第90話「魔を慰める者」
どこかの宮殿を思わせるような豪奢な廊下を識は歩く。
その足取りは病人のように重く、壁伝いに手を掛けながら進んでいた。
「クソっ、下らない挑発に乗った代償がこれか。どうなるか分かっていたとはいえ、想像以上にキツイな」
微熱を帯びる体を忌々しそうに抱きしめながら、識は悪態をつく。
息は荒く、風邪のように顔を紅潮させているが、識はこれが風邪でないことを理解していた。
胸部は授乳婦のように固く張っており、下着に接触してるだけでも甘い痺れを
キョウの唾液がついたコップの口をつけた。
たったそれだけの事柄で、この現象は発生している。
「アイツはこれ以上をずっと耐えてきたのか。頭がオカシイとしか言いようが無いな」
太腿と太腿を擦り合わせ、内股気味に識は進む。
その太腿の内側からは下着に吸収されきれなかった体液が、一筋の雫となり伝わり落ちる。
そしてどこまでも甘美な疼きが識を苛み続けていた。
「それにしても誰が考えたのか『慰魔師』とはね……。魔を癒やす者ではなく、魔を慰める者、魔の慰み者。或いは慰める魔を作る者」
誰に聞かせるわけでもなく識は一人呟きながら、自嘲するように笑う。
彼女が笑っているのは今の間抜けな自分の姿か、或いは別の何かか。
「あぁ、なんだ。ソッチの方が相応しい名じゃないか」
一人納得しながら識は部屋へと向かう。
呪いのような祝福をその身に受けながら。
†
「さあキョウくん、どんどん食べていいからね」
山盛りにされた取り皿を受け取りながら、僕は勢い良くご飯を飲み込んでいく。
お腹はそれなりに満たされてきてはいるが、出される以上食べないという選択肢はない。
何よりご飯が美味しいのだ。
無理してでも食べたくなるというもの。
「ふふ、この気持のいい食べっぷりを見ていると、男の子ってカンジがするわ」
「ほうでふか?」
僕はリスみたいに口の中を食べ物で一杯にしながら答える。
取られないとは分かっているが、食べれる時に食べる様に教え込まれて生きてきた結果である。
一応先程のように詰まらせない様、飲み込む際に注意しながら慎重に飲み込む。
「ほら、口元にクリームが付いているわよ」
「!」
美鈴さんは指で僕の口元を拭うと、イタズラっぽい表情で笑いかける。
そしてその指をそのまま布巾で拭こうとする。
僕はその光景に勿体無いと感じてしまう。
だからとんでもないことをしてしまった。
「えっ?!」
「あっ」
僕は咄嗟に美鈴さんの指を咥えてしまう。
そして咥えた時点でその失態に気付いたのだ。
「あ、あの、キョウくん?! わ、私の指は食べ物なんかじゃなかったりするのだけれど?」
「ご、ご、ごめんなしゃい」
僕は美鈴さんの指を咥えたまま謝る。
それにより激しく美鈴さんの指を舐めてしまう。
「きゃっ?! ちょ、ちょっと、キョウくんくすぐったいわ。それにその、人前だし……」
顔を赤く上気させ、はにかみながらも戸惑う美鈴さん。
普段のどこか余裕のある仕草はどこへやら。
美鈴さんは僕に指を咥えられたまま、オロオロと辺りを見渡す。
「ね、いい子だから離して、お願い。後で好きなだけ舐めさせてあげるから」
「!」
焦っているのか、美鈴さんはそんな事を言ってしまう。
そのセリフにより、食堂の人達は騒然とし始める。
先程まで自分達だけの世界に入っていたのが嘘の様だ。
しかしそんなにおかしな事だったのだろうか。
食堂に来た時は皆似た様な事をしていた気がするのだが。
「ねぇ、あれいいの?」
「好きなだけ舐めさせるってそう言う……」
ヒソヒソと内緒話をしながら、僕達と榊さんの間に視線を交差させる皆。
僕もそこで漸く榊さんの存在を思い出し、恐る恐るそちらへと視線を向ける。
「…………」
榊さんは見ていなかったのか、はたまた興味がなかったのか。
一升瓶をひっくり返してもうお酒が無くなった事に悪態をついていた。
僕はホッとし、咥えていた美鈴さんの指をゆっくりと開放する。
