮かべた。
先程までランクB程度だった妖魔の妖気が、急激に跳ね上がったからである。
いやそれだけでは済まない。
鍍金が剥がれるが如く、妖気が変質しているのだ。
これが魔王より受け継いだ彼女の新たな妖気。
魅惑の気配を放ちながらも、どこか荒々しくもあった。
「あぁ、すまない。恥ずかしい話、まだ力をうまく制御できていないんだ。少し力を使うだけでこんな風に
蝙蝠の様な翼を広げ、シルヴィアは悪戯がバレた子の如く微笑を浮かべる。
その妖気はAランクの中でもトップクラスの若の妖気を凌駕しそうな勢いで広がっていた。
一瞬、本気の己を超えた彼女を幻視し、若は首を振る。
そんな事はありえないし、有ってはならない。
若は実態を見極めようと目を細め、
「かっか、幻覚能力で己の妖気を誤認させておったか。これは一本取られたわ」
「卑怯と言わないのか?」
「言ってほしいのか?」
両者は笑みを浮かべながら同時に駆け出す。
二人の移動の余波により突風が巻き起こり、衝撃で地面が割れる。
「どちらでも構わないさ!! 私は最早そんな些末な事など拘りはしない!!」
無数のフェイントの中から繰り出される蹴りを、シルヴィアは的確に見抜き避ける。
新生したとは言え、彼女は攻撃全てを読めている訳ではない。
依然として若は大妖クラス最速の妖魔であり、その速度は同クラス同士であっても驚異的な速度である。
速度を競うと言う領域ではどうあっても遅れを取るしかない。
「幻覚? いや違うの、誘導させられている。そういった方が正しいかの」
若は休む事なく攻撃を続けながらそう呟く。
戦闘に於いて速度が占める割合はあまりにも大きい。
先手必勝、攻撃を受ける前に相手を倒せば防御など必要なく。
また相手の攻撃手段よりも速ければ、避ける事など造作もない。
無論そう理論通りに進む戦闘ばかりではないが、シンプルに強いを地で行くステータス。
故にその若を持ってして攻めきれないのは詰まる所、何らかの
如何なる手段を持ってか、シルヴィアは若の無意識に介入し、攻撃場所を誘導しているのだ。
「残念ながらコメントは無しだ。それが真剣勝負というものだろう?」
「あぁ、そうじゃ。それでよい、それでこそ決闘を受けた甲斐があるというものじゃ――ッ!!」
若は大きく後退し、鴉の如き漆黒の羽を羽ばたかせる。
溢れ出る妖気は完全妖魔化前だと言うのに、空間が歪む程。
彼女も美鈴と同じく大妖クラスに収まっているのがおかしなレベルの存在だ。
その実力の一端が垣間見せようと言うのだ。
若は羽団扇を左手に出現させ、自身の周りを円を描く様に扇ぐ。
それに伴い発生した風がその体を覆い始めた。
自然現象を操作し、自在に操る能力。
これが天狗の『神通力』と呼ばれる能力の一つである。
「今回は傷つけてはならぬ者など居らぬからの。存分に行かせてもらうぞ」
吹き荒れる風は爆発的に回転数を上げ、瞬時に災害レベルの暴風へと成長していく。
妖気と同化した風刃は砂塵を巻き上げ、吸い寄せられた草木を粉微塵へと変えてしまう。
例えるならば、形の無い巨大な削岩機とでも言うべきか。
そんな悪夢を前にシルヴィアは笑みが溢れた。
若の力が桁違いなのは前回の時点で理解している。
故にこの程度は十分予測の範疇という訳だ。
「――ふふ、あの時見た技か。あの時よりは随分と規模が大きくなっているようだが……」
迫りくる竜巻を前にして、シルヴィアはすぐさま身を守る様に妖気を収束させて離脱行動に移る。
だが吹き荒れる暴風が移動の邪魔をし、完全には回避できずに跳ね飛ばされた。
「くっ……」
