第96話「女の子に可愛いと言ったらトイレに逃げられた」

 識は込み上がる衝動を抑えながら両目を手で覆う。

 病魔厄災を退ける白澤であっても、この苦しみからは逃れる事は出来ない。

 その眼が答えてくれるのは退ける方法であり、実行できるかどうかはまた別だからだ。

 例えばその方法がと言った類のものであると、今回のような状況では実行できない。


「くそっ、『唇』が瞼から消えやがらない」


 識は瞼の裏にこびり付いた光景に悪態をつく。

 それを思い浮かべるだけで激しく動悸し、思考能力が低下する。

 理性は刻一刻と削られ、体の奥底から溢れ出る欲望に支配されつつある。

 あの唇にキスされたい、あの唇に胸を吸われたい、あの唇に――。

 そんな欲求がぐるぐると識の脳裏を回り続ける。

 理性や気合の問題ではないのだ。

 他でもない識の肉体そのものがそれを望み、快楽物質を放出し続ける。

 識はまるで発情した獣の様だと自嘲し、大きく息を吐く。


「す~は~、す~は~」

「?」


 そんな吐息に合わせるように、近くから大きく深呼吸する音が聞こえる。

 識はそこで初めて手を外し、何も見ずに入ったトイレを確認した。


「――今朝のランニングで使用したシャツ……。やっぱり親友は最高だぜ」

「……おい、こんな所でなにしてるんだ、お前は」


 識が視線を向けた先には白いシャツを顔に押し付けながら深呼吸している輪廻ヘンタイが居た。

 今までは鳥の姿を象っていたので多少の変態行為は気にしていなかったが、今回は人型である。

 その状態で使用済みのシャツを顔に押し当て、森林浴でもするかのように深呼吸しているのだ。

 流石の識も突っ込まざる負えなかった。


「何だ、お前も一服しに来たのか。けど悪いな、これはあたしのだから」

「いやお前のじゃないだろ。あと、タバコみたいなノリで変態行為誤魔化そうとしても無駄だからな」


 うっへっへっへ、と気持ち悪い笑みを浮かべながら嗅ぎ続ける輪廻に、識は呆れを通り越してドン引きする。

 だがそんな識の表情を見て、輪廻は悪びれるどころか物怖じすらしない。


「何だお前、これ吸ったことないのか。気分が落ち着いてすげーいい気分になるぜ。それに痩せるし肌も潤うし、綺麗になれるしで良いこと尽くめなんだぞ」

「どんどん如何わしい薬の勧誘みたいになってるけど、お前のはただの変態行為だからな」

「…………」

「いや更に開き直って無言で没頭するな。とりあえずそれを嗅ぐのをやめろ」

「……やっぱり吸ってみたい?」

「誰が吸うかっ!!」


 やれやれといった様子で、輪廻はシャツを自分の大きな胸の間に収納する。

 識はその光景に突っ込もうとするが、諦めたのか疲れたように溜息を吐いた。

 最早何を言っても無駄だと理解したのだろう。


「――白澤おまえならもうある程度はわかってると思うけど、これ以上首突っ込むのはやめたほうがいいぞ。アイツに何吹きこまれたのか知らないけどさ、このまま行くとキャラがぶっ壊れるぞ」