「ひゃん」
「ご、ごめんなさい、す、直ぐにしょ、消毒しますから」
僕は急いで布巾を取ると、コップの水で濡らして美鈴さんの指を丹念に拭く。
それで漸く意識が正常に戻ったのか、美鈴さんは少し余裕を取り戻した。
まだ少し顔が赤いままであるが。
「ず、随分と可愛らしいお魚さんが食いついたわね。で、でもそう言う事はもっと夜に、ね」
メッと言う可愛らしい声とともに、僕は額を突かれる。
僕は夜の意味がよくわからなかったが、とりあえず肯いておくことにした。
「あれがOKなら、食べさせ合いくらい大丈夫だよね。はい、『あーん』」
「――おい、私の前でいい度胸だな?」
他のテーブルの人達が食べさせ合いをしようと、スプーンを持ち上げた瞬間。
榊さんがそのテーブルへと到着していた。
予備動作なしの高速移動、正直瞬間移動したのかと錯覚するほどである。
ドッジボールで対戦したの時点でわかってはいたが、榊さんの身体能力は非常に高い。
直接の戦闘となれば勝てる気が全くしないレベルだ。
「そんなに呪って欲しいか? あぁそうか、いいだろう。望み通り呪ってやる」
「ま、待ってください。わ、悪気はなかったんです。それにあの、生徒会長達だって――」
「ほぅ? いつからお前は此処のルールの基準を決めれるほど偉くなったんだ? 生徒会長がどうした、此処のルールをもう一度言ってみろ」
「さ、榊さんを不快させないことであります」
「で、お前のしたことは?」
「それはその……。お、お願いします、許してください。わ、私初めての彼氏なんです。何でもしますから」
「許して欲しい? ならそれ相応の態度があるよな。――――あぁ、そう言えば酒が切れてたな」
「す、直ぐに買ってきます!!」
ダッシュで食堂を出て行く女子生徒。
その姿を確認しながら、やれやれといった様子で席に戻っていく榊さん。
「…………」
戻る道中僕らのテーブルの前で一旦立ち止まると、眼を細めて此方を見つめてきた。
その体からはほんの僅かに妖気が漏れ出しており、僕は身構えてしまう。
だが、結局榊さんは何も言わず立ち去っていく。
何だったのだろうと、僕は首を捻った。
「――今の、少しだけ能力を使おうとしたわね」
「能力? って、呪いですか?!」
「しっ、声が大きいわ」
美鈴さんは僕の耳元へ顔を寄せながら、そう囁く。
僕は密着しそうなくらい近くに来た美鈴さんにドギマギしながらも、その言葉に耳を傾けた。
「ほんの僅かだったけれど、確かに妖気を巡らせていたわ」
「じゃあ、僕は美鈴さん達と……」
僕は一転絶望の淵へと立たされる。
やはり先程美鈴さんの指を咥えたのがいけなかったのだろうか。
それで榊さんの気分を害して呪いを……。
「い、嫌です。僕は美鈴さんと仲良くなりたいです」
僕は思わず美鈴さんに抱きつく。
これで更に榊さんに睨まれるかもしれないけれど、僕にとっては今美鈴さんに嫌われる方が怖かった。
「ちょっ?! キョウくん、だからこう言うのはもっと夜にベッドのほうで、ね」
突然抱きつかれた美鈴さんは顔を再び赤くしながらも、辿々しい手つきで僕の頭を撫ぜてくれる。
それにより僕の心は少しだけ落ち着く。
「でもこのままじゃ、美鈴さん達と――」
「大丈夫よ。もし本当に呪いをかけられたのなら、掛けられた私はわかるし、それにそもそもキョウくん自身が仲良くなりたいと思えなくなっているから」
目を細め、優しげな口調で美鈴さんは諭す。
僕はその言葉に納得し、ゆっくりと力を抜いた。
「おいあれ、完全に抱きついてるぜ」
「今まで浮いた噂がなかった生徒会長と新入生か。こっちも負けていられないわね」
「――おい」
抱き合おうと両手を広げた二人の後ろに、榊さんは出現する。
まるでくうのような早業だ。
追いかけられればまず逃げられないことだけは確かである。
「でも、念には念を入れて一度きちんと見たほうがいいかもしれないわね」
僕を抱きとめたまま、美鈴さんは立ち上がる。