「思った通り、範囲攻撃の誘導は難しいようじゃの? それにこの暴風に曝されては魅了も大した効果もあるまい?」
若は風の軌道や、巻き上げた砂塵が障害物と接触していないか確認しながら、蛇行運転でシルヴィアに迫る。
夢魔の持つ幻覚能力や催眠能力は情報を誤認させる事が出来ても、弊害で起きた違和感を消す事は出来ない。
例えば辺りにある木をシルヴィアと誤認させるとする。
言葉、仕草、感触、匂いなどは誤認させる事が出来るが、世界に対する木とシルヴィアの差異までは誤認させる事は出来ない。
風が吹けば幻覚で消そうとも枝葉は揺れ、風の流れに齟齬が生じてしまうのだ。
その微小な齟齬が違和感を生む。
そしてその差異を際立たせるのは簡単だ。
その場を荒らせばいい。
詰まる所若が行っている行為は、それを更に乱暴に行っている様なものである。
「確かにこれでは効果が薄くなるかもしれないな。しかし、本当にどこまで加減して私達の相手をしていたんだ? 今のコレもまだ本気じゃないのだろう?」
「かっかっか、牛刀割鶏、鶏を割るのに牛刀を用いる阿呆が何処におる?」
そう言いながら若は再びシルヴィアを跳ね飛ばす。
今度は上空高く、舞い上がる様に。
切り刻まれた体から血潮が吹き出し、霧散していく。
「フッ、別に怒っている訳ではないさ。寧ろ今となっては好ましいとさえ思えるよ」
態と上空に跳ね飛ばされながら、シルヴィアは眼下に竜巻を捉える。
超高速で吹き荒れる竜巻は外部からの接触を阻み、近づくものを風刃で切り刻む。
前後左右隙の見当たらない攻撃ではあるが、360度総てにおいて死角無しと言う訳ではない。
台風の目、即ち中心部上空には無風地帯と呼ぶべき間隙が存在する。
劣化状態とは言え、一度見た事のある彼女がそれを見抜いていない訳はなく――。
「――相手が自ら私に勝利を献上しようというのだ。こんなに嬉しいことはないよ。なあ、若嬢――ッ!!」
「かっかっか、ほざけ若造。そういう言葉は勝ってから言う物じゃ――――ッ!!」
吸い込まれる様に、シルヴィアは竜巻の中心点へと落下していく。
増え続ける裂傷を気にする事無く、敵のいる元へただ迷いなく一直線に落ち続ける姿はまるで一筋の流星である。
「それで奇襲のつもりか? それとも攻略したつもりか? かっかっか、甘い甘い甘すぎるのっ!!」
攻撃する隙が一箇所しかないのであれば、そこを警戒するのも自明の理。
寧ろ若は初めからこれを破られる事前提で使用しているのだ。
対策は当然盤石であり、寧ろ罠に掛かった獲物を舌舐めずりして待ち侘びていた。
妖気の込めた拳を握りしめ、若は蟻地獄へと落ちてくるしかないシルヴィアに対してニヤリと口角を歪める。
迎撃準備は既に完了済み。
後は逃げようのない暴風の檻の中、必殺の一撃を叩き込むタイミングを計っていた。
「私が甘いか。あぁ、構わない。誰がどう私を評価しようと拘らない」
急降下しながらシルヴィアも同様に拳を握りしめ、体を引く。
迎撃に対して力技で真っ向から叩き潰そうというのだ。
狙うは互いに必殺の一撃。
手を尽くし、策を弄し、且つ相手の罠ごと喰らい尽くす覚悟で叩きのめす。
戦いの醍醐味を前に、二人は同時に笑った。
「――経緯がどうであれ、勝つのは私だ!!」
「抜かせ――ッ!!」
両者互いに全妖気を拳に込め、全速力で激突しに行く。
「「――――ッ!!!!」」
速度という地平では若が圧倒的に有利。
加えて相手は狭い竜巻の中を落下中である。
初めの時の様に初撃を辛うじて避ける事が出来たとしても、この狭い空間内であればその後の連撃からは逃げる事も敵わない。
若はほぼ半ば勝利を確信して渾身の右ストレートを放つ。