「盗んだシャツ胸からはみ出させながらシリアスな顔するのやめてくれない?」

「……実はパンツもある」

「ホントいい加減犯罪者として突き出すぞお前」


 スカートのポケットから男物の下着を引っ張りだす輪廻。

 どこまでもブレない輪廻の態度に、段々と識は苛々を募らせてくる。


「でもまあ、さっき言ったことは本当だからな?」

「そうして忠告する割には、キョウとの決闘は勧めるんだな」

「…………前にも言ったけど事情があるんだよ。親友に強くなってもらわないといけない事情がな」


 下着をポケットの中に戻しながら、輪廻はどこか遠くを見るような表情をする。

 先程までの変態行為をしていた人物と同一人物とは思えないほど、強い炎がその瞳を燻っていた。

 識はその瞳である程度の事情を理解する。


「事情ね。どうせ突けば蛇なり悪魔なりが出てくる事情なんだろ?」

「蛇っていうかあれはだな」


 龍と言う言葉に識は目を細めて眉間に皺を寄せた。

 その単語は妖魔にとって特別な意味を持つ。

 種族として見ても鬼や悪魔と同じく世界各地に点在し、一個体一個体が非常に強い力を持つ。

 言ってしまえば妖魔の貴族の様なものである。

 そんなものが出てくる事情など、碌でもないを通り越して災厄でしかない。


「龍か、またとんでもないモノに……。いや、そうだな。元々そう言うモノだもんな」

「今は祝福のろいで襲いには来ないだろうけど、それが解ければほぼ確実に襲ってくる」

「っと言うか、そんな重要な事を私にべらべらと喋っていいのか?」

「ん? あぁ、どうせお前はの二択しか出来ないからな。早めに言っといた方が逃げも対策も取りやすいだろ?」

「ちっ、お前らは揃いも揃って嫌な奴等だな」


 あっけらかんと言う輪廻に、識は苦虫を噛み潰した顔をする。

 自分でも分かっているのだろう。

 聞いた自分がどんな選択肢を取るか。

 そしてそれを読んだ上で輪廻が発言している事も。


「あたしは親友を護る為ならなんでもする。――――文字通り何でも、な」


 輪廻はそう言うと、そのままトイレから出ていこうとする。

 識は瞼を伏せ、見送ろうとするがふとある事に気づいた。


「おい待て、キメ顔で出て行くのはいいが、その他人のパンツとシャツを持って何をするつもりだ?」

「何って……そりゃあ、パンツとシャツの使いみちなんて……ねぇ?」


 輪廻は顔を赤らめ、暗黙の了解とでも言うようにその先を濁す。


「そうだな、一つしかないな。履く以外の用途なんてどこにもないよな?」

「むっ……履く、か。なかなかマニアックだな。だが目の付け所は良い、流石と呼ばれるだけのことはある」

「いや本来の用途はそれしかないからな? あとそのニュアンスで呼ぶな、本気で怒るぞ」

「だがその程度の発想、あたしは5年も前に既に辿り着いている。今ではパンツをナイトキャップ代わりにしているくらいだ」

「何をドヤ顔で最低なこと自慢してるんだよ。もういい、いいからそれを渡せ」

「嫌だね、あたしはこれがあれば生きていけるんだ!!」

「いいから渡せ変質者」

「顔射する女に言われたくないね。それにあれだろ? なんだかんだと理由をつけてこれが欲しいんだろ? 顔に履いてクンカクンカしたいんだろ?」

「誰がするか!!」


 二人はキョウの下着を掴むと、互いに引っ張り合いを始める。

 傍から見れば見目麗しい少女達が男物の下着を取り合うという何とも異様な光景だが、二人が物怖じする様子はない。

 寧ろますますヒートアップしている。

 そしてそのまま揉み合うようにドアにぶつかり――。


「っ?!」


 キョウは突然トイレのドアが開き、何故か転がるように出てきたにビクッと震える。

 しかもよく見れば二人が握っているのは、今朝自分が履いていた下着ではないか。

 状況の全てが意味の分からない光景であり、キョウは言葉もなくフリーズした。

 しかしそれも数秒。

 意識を取り戻したキョウは意を決して話しかけた。


「えっと、二人は何してるのかな? と言うか輪廻はどうしてトイレに?」


 流石にそれ自分の下着ではと指摘できずに、キョウは控えめに問いかける。

 普通に考えれば同じ絵柄なだけの可能性が高い。

 何より、もし違っていたら自意識過剰も良いところだろう。

 そんな理由もあってキョウは言及できなかった。


「あ~、えっと~、その~、この建物に隠された秘宝館の扉を探しに……」


 輪廻はキョウから視線を逸らしながら答える。

 誰が見ても苦しい言い訳にしか見えないが、『秘宝』と言う単語だけに囚われたキョウが目を輝かせた。


「泡沫館に秘宝があるんですか?!」

「あぁうん、見る人が見ればお宝というか……」

「それでそのパンツとどう関係があるんですか?!」


 キョウは興奮した面持ちで尋ねる。