どこかに行くのだろうか。
僕は美鈴さんの顔を見つめる。
美鈴さんは僕を見返しながら、何か面白いことを思いついたように少し口角を上げた。
「続きは部屋で、ね」
「? わかりました」
美鈴さんは態々部屋にいる人達に聞こえるくらいのトーンで僕に言う。
その事を不審に思うが、何故だか辺りのざわめきが大きくなっていった。
「ちょ、榊さん、あ、アレはいいんですか?! や、やっぱり生徒会特権とか言うやつですか?!」
「だから何度も言わせるな、此処では私がルールなんだよ。私が不快に思わなければセーフ、不快に思えばアウト、単純明快だろうが」
「ひぃいっ?!」
悲鳴が聞こえる中、僕達は食堂を後にするのであった。
†
「で、異常はなかったのか」
泡沫館で割り振られた僕らの自室。
そこで気怠げな様子でふかふかのソファーに寝そべりながら問いかけるのは識さんだ。
既に寝間着であるジャージに着替えており、おまけに妖魔化までしていた。
「断言はできないけれど、私が見た限りはなかった、と言うのが正しいわね。そもそもあなたが見れば一発ではないの?」
対する美鈴さんはまだ制服のまま、上品に窓辺の椅子に腰掛け紅茶を飲んでいた。
此方も妖魔化はしており、狐耳と九本の尻尾が生えている。
何でも基本妖魔の人達も自室では人化の法を解くらしい。
その理由としていつまでも人間で居るのは拘束具を身に着けているようで、息苦しいらしい。
僕は妖魔じゃないのでよくはわからないが、確かにずっと堅苦しい格好をしていたら息苦しくてパンクしてしまうだろう。
「ん、いや今は少し調子が悪くてな」
識さんは普段よりも一段と辛そうな声で答える。
よく見ると熱があるかの様に顔は上気し、呼吸も乱れがちであった。
やはり体調が悪かったのだろうか。
僕は識さんの容態が改めて心配になった。
「そうだったわね、調子は大丈夫なの? 何なら保健室に連れて行きましょうか?」
「いやいい。――――――多分治せねぇだろうしな」
識さんがボソリと何かを言う。
しかしその言葉は聞き取れなく、聞き返そうにも起きたピーちゃんによって遮られてしまった。
「と言うかキョウくん。その鳥、ペットって言っていたけれど、ペットではないわよね?」
羽を広げ、欠伸のようにけたたましく鳴くピーちゃんを見て美鈴さんは遠慮がちに問いかけてきた。
「? 一応ペットという扱いですけど、僕にとっては掛け替えのない友達です」
「いえでもそれ、妖魔よね?」
「はい、
僕がそう言った瞬間、美鈴さんの顔が引きつる。
まるでとんでもない物を知ってしまったかのように。
そう言えばクリスティナさん達もピーちゃんを見て驚いていた気がする。
ピーちゃんはそんなに有名な妖魔なのだろうか。
僕は無言でピーちゃんを抱き上げるが、ピーちゃんはいつも通り僕の鼻に甘噛するだけだった。
「輪廻家の守護神がどうしてここに? 十年以上前から姿を見せなくなったとは言われていたけれど、まさか……」
「? どうかしました?」
「いえ、少し、ね……」
ピーちゃんを見つめながら言葉を濁す美鈴さん。
僕はその様子を不思議そうに見ながらも、視界に入ってきた時計に目が行った。
「あっ、ランニングにいく時間だ。あの、すみませんが僕はちょっと外に行ってきます。お風呂とかは先に入っててください」
僕は持ってきた荷物のタオルとジャージを取ると、その場で着替えようとする。
その瞬間、美鈴さんと識さんは同時に吹き出した。
「ぶっ?!」
「き、キョウくん? 出来れば着替えはトイレとか洗面所でやってくれると助かるのだけれど」
「あっ、すみません」
僕は謝りながらトイレへと避難する。
そうだ、これから共同生活なのだ。
いつまでも男子寮気分ではいけない。
僕はジャージに着替えながら気をつけようと思うのであった。
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