事実、シルヴィアは拳を放たれれば耐える事しかできないだろう。
しかし、それを止めようにも最早二手、三手遅い。
音速を軽く超える拳がシルヴィアの顔を捉える。
その瞬間――。
「はっ?!」
若の右腕はシルヴィアの顔をすり抜けた。
まるでホログラムの様に映像だけが存在し、実体が存在しない。
瞬時に若はそれが幻覚だと理解する。
シルヴィアは速度の有利を覆す為に、先に幻を殴らせる事によって若の初動を終わらせたのだ。
だが――。
「だから甘いと言っておる!! これも読んでない訳がなかろう――ッ!!」
若はシルヴィアの後ろに微かに見えた影を目敏く捉える。
横にスペースがない以上、逃れられる場所は後方しかない。
若は振り切った状態のまま、飛翔する。
距離を詰め、振り切った右腕で裏拳を振るうと言うのだ。
物理法則がネジ曲がったかの如き速度で舞い戻る右腕。
信じられない事に、その速度は既に攻撃を始めていたシルヴィアよりもまだ速い。
故に結果は変わらず若の勝ちである。
凶悪なまでの速度と大量の妖気を纏った拳が、防御ごとシルヴィアを打ち砕く。
「――フフッ、同感だ、同感だとも。だからこそ私もそれを読んでないわけ無いだろう?」
幻であるはずのシルヴィアが口角を釣り上げ笑う。
まるで罠に掛かった獲物を見る様に。
若は一瞬目の前のシルヴィアに視線を送るが、直ぐに無視してその後方にいる影へと意識を戻す。
この場で不味いのは判断を誤る事ではない。
どっち付かずで結果、選んだ選択自体すらも仕損じる事である。
初めに殴りかかった相手は、実体無くすり抜けた。
これが全てで、それ以外の
若はこれは幻だ、自分の判断は間違っていない、と強く言い聞かせて迷いを消し飛ばす。
それを――。
「あぁ、素早い判断だ。考えなしでもなく、優柔不断でもなく、お手本のような思考回路と言っていい。だが勝つのは私だ」
眼前まで迫っていたシルヴィアの幻は、若の右首横と左脇下に両腕を通し、拘束する。
その体は幻などではなく、しっかりとした実体を持っていた。
「これもまやかしか?! いや、これは――」
「気が付いた所でもう遅い、これでチェックメイトだ」
抱きついた状態から勢いそのままにシルヴィアは若を地面に押さえ込むと、肩固めに移行する。
若は自由な右腕で引き剥がそうとするが、その腕はシルヴィアの体を透過した。
「幻じゃったのは儂の右腕か?! だとしたらまさかあの時から儂は術中に……」
「あぁ想像の通り、右肩を嵌めようとした時に幻覚を掛けた。右肩が嵌ったと思い込ませる幻覚をね」
ぎりぎりと若の頸動脈を締め上げながら、シルヴィアはネタばらしをした。
あの時シルヴィアの妖気の桁が跳ね上がったのは、若に幻覚を掛ける為である。
非常に巧妙な妖気コントロールを要求される為、自身の擬態に注力する事が難しくなったと言う訳だ。
「じゃがこれでは最初と同じじゃ。再び弾き飛ばして仕切り直し……に……?」
言葉を言い切ろうとした矢先に、若の視界がぼやけてくる。
それと同時に瞼が自然と降り始め、強烈な眠気が若を襲った。
酸素の供給不足、と言う要因もあるがそれにしては異常である。
妖魔である若が数分程度で落ちるなど有り得ないのだ。
「言ったろう? チェックメイトだと。私が夢魔だということを忘れたのか。このまま強制的に夢の中へ延長戦と行こうか。何、心配しなくてもいい。私は寝技が得意だが、夜の寝技はもっと得意だ」
「ま、待て、待たぬか?! 何をするつもりじゃ、貴様っ?!」
「勿論ナニだ」
甘く艶っぽい声でシルヴィアはそう囁く。
その瞬間、若の全身は裸で南極にでも送られたかの様な鳥肌が立つ。