 冒険心に火がついたのだろう。

 あわよくば自分もその探検についていきたい。

 そんな言葉が彼の眼にはありありと書いてあった。


「こ、これはだね、そう、秘宝館の扉を開ける鍵なのだよ」

「鍵なんですかっ?! そのパンツがっ?!」

「いやそんな意味わからない嘘に惑わされるなよ」

「え? 嘘なんですか?」


 呆れて溜息を吐く識に、キョウは視線を向けた。

 識は既にキョウの下着から手を離しており、さも自分は関係なかったかのように振舞っている。


「そいつはお前の下着とシャツを盗んで、トイレで匂いをかいでたヘンタイだっての」

「あはは、嫌だな識さん。僕なんかのをわざわざ盗んでそんな変態さん行為する人がいるわけないじゃないですか。僕でも冗談だってわかりますよ」

「……冗談だったらどれほど良かったことか」


 識は遠い目でぼそっと呟く。

 幸か不幸かキョウには聞こえなかったが、代わりに輪廻がダメージを受けていた。


「ぐさっ?!」

「? どうしたの輪廻。大丈夫だよ、僕は輪廻がそういうことをしないってわかってるから」


 心から信じきっている眼でキョウは輪廻に微笑みかける。

 それに伴い輪廻は体中をナイフで刺されたかのように悶絶していた。


「ぐさぐさ――っ?!!! でも、ちょっといいかも」

「無敵だな、お前」


 恍惚な表情を浮かべる輪廻に、識は盛大に溜息をつくのであった。



 †



 輪廻が秘宝探しに僕らの部屋に侵入してから数日後。

 結局トイレの扉は輪廻の勘違いと言うことで終わってしまった。

 僕は残念に思いながらも今はもっと気掛かりな事が出来てしまい、それどころではなくなってしまったのだ。

 その気掛かりな事と言うと、ずばり識さんと美鈴さんの事である。

 あの日から美鈴さんとは表面上普段通りだが、よく視線を感じるようになった。

 識さんとは相変わらず視線が合わないが、毎夜毎夜拘束されて困っている。

 そして今――。


「……うん、やっぱり決闘するしか無いわ」


 お風呂を終えて部屋でマッタリしていると、美鈴さんは突然立ち上がりそんな事を言い出した。


「決闘……ですか?」

「えぇ、色々調べては見たけれど、手掛かりどころかまともな文献すら見当たらないわ。もう八方塞がりよ」

「? それと決闘と何の関係が?」


 僕は意味がわからず、美鈴さんに聞き返す。

 美鈴さんは九本の見事な尻尾を揺らしながら、僕の側に腰を下ろす。


「決闘に勝利すれば事実を知る人から情報を得られるのよ。だからキョウくん、私と決闘しましょう」

「へー、それは大変ですね………………え? 僕?!」

「そう、キミよ」


 驚き仰け反る僕に、美鈴さんは詰め寄る。

 そして僕の手をそっと掴んだ。

 僕は急な出来事にどきりとする。


「お願い、キョウくんともっと仲良くなるために私にはその情報が必要なの」

「えっと……それは決闘しないと無理なんでしょうか? もっと平和的な方法で仲良く……」

「駄目なの、それにこれはきっとキョウくんも知らないといけないことなのよ?」

「僕も知らないといけないこと?」


 かつてない真剣な表情の美鈴さんに、僕は少し心が揺らぐ。

 決闘なんて当然したくはない。

 痛いのは嫌だし、何より誰かを傷付けるなんて以ての外だ。

 それが仲良くなってきた相手なら尚更だろう。


 ――でも。


 美鈴さんが僕を想って提案しているのも事実なのだ。

 だからこそ僕は心が揺らぐ。


「キョウくん、あなたは自分の事をどれだけ知っているのかしら。キョウくんのお父様とお母様は? ご存命の頃どんな仕事をしていたの? どこの生まれでどうやって暮らしていたの? 本当に退魔師と慰魔師の子供なの?」

「え? え?!」


 美鈴さんの怒涛の質問に僕は困惑する。

 それと同時に僕はその質問すべてに自信を持って回答できないことに焦りのようなものを覚えた。

 どうして僕はこんなにも知らないのだろう。

 いや、問題はそこではない。

 どうして僕は

 退魔の力の事に繋がる可能性があるから本能的に避けてきたとはいえ、自分の両親の事をこんなにも気にしてないなんてありえるのだろうか。

 僕は足元の感覚が無くなるかのような感覚に襲われる。


「ね? キョウくんもまだまだ自分のことを知らないでしょ? お互いの事を知らないのに、更に仲良くなろうとするのは無理があると思わないかしら?」

「それは……。そう、ですけど」

「だから私と決闘しよう。それにこれはキョウくんが望んだ事でもあるんだから」


 望んだこと?

 僕はそんなこと全く覚えがなかったが、何故かその時の僕はその言葉に頷くしか出来なかったのであった。

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