余程その光景が生理的に無理だったのだろう。
「~~~~!?? わ、儂の負けじゃ。降参する」
夢の中に引き摺り込まれては堪らないと、若はすぐさま降参する。
それもそのはず。
夢魔にとって夢の中とは独壇場であり、全てが思い通りになる非現実世界。
現実で拮抗する様な能力を持つ夢魔相手に、夢の中に引き摺り込まれたらそれこそお終いなのである。
何より夢魔が見せる夢は淫夢の類だ。
ある意味地獄よりも酷い目の合わされるのはわかりきっている事柄だろう。
「…………」
「や、やめ……降参じゃと、言って、おるじゃ……ろう、が」
だが若の言葉に反して無言で締め上げ続けるシルヴィア。
流石の事態に焦っているのか、若は必死の形相でタップしながら抗議の声を上げる。
そんな若にシルヴィアは大真面目な顔で口を開いた。
「いやふと脳裏に過る言葉があってね。『勝負事において卑怯も糞も無い。持てる総てを賭して戦ってこそ真剣勝負』。だとすれば嘘も十分あり得るだろう?」
「う、嘘ではない。本当に儂の負けじゃ!!」
「それに――」
シルヴィアは一転して妖艶な笑みを浮かべ、若の耳をぞろりと舐める。
舐め上げられた若は全身が硬直し、思わず身震いしてしまう。
完全に捕食者と非捕食者の構図が完成していた。
「ここで一つ、
シルヴィアがそう言った瞬間、辺りの空気が十数度下がったかの如く冷え込み始める。
それは即ち本気で若が怯えた証だった。
漸く垣間見えた彼女の本性に、シルヴィアは満足気に目を細める。
「なるほど、少しおかしいとは思っていたが、やはりそういう事か」
シルヴィアはあっさりと若を離すと、意味深な言葉を吐く。
若は少しばつが悪そうな顔でそっぽを向いた。
「…………文句は受け付けぬし、質問にも答えぬ。儂の負け、ただそれだけじゃ」
「何らかの事情があるのだと推察するが、気にすることはない。何れにせよ本気を出される前に叩き、私が勝利する。ただそれだけだ」
寝転んだままの若に背を向け、シルヴィアは歩き始める。
若はその背に視線を向けようとして目を見開く。
その瞳には上空を飛行する鋼鉄の機体の姿が写っていた。
「何故、こんな所に
予想外の光景に視線を奪われていると、それらは彼女等を取り囲む様に降ってくる。
全長凡そ十五メートルもある機体が三機。
それも銃火器を携えた戦闘態勢である。
その光景に流石のシルヴィアも若も驚きを隠せない。
「見つけたぞ、夢魔。良くも仲間を闇討ちしてくれたな?」
「闇討ち? 何のことだ」
「問答無用!! 記録残っていた妖気と一致している以上、証拠は既に揃っている」
三機の装甲戦機は所持しているライフルの銃口をシルヴィアに向けると、トリガー に指をかける。
聞く耳を持つ気は初めから無く、ただ抵抗せず捕縛されるか、抵抗して殺されるかの二択を突きつけていた。
その問答無用の危急の事態に、シルヴィアはゆっくりと笑みを浮かべた。
「記録? 証拠? 残念ながら私はまだキミ達とは戦ってはいない。勿論戦うつもりではあったんだがね」
「戯言を。これが最後の警告だ。おとなしく私達に捕縛されろ。抵抗すれば殺す」
「すまないが拘束されるわけにも、殺されるわけにも行かない。私にはすべきことがある」
「私たちは警告したからな? さあ、撃て――ッ!!」
シルヴィアが拒否すると、僅かな躊躇の後トリガーが引かれる。
威嚇射撃などではなく、完全に手足や胴体を狙った射撃。
無情な炸裂音が、新たな戦いの幕開けを告げるのであった。
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